自分にとっての心に残る街
古都ブハラ。
9世紀、中央アジアにおけるイスラム教黎明期に発展を遂げたこの街は、
この地域の文化・学問の中心地としてその名を轟かせました。
また、シルクロード交易の中継地点としても、
東西に行き交うキャラバン隊のオアシスとして栄えました。
深い理由はないのですが何となく、このブハラは
中央アジアに点在するオアシス都市の中で一番楽しみにしていて
相当の期待をもって街へと到着したのでした。
ガイドブックには「ブハラはラビハウズという池の周りが拠点になる」
そう書いてあったので、古い家屋が続く旧市街の住宅街を縫って
中心にあるラビハウズを目指したのでした。
そろそろこの辺りなんだけど
、そう思う頃視界が開け、池のある場所に出ました。
しかし池の周りには観光バスとタクシーがところ狭しと待機していて、
闇両替の誘いや宿の客引きの声が絶えないいかにも観光地然とした街でした。
泊まる宿を決めていなかった僕は、熱心な客引きの声に負けて、
その彼の宿に投宿したのですが、
一度チェックインしてしまうとあとは放ったらかしにされ、
通された部屋も恐らく前の人が使ったままの状態の部屋。
それでいて人質のように僕のパスポートを持っていってしまったので
しばらく身動きが取れませんでした。
夜になって、ラビハウズに出掛けると、池の周りはセンスの悪いライティングが照らされ、
ワイワイガヤガヤとこの場所にそぐわないお祭り騒ぎの様相を呈していました。
そして並ぶ飲食店の軒先には"FAST FOOD""ITALIAN GELATO"などと
書かれた看板が嫌でも目につきます。
こんなところにまで来てそんなものは求めていない、
そう思いながらも、彼らにハンバーガーやジェラートを売ることが
手っ取り早い商売の手段だと思わせしまったのも僕のような観光者なのだと思うと、
とても落胆した気持ちになってしまいました。
池のほとりに建つマドラサ(神学校)の入り口には、
偶像崇拝を禁止するイスラム教にあって人の顔が描かれていますが、
ここを建てたナディール・ディヴァンベギが自身の権力を示すために、
当初はキャラバンサライ(隊商宿)と偽って建設し、
完成した後に実はマドラサだったと言いかえたというエピソードが残っています。
今、この池の周りに広がる光景も、お金儲けのために大事なものを失いつつあるような、
そんな風に見えました。
翌日、あまり居心地の良くなかった宿を変えようとすると、
宿の彼は途端に値下げを提案してきました。
確かに値下げの誘惑は魅力的ですが、
でもそこまでして居心地の悪い場所には留まりたくはない。
「いくらならいいんだ?」と懸命に食い下がる彼は、
まるで僕を金づるとしか見ていないような目でした。
彼の説得を振り払うようにお釣りを要求すると、
あとはもう何も言わずお金を投げるように僕に返したのでした。
観光地であるにも関わらず、観光地でない要素を求める矛盾がいけないのだろうか?
宿に過度なホスピタリティを期待してはいけないのだろうか?
自転車で旅しているという過剰なヒロイズムに勝手に浸っていたりしないだろうか?
ブハラは期待が高かった分、あまりポジティブでない意味で記憶に残ってしまいました。
それはもしかすると、数日前に訪れたヒヴァの印象が
あまりに鮮烈だったからかもしれません。
長い砂漠を走り抜いた末に飛び込んできた農園の緑や、
そこに拓かれた運河網は、本当に世界が変わったかのようで、
そして最後の仕上げとばかりに壮大な城壁で囲まれたヒヴァの旧市街が現れるのだから、
心打たれる以外にありませんでした。
東西南北にある門のうち、北門から城壁内に入ると古い家並みが続き、
その先に突然ミナレットが悠然と飛び込んできます。
そのミナレットに呼び寄せられるように近づくと、
周囲には幾何学模様を施したイスラム建築群が群雄割拠で立ち並ぶ景色に出会いました。
ミナレットのみならずヒヴァの建築物は、
往時の有力者たちが自身の権力や富を誇示するために、
競い合うようにして作られたと聞きますが、
ヒヴァ・ハン国が滅亡した今も彼らの野心だけは、
この城壁のなかに今なお留まっているかのようでした。
そしてこの街に暮らす人々の雰囲気も抜群に良かった。
メインストリートにはいくつか土産物屋も出ているのですが、
血眼になって客引きをするわけでもなく、皆のんびりとやっています。
夕方には、ささっと店終いをして、あとはもう子供たちの遊び場になっていました。
子供たちにとってそこにある建築物の歴史的な価値なんてまるで関係なく、
サッカーをするためにちょうどいい壁があったからとばかりに、
そこをゴールに見立てて遊んでいます。
街路のどこかからナンを焼く香ばしい匂いが立ち込め、
トンテンカンと木を彫る音が聞こえてくる。
音の鳴る方へ行ってみると、そこは木彫職人の家で、
このあたりの名産であるまな板や本立てに彫刻を施していました。
玄関でじっと見ていた僕に気づくと「入りなよ」と招いてくれて、
さらにはスイカをご馳走してくれました。
ここで作られた木彫品がそのまま表の土産物屋で販売される、
そんな小さな街の小さな世界が垣間見れたようで少し嬉しくなりました。
こんな風に地元と観光者の垣根が限りなく低く、
まるで商売っけなど感じさせない彼らの振る舞いは、
そこにいるだけでとても心地良いものでした。
この街の人の純朴さはいったいどこから生まれてくるのだろうと思っていましたが、
ウズベキスタンの中心は首都やサマルカンド、ブハラのある東部であり、
ウズベキスタンの国民であってもヒヴァに行ったことがないという人が
随分多いことを後で知りました。
バスや鉄道、飛行機が発達した今でも、
絶対的な距離とキジルクム砂漠に寸断されたヒヴァは陸の孤島のような立ち位置です。
だからこそ明らかなまでの観光地化の波には晒されず、
人々も素朴で優しいのではないかと思います。
加えて、この街の日常が演出されることなく自然に存在していることも嬉しい。
城壁の東門には、かつてロシア人や旅人を捕らえて奴隷として売っていたという
曰くつきの奴隷市場がありますが、
今ではここがバザールとなって日常品が売られています。
昔はどうであれ、暮らしというものは常に現在進行形で在り続けるものです。
かつて奴隷市場だった場所を後生大事に保護保存するよりも、
街の人間のためのバザールとして今も存在し続けていることが
"生きている"街に感じるのです。
写真や映像で見る綺羅びやかな景勝地や歴史地区。
それを見て、"そこに行ってみたい"と思うことはごく当たり前のことだと思います。
でも自分にとって、そこに築かれてきた歴史よりも、
その歴史を受けて、そこで生活する人々の
今の暮らしを垣間見れるリアリティの方がグッと響くような気がしています。
ヒヴァは、ウズベキスタンの人から見ても、遠い土地の田舎街なのかもしれません。
しかし、ここではブハラやサマルカンドのような一大観光地では
なかなか見ることの出来ないような街の素顔を
自然な振る舞いで見せてくれる素敵な街でした。