ゆっくり行く
たとえば乗換案内を見るときも、
旅のルートを考えるときも、
いかに効率的に無駄なく目的地に着けるか、
という視点で考えることが多い。
でも、たまにはその逆の視点で移動してみよう。
ここからあそこまで、ゆっくりと行こう。
そんな発想で旅好きの夫婦が乗ったのは、
奈良県の大和八木駅から、
紀伊半島の真ん中の十津川村を通って
和歌山県の新宮駅までを結ぶ、
日本一長い路線バス。
それは、点と点を結ぶ移動ではなく、
距離と時間が描く線を楽しむ旅だった。
出発から到着まで路線バスで9時間、
それは、贅沢な旅の思い出。
ゆっくり行った人/千葉伸治・亜希子
日本一長い路線バスで旅をした。奈良県橿原市の近鉄大和八木駅を出発、街を抜け山へ入り、峠を越えて、神話の多い十津川村を通り抜け、そして世界遺産の熊野本宮大社を経由して紀伊半島の南端、和歌山県新宮市へ。旅した人は、京都在住で結婚六年目の千葉伸治さん亜希子さんご夫婦。旅好きな夫婦にも初めての路線バスの旅。目的地へ急ぐ移動ではなく、その移動自体が目的の「ゆっくり行く」旅を、二人に記録してもらった。
「期待と不安の旅のはじまり」八木駅(09:15)~五條バスセンター(10:17)
いよいよ乗車。こんなに長くバスにのったことはない。楽しみではあるけど、不安も少し。車酔いに効くという梅干しをお守り代わりに持ってきた。
思いの外、乗降客が多い。出発から30分ほど先のバス停「近鉄御所駅」でハイキングするような格好のご婦人たちが乗車。一日一組限定の豆腐料理屋さんに行くんだそう。楽しみにしている気持ちが溢れていてかわいらしい。下車したご婦人チームと、窓から手を伸ばしハイタッチして別れた。(亜希子)
「街から山へ」 五條バスセンター(10:30)~上野地(12:05)
街の景色だったはずの車窓は、民家の庭のたわわに実る柿の木や、山々の鮮やかな紅葉に変わってきた。
トンネルが続く。トンネルに入ると車窓の景色が遮断されワープするような感じ。トンネルを抜ける度に山の木々が迫り、空の見える範囲が狭まり、山の中に入って行く。
最初のトイレ休憩ポイント「五條バスセンター」で乗車したスーツの男性が気になっていた。山道を走る長距離路線バスにスーツ着用とは、どんな人物なのか。声をかけると公務員の方だそう。ある会議がルート上の地域であるため、せっかくなのでとバスで向かっているそう。地域に詳しく、あちこちに見える土砂崩れの跡が、平成23年に起こった豪雨による水害の名残だと教えてもらった。(伸治)
「恐怖の思い出づくり」 上野地(12:05)~十津川温泉(13:29)
12時半頃にちょうど中間点である「上野地」に到着、約20分間の休憩。ここには「谷瀬の吊り橋」がある。これはぜひ渡ってみたい、と吊り橋へ向かうものの、彼を見ると表情が強ばっている。でもせっかくここに来たんだから! と、ギュッと手をつないで一歩一歩前に進む。揺れと吹き上げる冷たい風に恐怖心を煽られながら、なんとか思い出作り完了。バスに戻り安定した座席でお互いの顔を見たら、とてつもなくほっとした。
上野地からしばらく走った「河津谷」あたりで、ボケ防止のご利益がある神社を通ると運転士さんが教えてくれた。もちろん、私たちもしっかり手を合わせた。(亜希子)
「蕎麦と温泉でひと休み」 十津川温泉(13:29)
「十津川温泉」でいったん下車。二時間半後の次のバスまで、のんびりすることにする。看板もない普通の民家のようなそば屋へ入る。店主のおばちゃんが「お蕎麦大盛りにしといたから!」なんて気前よくサービスしてくれて、なんだか親戚の家に来たようで、ふたりで顔を見合わせて笑ってしまった。お腹も気持ちもすっかり満たされた。残りの時間は、バス停近くの日帰り温泉でひとっ風呂。この旅で初めてのひとり時間を過ごした。(伸治)
「日も暮れて夜へ」 十津川温泉(16:14)~湯の峰温泉(17:09)
山に日が沈みかけた頃、バスが到着。車窓の景色はオレンジ色から薄闇へ、そしてすぐに、夜の気配に包まれた。山の中だからか、夕方から夜への移り変わりが速いよう。
「十津川温泉」から一緒に乗った帰宅中の女子高生二人が降りた後は空っぽだった車内に、「本宮大社前」から外国人観光客がぞろぞろと乗ってきた。一週間かけて熊野古道をトレッキングしているそう。すっかり暗くなった窓の外、フロントガラスの向こうに、温泉宿の灯籠がぼんやり見えてきた。「湯の峰温泉」でトレッキング客がみんな降りて、車中は運転士さんと私たちだけになった。(亜希子)
「長いような短いような」 湯の峰温泉(17:09)~新宮駅(18:21)
「湯ノ峰温泉」から30分ほどの「請川」あたりは、父方の祖父が住んでいて、子どもの頃によく訪れた場所。今は父も祖父も亡くなって、家自体そこにはもうない。懐かしい場所を通り過ぎるひととき、彼女と一緒に父と祖父を想った。
いつの間にか彼女は寝てしまって、自分もつられてウトウト。ハッと気がつくと、外は街灯や看板が夜の街を照らしていて、慌てて降りる準備をした。
167番目の停留所「新宮駅」に着いた。ついに着いてしまった。ただバスに揺られていただけなのに、何かを成し遂げたような達成感に包まれた。座席から立ち上がった彼女も、満足そうな笑顔だった。運転士さんにお礼を言って、二人でゆっくりとバスを降りた。(伸治)
「時間に身を委ねる贅沢」 なれ鮨を食べながら(19:30)
今回の路線バスの旅は、何をするでもなく、ただまったりと朝から夜になるまでずっと、二人で移動の時間を過ごすだけ。退屈に聞こえるかもしれないけれど、実はとても贅沢な時間の使い方だった。
乗ってしまったらもうルートもスピードもバスに任せるしかないから、特に時間を気にすることもなく、窓からの景色を楽しんだり、乗り込んでくる方と会話を交わしたり。そんなドライブともサイクリングとも電車とも違う移動が心地よかった。その場その場で起こることに身を委ねてみるのが、こんなにも楽しいことだったなんて。案外、予定を決めていくよりも行き当たりばったりな旅の方が心に残る旅になるのかもしれない。
今回の出来事は、おじいちゃんおばあちゃんになっても、時折思い出しては話題にしてしまうのだろうな。初めて食べた〝なれ鮨〟の衝撃も含めて。(千葉伸治・亜希子)