旅の適齢期を考える
二十六歳の暮れに会社を辞め、二十七歳で僕は旅に出ました。
旅に出て最初の誕生日はエクアドルの山中で、二度目はカタールの空港で、
そして三度目となる今回は、
トルコの奇岩地帯で名高いカッパドキアでその日を迎えました。
振り返ってみての感想は、月並みですがあっという間の三年間でした。
旅に出て何か変わったかと問われれば、
何も変わっていないと自身は思っていますし、
何かを変えたくて旅に出たわけでもありません。
ただあの当時、五年目となった社内での仕事に対し、出来る事が増え、
責任を問われる立場へとなっていくことに充実感を覚える一方で、
もし会社の外に出てみたら、もしかして僕は会社のこと以外何も知らないのかもしれない、
そんな風に思ったことは旅に出てみようと思ったきっかけの一つです。
考えてみれば生まれてこの方、
"○○高校の伊藤篤史"とか"○○大学の伊藤篤史"など
名前の前には常にどこかの組織や団体がついてきた人生でした。
会社員時代は"良品計画の伊藤篤史"として無印良品の看板がついてきました。
これについて良いも悪いもありませんが、なんとなく思っていたことは、
組織や団体に所属することは集団としての"正解"は持っていたとしても
個人としての"正解"を知らないままではないか、ということ。
義務教育から高校、大学を経て、
それまで学び培ってきた社会という場所で生きていくための"力"は、
どこかの集団に所属し、渡り歩くことで
その集団でしか通用しない"要領"の良さに置き換えられてしまっているのではないか。
もし自分から肩書を取った時、裸の自分はどこまで何が出来るのだろう。
そんな気持ちがありました。
また、物事が成熟されていくにつれ分業化が進む社会は、
貨幣の交換を基に、プロセスはブラックボックス化され、
結果だけが求められがちな世の中です。
ご存知のように無印良品は
世界中の素材や暮らしの知恵を活かした商品づくりをしています。
仮に無印良品とこの先も関わっていったとしても、実際にそれを知らずして、
無印良品を語るということはなんとなく後ろめたい気持ちがあったのでした。
ものすごく非合理的だけれど、出来る限りを自分の五感で感じ、
話すことが出来るようになることに意味があるのではないだろうか、
こんな思いもあったのでした。
かくして旅立った自転車世界旅。
自画自賛ではありますし、まだ全てを完遂させたわけではないのですが、
今はあの年齢で旅に出てよかったと思っています。
もちろん旅に年齢は関係ないと思っていますし、
旅はいつだって多くの学びを与えてくれるものです。
ここで言いたいことは、あの当時僕が漠然と思っていた
"裸の自分がどこまでやれるものなのか"と"物事を五感で感じたいという好奇心"
この二つを充足させることの出来る年齢として
僕が旅に時間を費やした二十代後半は、
なかなかいい年の頃だったのではないか、ということです。
これはいい意味で、この年代は中途半端だということで、
世の中に対して受動的にも能動的にもなれる年齢だと思うからです。
まだまだ無茶を出来る歳で、失敗だって経験として自分の糧に出来る歳。
本当に困ったら手を差し伸べてくれる誰かに甘えてもいいのです。
また、学校や所属組織で身につけたことを実践出来る年齢であり、
金銭的にも長期旅行に耐えうるある程度の蓄えが出来る頃。
体力的にも盛りの頃で、好奇心を追い求めるための行動力の源です。
そして"裸でも生きることの出来る自分になりたい"
そんな思いとは反対に実際は、
自分一人じゃ決して生きていけないということを
知るいい年齢ではないかと思います。
学生時代のアメリカ横断の旅は若さという勢いだけで走り抜けた旅で、
土地を知るというよりは、"横断"という結果だけを求めた旅だったように思います。
また、今の僕には歳を重ねてからの旅をするための、
必要な世の中に対する知見が圧倒的に不足している。
いつかの将来の旅で触れる知の世界を深めるためにも
今は多くの価値観を覗き、触れておきたいのです。
そうすれば、歳をとってからの旅は同じ場所を訪れたとしても見え方が変わってくる、
過去と比較が出来る。
多くの発見を与えてくれるものになるのだと思うのです。
裸の自分で力試しをしつつ、今は好奇心から生まれる多くの選択肢を広げる旅をしたい。
甘いことを言っているのかもしれませんが、
まだ自分の生き方を決めるには知らないことがありすぎる、
そして見聞きしただけでは理解できないことが多すぎるのです。
青年期のチェ・ゲバラがモペットを駆って巡った南米旅の中で
強国や強者によって抑圧される人々に接したことが、
後の革命家チェ・ゲバラの礎となったように、
やはり実際に行くことが新しい世界を自分にもたらしてくれるのです。
そんな旅は若すぎて知らなすぎても、歳を重ねて知りすぎていてもいけない、
ちょうどよい時期があるのだろうと思います。
もうそろそろ今回の旅の残りの道程も決して長くはなくなってきました。
確実に流れていく時間の中で、今の自分に見える景色や感じる感覚に、
耳を澄まし、眼を向けられるように。
今の旅はいつだってプレーンな心持ちでいたいものです。
さて来年はいったいどこにいて、何を思っているのでしょうか。
三十歳を迎えてふと考えことでした。