「散歩」という名のコミュニケーション
テレビショッピングで「送料無料!」と謳いつつ「※北海道・沖縄県・離島など一部エリアを除く」と区別されてしまう地、北海道で生まれ育ったので、"地続き"というものにずっと憧れがあった。
十数年前に上京してから、すこし歩けば区や県をまたげて目に見えて人や文化が変わることに面白さを感じ、すっかり散歩が好きになった(同様の理由で新幹線も好き。飛行機よりもわくわくする)。
とは言え、一人で散歩するときは遠くの駅から自宅を目的地にするだけのことが多く、たとえ20キロメートル近く歩いて風景が変化しても、感覚としては、「ルートが概ね決まっているウォーキング」に近い。
それに比べ「だれかとする散歩」はまったく別物だ。
あがり症で人前に出ると言葉が出てこなくなるし、お酒がないととてつもなく人見知りなのに、「だれかとする散歩」ではを挟んで食事をするより断然おしゃべりになる。対面ではなく同じ方向を向いている、リズムを合わせて歩いている、というのがいいのかもしれない。
通り過ぎていく街並みとシンクロして、そこから掘り起こされる記憶、甘酸っぱい過去の恋愛話、学生時代の失敗談、幼少期の思い出、身近で起こったくだらないこと、様々なエピソードトークが広がる。
意識したことはなかったけれど、「だれかとする散歩」はわたしにとって、最も距離の縮まりやすいコミュニケーションのひとつだったのだ。
そして「だれかとする散歩」は、目の前のことが何倍増しにも楽しく映る。
見知らぬ街の商店街に入っただけで、近所のスーパーでなら手に取ることすらなかったであろう旬の果物を買ってしまう。
果物が荷物になっているのにもかかわらず、歩くうちに見えてきた観覧車に乗りたくなる。普段ならスルーする観覧車にうきうきで乗り込み、東京の夜景を見下ろしながらまた新たな会話が生まれる。
西日の位置で場所がだいたい分かるから、とスマホで地図を見ずに歩きたくなる。気が付いたら全然違うところにいたけれど、案内標識を頼りにあーでもないこーでもないと進み、目的地にたどり着いたとき謎の達成感を得る。
「だれかとする散歩」は、スタートからは想像できない結末の一日になる。
次は、どこからどう歩いてみよう。