ボスニア・ヘルツェゴビナは優しい
ボスニア・ヘルツェゴビナの人は優しい。
この国に入って率直に感じた感想です。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、世界大戦後、最も凄惨な内戦と言われた
90年代のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を経て独立を果たしました。
国土にほとんど海を持たず、ほぼ内陸国と言っていいこの国は延々と山が連なります。
恐らく紛争長期化の地理的要因の一つであったであろうこの山がちな地形には、
多くの地雷が残っていて、国土の2%にあたる面積がいまだ地雷原だそうです。
この2%という数値、きっと地雷は誰かを狙って設置するものだから
人の生活圏に限って言えばもっと高い数値になると思われます。
道端に突拍子もなく墓標が現れることもしばしばで、
これは恐らく地雷で亡くなった人のものでしょう。
よく見ると2000年代に入ってからの犠牲も多く、
墓標を見かける度にどきりとしながら走りました。
隣国クロアチアのアドリア海沿いは、紛争の記憶が遥か昔のことであるかのように
すっかり西欧化の進んだ海岸沿いのリゾートが続いていましたが、
ボスニア・ヘルツェゴビナに向けて内陸に進むと、
窓が壊され、屋根が抜け落ちたもの悲しげな雰囲気の集落が目立ち始めました。
ボスニア・ヘルツェゴビナに入るとそれらは一層目立つようになります。
これは紛争時に敵対する民族が住んでいた家屋でしょう。
すっかり生活感を失った廃墟は、人の手が入らなくなった住居が
いとも簡単に風化していくことを物語っています。
しかし街部を中心として新しい建築物や商業施設も同じぐらい目立ったことは
いい意味で裏切られました。
首都のサラエヴォの繁華街はファッションブランドやカフェが並んで随分と賑やかです。
お土産屋で売られているポストカードには、
新市街にある商業ビルが印刷されていたりして、
「サラエヴォはこんなに変わったんだ!」と訴えかけているようでした。
もちろん街を歩けば、銃痕の残る壁、朽ち果てたビル、砲弾で穴の空いた道
紛争時の傷跡は至るところで目にしますが、
これは愚かで忌々しい過去を忘れないようにするためです。
悲惨な過去を受け入れながらも、ボスニア・ヘルツェゴビナの人々は
力強く前を向こうとしている姿が印象的でした。
未開の地と思われたアフリカが、都市部を中心に
びっくりするぐらい急発展をしていたように、
ボスニア・ヘルツェゴビナも現在進行形で変わっているのです。
いつまでも昔の印象でイメージをしていては、
真実は見えてこないとつくづく思わされました。
ところでボスニア・ヘルツェゴビナとは、連邦国家であり
ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、スルプスカ共和国によって構成されています。
前者の主な構成民族はボシュニャク人とクロアチア人、後者はセルビア人が占められ、
停戦協定のデイトン合意によって双方の領域が制定されました。
しかし連邦側のボシュニャク人とクロアチア人も一枚岩ではなく、
クロアチア人の一部では、セルビア人によるスルプスカ共和国を引き合いに、
南部のクロアチア人が多く住む地域にクロアチア人の国を作るべきだという意見もあり、依然として緊張は緩んではいません。
目下、ボスニア・ヘルツェゴビナ国民の最大の感心事は
建国以来、初めて出場するサッカーワールドカップで、
あちこちでワールドカップ関連の看板や商品が並んでいるのを見かけます。
実はこのワールドカップ出場にも紆余曲折があり、
この国ではサッカー協会の会長が民族ごと存在しているという問題が残っていました。
これが国際サッカー連盟の会長は一人だけという規定にひっかかり、
一時は予選の出場資格を失いかけたのです。
協会間の調整役に、日本でも代表監督を務めたオシム氏が就任し、
会長職を一人にすることで、なんとか最悪の自体を免れました。
このようにスポーツの世界でも、紛争の影が未だ見え隠れしています。
ちなみにボスニア・ヘルツェゴビナの紙幣は同じ金額であっても
ボスニア・ヘルツェゴビナ版とスルプスカ版とがあり、
車のナンバープレートも2種類あります。
今回僕が訪れたボスニア・ヘルツェゴビナの土地のほとんどは連邦側であり、
スルプスカ共和国側は僅かしか訪れていません。
だから、もしかすると本当のこの国の実情は見えていないのかもしれません。
けれど、その中で感じたことが冒頭の"ボスニア・ヘルツェゴビナは優しい"なのです。
すれ違う人々はニッコリと笑い、宿を探していればどこからともなく助け舟が入る。
見つけた宿が思ったよりも高くて困っていると、
宿の人が丁寧に他の安いホテルを教えてくれます。
毎日の山岳走行で顔を歪ませて必死にペダルを踏みしめていると、
パッパッと対向車が短いクラクションを鳴らしてくれる。
もちろん頑張れよの意味を込めてです。
こんな小さなホスピタリティが次々に積み重なってくるものだから、
随分ととペダルをまわす足が軽くなります。
あまり英語も通じず、コミュニケーションに苦労することもしばしばですが、
そういう優しさは言葉を越えて心にバシッと響きます。
ある日、山間にある街で一夜を過ごすために街外れの運動場に行くと
ちょうど一組の家族がBBQをしていました。
目が合うとすぐに「おい、お前も食べろ!」と誘ってもらいました。
そしてすぐに「夜は寒いから俺の家に泊まっていけばいい」と言うのです。
会って間もない自分に対し、なんという寛容さでしょう。
しかし、本当にそんなうまい話があるのだろうか、
疑い深い僕は、素直にその招きを受け入れることが出来ずにいました。
食事も終わり、サッカーボールを蹴って
10メートル先のビール瓶に当てるゲームをしていたときのことです。
僕の蹴ったボールが、石にぶつかって近くの川に落ちてしまいました。
「しまった」
慌てて靴を脱いで川に入る準備をするも、流れが早く、
脱いでる合間にもボールはどんどん流されていってしまいます。
そんなときドボンッと僕より先に川に飛び込んだのは、この家族の男性でした。
彼はまだ春とはよべないくらい冷たい川に、
靴やズボンが濡れるのも厭わず飛び込んでボールを拾ってきました。
びしょ濡れになった靴をBBQの残り火にあてながら、
「慌てて飛び込んだもんだから、靴を脱ぐのも忘れちゃったよ。
なにやってんだろうねぇ」
と笑う彼の行為に、僕はこの家族たちが信頼できる人たちだと確信し、
その夜は彼らの家に泊めてもらうことにしました。
また、ある宿では、バルカン風ロールキャベツのサルマを出すレストランを尋ねたところ、
この辺にはないよ、と言われてしまったのですが、
翌日、宿の彼はわざわざサルマを作ってくれ、ご馳走してくれました。
別な宿でも、夕食を作ったから食べなさいと食事を頂いたことがあり、
感謝の気持ちと、どうして? という疑問の混じった複雑な思いでした。
ボスニア・ヘルツェゴビナにいる間は、
彼らの優しさについて考える機会が多かったです。
あの親切心はどこから来るものだろう。
長らく観光客がこない場所だったから?
想像を絶するような深い悲しみを経験しないと、
あの優しさの境地には辿り着けないだろうか?
自分が逆の立場だった時、同じことが出来るだろうか?
ところで、ボスニア・ヘルツェゴビナは周辺諸国のなかで特にオスマン帝国の名残が強く、
随所にトルコっぽさを見ることが出来ます。
コーヒーは、銅の茶器にフィルターを使わずに、
直接コーヒー粉を入れて沸かすトルコ風。
トルコ伝来の料理も多く、ひき肉やチーズの入ったパイのブレクは
安くてうまい自転車の供だし、
ピーマンの詰め物料理のドルマは、ほろほろになるまでよく煮込まれていて、
優しい味わいです。
家ではじゅうたんを敷いていて、家に入る時は靴を脱ぐのは、
日本に近い感覚があって思わず親しみが湧いてきます。
ボシュニャク人を中心にイスラム教を信仰している人も多く、
頭にスカーフをした女性もよく見かけます。
街ではモスクが建ち、夕方にはモロッコでも聞いたアザーンが懐かしく響きます。
ヨーロッパにあってヨーロッパでない感覚すらあるボスニア・ヘルツェゴビナ。
イスラム色の強い国だからこそ、彼らの優しさのヒントも
イスラム五行の一つである喜捨に有るのではと感じます。
"全ての富の所有者はアッラーであり、人間はあくまで富を託されただけの存在だから、
財産に余裕がある者は、貧者を助けなければならない"
という教えが喜捨です。
僕は決して貧者ではありませんが、コーランには
"旅人を助けなさい"という教えもあります。
ボスニア・ヘルツェゴビナの人々と触れ合いで、この喜捨を意識すると、
少しだけ彼らの僕に対する気持ちが分かるような気がします。
でも、そんな優しさの受けとめ方というのが案外難しいもので。
何か親切を受けたら、お礼に何かしなければと思うことが、
僕にとっては当たり前に湧く気持ちなのですが、
もう二度と会う事ができない人々がほとんどです。
そうした人々にその場で「出来ることといえば、
「ありがとう」と言う他ありません。
もちろん彼らにとってはその一言で充分なのかもしれないですし、
僕自身も心から感謝の気持ちです。
しかし、心のどこかでその無償の親切に戸惑いを感じていることも事実です。
そもそも会って間もない異国人に対し、
親切にしてくれる彼らの心もまだはっきりとは理解できない部分があります。
それに親切に慣れ切ってしまい、自分が尊大な態度になってしまうことも怖い。
僕は、「旅人様のお通りだ」と肩肘を張るつもりはなく、
旅行者とは地元の人々と交流を楽しみつつも、
その土地に影響を与える行動は極力慎み、
傍観者であるべきと常々思っています。
親切を当たり前と思わないようにしつつ、
真心を持って感謝する。
優しさの受けとめ方とは、
ものすごく繊細な心のバランスが求められるのです。
旧ユーゴスラビアの中でも特に一風変わった雰囲気を持つボスニア・ヘルツェゴビナ。
ここで触れた優しさの数々は僕の心を満たしてくれたとともに
優しさの受けとめ方について考えるきっかけでもありました。
この先、トルコやイランなどシルクロードの国々も親切なお国柄だと耳にしています。
そうした人々との触れ合いの中で、
少しずつ優しさに対する自分の心の置き方を整えていきたい。
バルカン半島の小国から早くも漂うイスラムの香りに
心は早くも期待が高まっています。