食べる支度
採る、植える、調理する。
食べる支度をしに、里山へ。
山で山菜や野草を採り、
里で田植えをしたら、
集めた食材を持って、外で料理を作る。
食材が芽吹いていた野山の風景を思いながら、
その風味を新しいおいしさに仕立てていく。
そんなふうに、外での食材集めから、
ご馳走を準備した料理家は、
どんなことを感じ、
どんな発見をしただろう。
食べる支度は、すべて
「ごちそうさま」のために
食べる支度をした人/遠藤千恵
料理家である私が、ケータリングや出張料理にと日々料理を作るとき、最初に思い描くのは、食材のある景色だ。畑ではどんな野菜が食べ頃だろう、森にはどんなものが生え、実っているだろうか。そんなことを思い浮かべることが、私の「食べる支度」のはじまりになる。
今回も、最初に思い浮かべたのは山の風景。新潟のキャンプ場に田植えに行こうと誘われ、集まったみんなを労う夕飯を作ることになったときのことだ。私は山の風景に思いを馳せ、山菜料理にしようと決めた。
野性も目覚める「収穫」という支度
雨の朝、キャンプ場に到着した私は、早速キャンプ場支配人の案内で、食材を探しに散策に出た。山菜や野草に詳しい支配人は、山菜や野草を見つけては、ひょいとその一部を「食べてごらん」と、手渡してくれる。茎をチュッと吸うと、目が覚めるほどのすっぱさが飛び込んでくるイタドリ。採りたてのウドの皮を剥いてかじると、シャキッとみずみずしくて梨のよう。草むらにすっと伸びるのはフキノトウの花。フキノトウと同じ香りがして、絶妙な苦みもそのまま。それぞれの味はくっきりと、色彩豊かだった。
そうやって歩いていると、さっきまで「ただの草むら」にしか見えていなかった風景が、「食材の宝庫」だったことに気がつく。ウド、フキノトウの花茎、タラの芽、ヨモギ、アケビの新芽、根曲り竹......と、収穫していると、地面に這いつくばる前屈姿勢や、ぐいっと手を伸ばす動作も板について、気づけば、その姿はまるで猿のよう。「山の中で食べる物を集める」という原始的な行為のおかげで、私の中の野生が目覚めたみたい。
いつも私は、食べる支度の中でも、自分の手で食材を採る/獲るときに、最もわくわくする。それは「生きるための営み」として、自分の中の本能が刺激されるからだったからなのかもしれない、と、なんだか腑に落ちた。
食材に触れながら感覚が研ぎすまされる
山菜は、食べる前の下準備に手間がかかる。
タラの芽は、やわらかいながら鋭いトゲを、爪で取り除く。根曲がり竹は、包丁で皮に切り込み入れ、そこから親指の指先を使って剥く。剥いたら、節の部分に包丁を入れ、刃が入りにくい固い根元を取り除く。そうすると、元の三分の一程度の量に。水煮でも売っているが、改めて手間のかかった贅沢品だと実感する。採りたては生でもフルーティだったウドは、アクがまわって、水煮しても顔をしかめる苦さ。さてどうしようかと考え、コンフィにした。コンフィとは、低温でオイル煮すること。じっくり火を通してみると、程よい苦味をそのままに、しっとりと甘みが引き出せた。これは、スライスして鳥のハムとカルパッチョにしよう、と決めた。
メニューは、事前に想定してあったけれど、結局いろいろ変更して、ライブ感たっぷりのメニューになった。野山で山菜を採りながら味見をしているときに、その味が私の中の「食の記憶」と結びついて、料理の構想として膨らんだり、調理を進めながら組み合わせる食材を変更したり。たとえば、ウドの葉。コリアンダーのような強い香りが印象的だったから、サラダにアクセントとして加え、風味づけに参鶏湯にも加えた。フキノトウの花茎で作ったフキ味噌は、じゃがいもと合わせて風味を楽しむポテトサラダにした。たっぷり採れたヨモギは、去年の秋に収穫したお米と炊き上げ、秋の豊作を願って田植えを祝す一品に。
日が暮れた頃、朝から野山を馳せ走り、手に入れた食材で作った「ご馳走」ができあがった。テーブルには、さまざまに姿を変えた山の幸が並んだ。そこへ、田植えを終えたみんなが、お腹をすかせて登場。「すごい!」とびっくりしながら、テーブルいっぱいの料理を、気持ち良いくらいあっという間に平らげてくれた。
翌朝、みんなが「おはよう」の代わりにかけてくれたのは、「昨日はおいしかったよ、ごちそうさま!」という言葉。「食べる支度」は、このためにあったんだなぁ。そんなふうに思いながら、なんとも言えない幸福感が身体の中いっぱいに広がるのを感じた。そして、帰り際、山に、心の中で声をかけた。
ごちそうさまでした。