ないからこその豊かさ
「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」
長い名前ですが、これがイギリスの正式名称です。
連合王国とあるようにイギリスは4つの国家から成り立っています。
ユニオンジャックと呼ばれるイギリス国旗は
イングランドの赤十字のセントジョージクロス、
スコットランドの白の斜め十字のセントアンドリュークロス、
アイルランドの赤の斜め十字セントパトリッククロス、
これら3つの国旗が重なって出来上がっています。
イギリス四カ国を占めるうちの一国
赤の守護竜を象った国旗を持つウェールズは
13世紀にイングランドに併合された国として
この国旗には含まれていません。
そんなウェールズの首都カーディフから僕のイギリスの旅が始まりました。
300万とされるウェールズの人口は首都のある南部、
及び海岸線沿いに集中しています。
街を出て内陸部へ数時間走ると、
周囲はのんびりとした牧歌的な景色へと変わっていきます。
緩やかな稜線のつくるシルエットが美しい丘陵地帯が続き、
遮るような高い山のないこの地域の雲は、随分と伸びやかです。
とぼけた調子で鳴きしきり、
広大な草原で牧草を食む羊たちがこの土地のマジョリティ。
そんな丘を快く下っていった先で、
石造りの素朴な家々が連なる可愛らしい街に出会いました。
街の人と目が合って、ハローと挨拶すると
ニッコリと笑ってハローと返してくれます。
街で唯一のパン屋で買ったパンは、まだほんのりと温かく
頬張ると、その温もりが鼻の先から抜けてゆきます。
街のメインストリートを走り抜ければ、そのままこの道が次の街へと続きます。
世界的に有名な歴史遺産があるとか、目を引くような大自然があるわけでもなく
特別何かがあるわけではない素朴な土地ですが
年端もつかぬ頃から僕の心に描かれていた
ヨーロッパのカントリーサイドの風景がここにはありました。
これまでのヨーロッパ旅では、
太陽光線が注ぐ風光明媚な海岸線を
巨大なキャンピングカーが列をなして走り、
唯一無二の威容を湛えた険しい山々の麓には
瀟洒なコテージが立ち並ぶ、
そんな景色を山程見かけてきました。
プールのついた優雅なキャンプサイトでディレクターチェアに腰掛け、
対岸に見える岳の頂まで張り巡らされたケーブルカーで登る。
それは快適便利に思えますが、
翻って、自分たちの暮らしをそのまま現地に持ち込んでいるようで
どこか傲慢な響きも含んでいるように思います。
街を歩けば、欲望を喚起する広告が溢れ、
同じ機能の商品であっても
価格やデザイン、ブランドなど様々な要素が付加され
その選択肢は無限に感じるほどです。
「生活に彩りを」、「個性豊かなライフスタイルを」
そんな言葉を標榜として僕たちは自身の暮らしを充実させるべく
邁進してきましたが、
今では両手からこぼれ落ちるほどに抱え込んだ選択肢に、
時折迷いが生じてしまうことも事実。
例えば、かつては水を飲む行為がそのまま「喉を潤す」
あるいは「美味い」にイコールであったのに対し、
今日ではその潤すや美味いに辿り着くまでに、
軟水や硬水、価格や原産地など
数多くの選択肢を経なければなりません。
例えば、離れた相手と会話がしたいとの思いは、電話を生み出しましたが
離れた場所同士での通話が本来の電話が備えるべき機能であるのに対し、
僕たちは音質や軽量コンパクトなどを追い求め、
また作り手側もケーブルレスな電話を開発し、手のひらサイズの携帯電話に
果たしてパソコン並の高度なシステムを搭載することを可能にしました。
店頭に並べられた携帯電話の山から
自分が必要な機能だけを持った電話を選ぶことは今や不可能です。
きっとみなさんのお手元の携帯電話にも
使っていない機能がたくさん入っていることでしょう。
提供される側が際限なき欲望を求め、
提供する側が欲望を掻き立てる。
現代の暮らしは僕達が理想とする豊かな世界へ進んでいるようで、
実は少し明後日の方へと転がっているように思うことがあります。
南米のパタゴニアが好きでした。
時に街と街とが数百kmに渡って離れたこの地域。
街と言っても人口数百人の街でスーパーは1軒だけ。
モノを買う場所はここだけですから、
高いだの安いだの、好きだの嫌いだのと考える必要はありません。
そこで買い込んだ食料を抱え、一歩街の外へ繰り出せば
そこに延びるのはたった一筋の道です。
次の土地へ行くにはここをひたすら走るだけ。
夕闇が迫る頃まで走ったら、そこにテントを張り明日の太陽を待ちわびるのです。
とてもシンプルでしたが充実していました。
あれやこれやと考える必要がなく、
目の前のことに向き合える単純が故の豊かさがありました。
そんなパタゴニアに近い日々をウェールズ内陸部で
数日間送ることが出来ました。
瞳に映る景色こそ違えど、心持ちは懐かしさに似た充足感でいっぱい。
チリ側パタゴニアは雨の多い地域でしたが、
この土地も非常に雨が多い地域。
雨を避けては走ることが出来ないですから、
レインコートのフードを叩く雨粒の音ですら愛おしく感じるのです。
さて、そうは言っても雨で濡れた体や服を乾かすために
今夜ぐらいは宿をとることにしましょう。
「一泊いくらですか?」
『60ポンド(約9000円)よ』
はい、どうやら、僕にはこの国でホテルで泊まるという選択肢はないようです
。
いえいえ、笑い話どころではないですから!
選択肢がなさすぎるというのも考えものですね(笑)