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世界の屋根の懐

2014年10月15日

国道M41号線。
1931年に完成したこの道は、旧ソ連とアフガニスタンとの
国境を管理するために作られた軍用道路です。

山岳国家タジキスタンの中でも特に山だらけの東部パミール高原を貫通するこの道は、
土地の名にちなんで通称パミールハイウェイと呼ばれ、
キルギス第二の都市オシュまで延びています。
周囲を5000m、6000m級の山々に囲まれながら、
自身も4,000mの高地を貫く世界でも類を見ない空の上のハイウェイ。

けれど、"ハイウェイ"と言っても日本の高速道路のようなものは想像してはいけません。
時に深い砂にまみれた未舗装の上を、
時に落石がごろごろした断崖の下を走ることになるこの道は、
車で走るだけでも相当に過酷な道路です。
ただ、近年では隣国の中国によって舗装路化も進んでいて、
以前と比べると遥かにハイウェイに近づいてはいます。
当初は軍用道路として建設されたこの道も、
今では中国からの商用道路といった感が強まり、
すれ違うトラックの多くが新疆ナンバーのプレートをつけていました。
フロントガラスから覗くドライバーの顔も随分馴染みのある顔つきで、
いよいよここまでやって来たのだと感慨が湧いてきます。

パミール高原は遠い昔、マルコ・ポーロもここを通って中国へと渡っていて、
彼の口述をまとめた、かの東方見聞録には
「そこには砂漠があるだけで人の住処も緑も何もない。
そびえ立つような山に囲まれていて、とても寒いため鳥さえ見当たらなかった」
と書かれています。

だから、僕はこのあたりで唯一"街"と呼べるパミールの玄関口となる街で
自転車に載せきれないほどの食料を買い込んで、いざ走り出したのでした。

けれど、結論から言うとそれは全くの杞憂でした。
高原に出る前の谷沿いには民家が点在し、低地では濁流のように激しく流れていた川は
高度を上げるごとに澄むような色に変わって水に困ることもありません。
マルコ・ポーロが不毛の大地と感じた高地にも、
決して多くはないものの身を寄せ合うように集落がいくつか存在していました。

パミールの低地にはパミール系民族が、
4000m級の高原地帯にはキルギス系民族が生活をしていますが、
民族に関係なく彼らは僕と目が会うと必ずチャイに招いてくれました。
この辺りではチャイと一緒にナンも出すのが普通らしく、
おかげで溢れんばかりに積んだ僕の食料は一向に減りませんでした。
道ですれ違う人々も僕を呼び止めたり、わざわざ追いかけてきては
リンゴ、ブドウといった果物を抱えきれないほど渡してくるので
毎日嬉しい悲鳴が止まりません。

泊まる場所に困ることもなく、宿泊施設のないところでも
彼らはごく自然な振る舞いで寝床を僕に与えてくれました。
そればかりか
「次に来る時は、両親を連れて来なさい。
その時はうちの羊を一匹絞めて盛大にお祝いをしよう」
とまで言ってくれるのです。

パミールといえば、4000mを越える世界でしか見ることの出来ない
荒涼とした自然がハイライトです。
森林限界を越えた剥き出しの大地、深い青を湛えた湖、
宇宙が近いことを実感する紺碧の空。

多くの旅行者がそうであるように、
僕もまたそんな自然を求めてこの地を訪れたのですが、
実際に僕の心に響いたものは、そんな土地で暮らす人々の方だったのでした。

雪解け水が流れる冷たい川から水を汲み、
家畜の糞や周囲に僅かに生えた乾燥した植物を燃料として炎を得る。
チャイひとつ作るのも、たくさんの労力がかかっています。
そうやって作ったチャイを振る舞ってくれるのだから、その味は染み入るものがあります。
僅かながら電球が灯る程度の電気は通っていますが、
それでもこの土地で暮らし続けることの苛酷さは僕の想像には及びません。

短い夏を終えると、間もなく長く寒い冬がすぐにやってくるでしょう。
雪で交通が寸断されることさえもあるという
厳しい寒さの冬にここを訪ねることは残念ながら叶いませんが、
ここにいる間は少しでも多く、なぜ彼らが今も厳しい自然環境の中で
暮らし続けているのかを考えるようにしていました。

これまで僕はどちらかと言うと、山岳地帯を好んで多く走ってきました。
北米はロッキー山脈、南米では数えきれないほどアンデス山脈を越えてきました。
それにモロッコのアトラス山脈から始まるアルプス山脈造山帯もまるまる走り切りました。

ルートの選び方次第で、避けることも出来た山岳地を走ってきた理由は、
少し後付的ではあるのですが、
そこの土地に住む人々と心を通わせやすかったから、
のような気がしています。

山岳地帯は平地に比べればスピードも出せず、道も悪いことが多いです。
でも、そんなところを自転車で走るのは大変なことだと人々も十分知っているから、
彼らは何かと世話を焼いてくれるのではないでしょうか。
世界中、国民性や生活習慣の違いなどがありますが、
"山は優しい"これだけは世界で共通して断言できます。
山岳の厳しい自然環境は、
人と人との関わりを強くしていかないと生きていけない場所だから、
お互いを想いやる気持ちが生まれるのではないか。
山の持つ懐の深さは決して裏切らない。
これが僕の山を選ぶ理由なのだと思います。

その日は道中最高点である4,655mのアクバイタル峠を越える日でした。
峠に差し掛かかる手前にポツリと一軒の民家がありました。
そこに住む家族は僕を見かけると、手で器の形を作ってそれを口に運ぶ仕草を見せて
チャイへと誘ってくれました。

ストーブの効いた暖かい室内で、
砂糖を三杯分入れた甘いチャイにナンを浸して頬張ると、
あっという間に差し出されたナンを平らげてしまいました。
それを見たお母さんはどこかから新しいナンを持ってきてくれたのですが、
中央アジアに入りたての頃、僕はこのナンが食べづらくて
あまり好きじゃなかったことを思い出し、心の中で苦笑いをしてしまいました。
あれからたくさんのチャイのお招きを受けてきて、
今ではナンのほのかな甘みや塩気も美味しいと思える。
こんな風に土地に自分が馴染んでいく感じが、やっぱりいいな、と思いました。

この山岳地帯を抜ければ、もうすぐ中央アジアも終わりを迎えます。
それまであと少しの間、世界の屋根と呼ばれるパミール高原の、
深い懐に身を預けていきたいと思います。

  • プロフィール 元無印良品の店舗スタッフ

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