開店前―「青山に店をつくろう」
無印良品がデビューして1ヵ月経った1981年1月、赤坂「四川飯店」で慰労会が行われた。長い時間をかけて発売にこぎつけた開発スタッフの労を、社長(堤清二さん)がねぎらってくれたのだ。
しかし、スタッフ達はなんとなく居心地が悪かった。マスコミを賑わしはしたものの、実際にはあまり売れていなかった。年末年始の繁忙期、新参者の無印は売り場のスミに押しやられてもいた。
堤さんは中華料理に箸をつけながら、こう切り出した。
「ニューヨーク、青山、六本木といったファッションの先端を行く街に、無印良品の専門ショップをつくろうと思っている」
「えっ!」スタッフ全員がビックリした。まだ発売して1ヵ月、商品も40アイテムしかない。しかも、思うように売れていない。通用するのだろうか...。むやみに反対できない中で、疑問が頭の中をグルグル回った。でも面白そうだ。ぜひやりたいと、ワクワクした。
堤さんは後日、こう述懐している。
──田中一光さん達は、最初から「無印を本気で世に出そう」と言っていた。無印をホンモノにするためには、ニューヨークや青山に出した方がいい。西武や西友の中では目立たない。私もそう思っていた。青山のバー「ラジオ」で夜遅くまで議論した。
しかし西友の役員会では反対が多かった。当時は郊外型モールが全盛で、頭がそっちに行っていた。でも専門店は違う。専門店なら、まず都心、しかも山手線の内側でないと「発信」ができない。多様な価値観は、都市でこそ受け入れられると思った。
お客様やマスコミの反応を見ると、そぎ落としたシンプルさを「ファッション」として捉えている。たくまずして生まれたファッションを、ファッションの街・青山に出す...これは面白いと思った。──
しかし「四川飯店」から青山開店までには、さまざまな準備と手続きで、2年以上の歳月を要した。
そして今、無印良品は、ニューヨーク、青山、六本木に出店している。
30年前の堤さんの「宣言」は、受け継がれ、そして実現された。