越えることの出来ない数十メートル
各地に点在するオアシス都市を抜け、東部ウズベキスタンへと歩みを進めると、
景色は山岳地帯へと変化していきます。
これまで長らく地平線しか見ていなかったので、
険しい上り坂は体力的には大変だけれど、気持ちには嬉しい変化です。
それにしても何もない砂漠、緑化した農村部、ロマン香るオアシス都市、
そしてこの山岳地帯とこのウズベキスタンという国は
たくさんの表情を持っているのだということに改めて驚きました。
そして山岳地帯はそのままタジキスタンへと続いていきます。
国土のほとんどが山に覆われたこの国は、
ガスや原油などの地下資源に恵まれた隣国諸国と異なり、
めぼしい地下資源があまり採れず、経済的な困窮が続いているのだそう。
中央アジアにおける重要な生活河川であるアムダリヤ川は、
このタジキスタン最奥部パミール高原に源流を発し、農業も盛んですが、
生活資源である水に恵まれていたとしても、経済資源に恵まれない国は
いつまでも金銭的に貧しいままというある種の矛盾した状況は
なんとも言えない気持ちになってしまいます。
さて、今回のタジキスタン旅行はそのパミール高原を目指しての走行。
5000m、6000mといった高峰の連なる高地は、
その先に天山山脈や崑崙山脈へと繋がっていき、世界の屋根とも称されています。
パミール高原は山岳バダフシャーン自治州に属していて、
そこへと至る道は南部に隣接するアフガニスタンとの国境線となっている
川沿いを走って行くこととなります。
この地域は近代世界史の中で、重要な役割を持つ地域であって、
19世紀に入り、中央アジアの覇権を巡って、南下を続ける帝政ロシアと、
インドを征服し北上政策を取るイギリスとの地球規模の陣取り合戦、
いわゆるグレートゲームの緩衝地帯となった場所でした。
そのため近年まで政略的な土地として、自国民の出入りも制限されていて、
現在も旅行者はVISAとは別に許可証がなければ入域が認められない地域です。
首都ドゥシャンベに立ち寄って許可証を取得し、バダフシャーン自治州へと向かいました。
しかし、政略的に重要な場所、といっても
それはあくまで地政学的な意味合いだけであって、人家もまばらなこの地域へと至る道は、
首都から離れるほどに酷い荒れ具合へとなっていきます。
首都を出て三日後、大型トラックの巻き上げる砂埃にゴホゴホ咳払いをしながら、
大きな峠を越えると、向かいにアフガニスタンを望む場所に出ました。
ここから国境線の代わりになっているパンジ川に出来た深い渓谷に沿って数百キロ、
対岸にアフガニスタンを眺めながらの走行となります。
アフガニスタンといえば、近年の国際情勢の中で、テロリズムの温床となっている場所で、
最近でもここを訪れた旅行者が殺害をされるニュースを耳にしたりと、
今ではなかなか自由旅行が難しい地域へとなっています。
これまでの旅先で、まだアフガニスタンの治安が良かった何十年も前の話を
聞く機会が何度かありましたが
最高峰である7000m峰に挑戦したときの山々の美しさや、
土地に住む人々の優しい笑顔、
いつも民家に招かれてホームステイをしたんだといった話を皆、一様に口にしていました。
そんな話を思い出しながら、目の前の川を挟んで数十mの、
中洲のある浅瀬を渡ればすぐにでも渡れそうな対岸の国に思いを馳せました。
しかし、たった数十mといっても現実は非情で、
この距離を埋める橋は数百キロに渡ってほとんど存在しません。
渓谷に沿って延びる道も、悪いながら車の通れる道の存在するタジク側と違って、
アフガン側は文字通り断崖絶壁にか細いがふらふらと引かれているのみです。
かろうじてバイクを見かけることはあっても、車はほぼ見かけません。
ガラスのない吹き抜けの窓があいた住居は、廃屋かと思えてどうやら人が住んでいる様子。
彼らはこの陸の孤島のような場所で
いったいどうやって物資を手に入れ暮らしているのか、想像がつきません。
タジキスタン側の渓谷に延びる電線や小さいながらも物が揃う商店、
手を伸ばせば届く距離にそういったものがあるのに、
両者は決して交わることなく川と平行に流れていきます。
時折り対岸の子供たちが、大きな声で手を振ってきますが、
彼らはどのような気持ちで、こちらのタジク側を見つめているのでしょう。
また、タジク側の人間もアフガン側には渡れないということを、
どのような認識で受け止めているのでしょうか。
地図で見ても、実際に行ってみても分かる通り、両国は深い山々に抱かれた山岳国家です。
とりわけこの地域においてアフガニスタン側は
内陸の大都市へと通ずる道が存在しないような険しい山々に遮られています。
グレートゲームによる覇権争いが行われる前は、
きっとこの両岸に面した土地々々の交流があったことでしょう。
これまで訪ねてきた中央アジア諸国の主民族がテュルク系だったのに対し、
タジク人やアフガン人はイラン人寄りのペルシャ系に起源を持ち、
この地域の人々は国境線という人為的に制定された線引では
切っても切れない関係にあるのです。
それに、向かいに育つ木々の緑も、
響いてくる牛の鳴き声も、僕がいるこちら側と同じように見え、聞こえます。
パンジ川に沿った渓谷沿いは本当に谷深く、だからこそここが強国同士の緩衝帯として
制定されたということは訪れてみて納得がいったのですが、
覇権巡る争いの結果が、この渓谷に住む人々の
かつてのたった数十mの距離を、近くて遠い数十mに変えてしまったのかもしれません。
自転車を走らせていると、二人乗りのバイクに乗った若者が
対岸から「オーイ」と叫んできます。
僕は自転車を止めて、手を振ると、
彼らも手を振り返します。
手が届きそうで届かない距離。
これが今の僕と彼らに許された距離感でした。