本物に出会える場所
気付いてみれば一ヶ月近くを過ごしていたイスタンブールを出発し、
いよいよアジアの走行が始まりました。
イスタンブールを出る前は走り出すことにあれほどの不安を感じていたのに
いざペダルを踏み出してみると、時速16kmで流れてゆく景色が
あっという間に馴染んでいくのが分かります。
タンポポの綿毛が舞っていた街道は、
この一ヶ月で新緑のまぶしい季節となっていました。
予定よりも随分のんびりしてしまった遅れを取り戻すべく、
朝から夕方まで目一杯一日を使って少しでも距離を稼ぎます。
日が暮れるギリギリに現れたガソリンスタンドに飛び込み、テント張る許可を貰い、
寝る準備と夕食を済ませるとあっという間に今日の終わり。
体はクタクタですが、その疲れが心地良い眠りへと誘っていきます。
翌日も、そのまた翌日もこの繰り返し、毎日を走りに集中し東へと進んできました。
さて、最近の僕がもっぱらお世話になっているガソリンスタンド。
ここは車だけでなく、自転車にとってもオアシスのような存在です。
日中、売店で買う冷たい炭酸ジュースは格別に体に染み渡るし、
トイレがてらお手洗いで顔をジャバジャバと洗えば、
またこの後も頑張ろうという活力が湧いてきます。
給油に立ち寄った地元の人との「どこから来たの?」なんてちょっとした会話も
ガソリンスタンドの楽しみの一つ。
これがトルコでは「チャイでも飲んでいきな」と誘われることが一日に五回はあって、
さらに「おかわりも飲め!」と言われてしまうので
思わず嬉しい悲鳴をあげてしまいます。
休憩を終えて、彼らに挨拶をして走り出す時も、
彼らはずっと遠くまで僕に手を振ってくれるのです。
フレンドリーなトルコ人たちのホスピタリティに触れることの出来る場所として
ガソリンスタンドはうってつけかもしれません。
"トルコは親日国家だ"
なんて噂を聞いたことがある人も多いと思いますが、
この日土友好関係の起源は一説に、今から100年以上前、
トルコ海軍の軍艦エルトゥールル号が和歌山県沖で沈没事故を起こした際に、
近くの村人が船員の介護に尽力し、
生存者をトルコに送り届けたところにあると言われています。
また、現代ではイスタンブールのボスポラス海峡にかかる
第二ボスポラス大橋建設を日本企業が手がけ、
昨年には海峡を挟んでヨーロッパ側とアジア側を結ぶ
地下鉄のトンネルを開通させたことも記憶に新しく、
トルコは日本にポジティブな感情を持っていることは確かです。
そういうこともあってか、
『僕は日本人です』と言うだけで彼らはニコニコと笑ってくれます。
ただ、トルコは白亜の温泉パムッカレや奇岩で有名なカッパドキアなどを擁する
観光立国だけあって、そうした観光地に行けば
胡散臭さ全開の商売人が巧みに日本語を駆使して
ぼったくり価格でものを売りつけてきたり、
詐欺まがいの行為や強引な商売をしている輩も少なからずいます。
ガソリンスタンドや路上で出会う純朴で優しいトルコ人と
観光地にいる小賢しいトルコ人。
この極端な二面性もトルコの姿なのかもしれませんが、
もし僕がバスや列車で観光地だけを繋ぐ旅をしていたとしたら、
毎日こんな悪辣な輩とやり合わなければならないのかと思うと、
ちょっとぞっとしてしまいます。
そういう意味で、自転車でトルコを旅することは
トルコの素敵な一面に触れる機会が格段に多く、
他の旅行者よりお得な思いをしている気がします。
僕は常々、その国のリアルは田舎にこそあると思って旅をしてきました。
例えばトルコは人口7500万人を誇る大国であり、
そのうちイスタンブールは1500万人もの人口を抱えています。
じゃあイスタンブールを訪ねたからといって、トルコを知れるのかといえばそれは否。
前述のカッパドキアやパムッカレを訪ねたからといっても、それも否。
大都市や観光地が、その国のその国たらしめるエッセンスを持っていることは確か。
けれど、その場所がその国のリアルかと言えば
きっとそれだけでは土地を語ることなど不可能です。
トルコの残り6000万人の暮らしはトルコ全土に点在していて、
僕はそんな彼らに出会いたいからこそ自転車に乗っているのです。
出会いの場としてのガソリンスタンドや路上は、
僕にとって色眼鏡を外した状態で彼らと触れ合うことの出来るとても大切な場所です。
自転車を流しながらガソリンスタンドに立ち寄って
『メルハバ!ナスルスン?(やあ、お元気ですか?)』と挨拶すると、
男は「ほう、少しは喋れるのか」と口元がニヤッと緩んで、
「お前はどうなんだ?」と尋ねてきます。
そこで僕は『イエイエ、テシェク!(グッドだよ、ありがとう)』と返事をする。
トルコ語を話すことの出来ない僕は、これ以降は全く会話にならないのですが、
たったこれだけでも彼との距離感はグッと縮まり、
ここでもチャイのテーブルへと招かれるのです。
また、ガソリンスタンドで宿泊をお願いする際は、
相手との心の距離感の縮まりが、より目に見えて分かることもいいのです。
始めは「敷地の隅の方だったらいいよ」と、渋々了承を得るよう場合でも、
テントを張り終える頃には「チャイでも飲みなさい」と招いてもらうことも多く、
そこでの会話は、言葉の問題でやはり会話にはならないのですが、
今までに訪ねた国名を挙げてなんとか旅の説明をすると
みんな目を丸くして驚いてくれます。
そうこうしているうちに「腹は減っているか?」と聞かれ、
食事をご馳走して貰い、食事を終える頃には食後のチャイと共に
「夜は寒いから、中で寝ても大丈夫だよ」と言ってくれるのです。
下賎な気持ちを口にしてしまえば、
宿泊代や食費が浮いて助かったという気持ちは少なからずあります。
けれど、それ以上にこんな風に彼らとの距離感が目に見えて縮まっていく感じが
僕はたまらなく嬉しい。
コミュニケーションに言葉は大事ですが、
やはりそこには通じ合おうというお互いの思いがあってこそ。
当たり前のようでこれが実は難しい。
お互いの言葉が通じる日本にいた時でさえ、出来なかったことだってあった気がします。
むしろ言葉が自由に通じる場所だったからこそ、
言葉に様々なしがらみや感情がつきまとって
自分の本当の気持ちが見えなくなる場合さえあったりしました。
トルコでは言葉が通じない場所だから彼らの一つ一つの言葉に耳を傾け、
一挙手一投足に目を凝らすことが出来るような気がするのです。
不自由だからこそ通じ合おうとするコミュニケーションだって、
きっと一つのコミュニケーションの在り方だと思います。
今の時期でもそれなりに冷えるアナトリア高原の朝、
寒い思いをしながらテントをたたみ出発準備をしていると、
またも「チャイを飲みなさい。朝ごはんも食べるだろう?」
と誘ってくれる彼らの気遣いに、
複雑に絡まって固まってしまった僕の心がほぐされ、和らいでいくのが分かるのです。
風光明媚な観光地の美しい風景に心奪われることも旅の醍醐味の一つですが、
僕は何気ない場所でのじわじわと染み入ってくる優しさに
心温まる出会いも重ねていきたい。
たとえ、どこかでどんなにひどい目にあったとしても
僕は本物に出会える場所を知っている。
そんなトルコの優しさを受けて、さぁ今日も一日頑張ろう。