各国・各地で 自転車世界1周Found紀行

挨拶の効能

2015年03月04日

ベトナム国道1号線を南下し、北緯17度のあたりまでやって来ました。
ここに流れるベンハイ川のあたりはベトナム戦争時の軍事境界線となっていた場所。
この川を堺にベトナムは1976年まで南北に分かれた分断国家でありました。

今でこそ平穏な田園地帯が広がっていますが、
当時は数百トン規模の爆弾が降り注いだそうで、
近隣には戦火を避けるために地下トンネルを掘り、
そこで数年間生活した住民の遺構も残っています。

そしてこの南ベトナムに入ったあたりが僕のベトナム旅の終点。
滞在期限が切れるため、進路を西へ変えて隣国のラオスへと向かいました。
南北に細長いベトナムでも特に狭い回廊のようなこの辺りの国土は、
僅か80kmほどでラオス国境へと到達します。

以前は同じフランス領インドシナであったこの国も、
現在はベトナムとはだいぶ様相が異なるようでした。

国境を跨いだ途端に、家屋のクオリティが一時代昔に戻ったようで
板張りの高床式住居が目立ちます。
色白の肌の人間も多かったベトナムに比べて、
ここの人々はより褐色の肌の人々が増えました。

質はともかく物に溢れていた商店の品揃えも寂しいものとなり、
選択肢はそう多くはありません。

食に関しては、ベトナムでもよく食べていた米粉の麺がここでも一般的で、
けれどマイルド過ぎる味付けで
自分でレモンや魚醤などを足さなければいけなかったベトナムに比べて、
ラオスの食事はどれも味付けが最初からしっかりしている。
ラオスご飯はとても自分の舌に合うものでした。

ただ、ラオスの物価は思いのほか高く、飲み物やお菓子といった
軽工業製品の値段は軒並み上がって、時にベトナムの倍近くします。
この国には目立った製造業がなく、海を持たない内陸国であるため、
タイやベトナム、中国といった隣国からの輸入に頼らざるを得ないそうです。
地域の大国に囲まれる形で存在するラオスは、まさに陸の孤島といったところ。
国土を南北に流れる大河メコンもカンボジア国境周辺で滝となるので、
船が海へ抜ける出口も存在しません。

特に印象的だったことは、僕が走ったラオス中南部において、
最も道路の状態が良かった場所はメコン河に沿うように南北に走る
国の主導線・国道13号線ではなく、
ベトナムからタイへ最短距離で抜ける東西200km強の道路だったことです。
このルート上には、ラオスでも指折りの金鉱山があるそうなのですが、
恐らくそれよりは成長著しいベトナムとタイを結ぶ通過点という
意味合いが強いように感じられました。

何だかアフリカの、ちょうどタンザニアからマラウィに
入ったあたりに似ているなと感じました。
ラオスもマラウィも両国ともに国としての印象はとても地味で
ともすると、知らない人もいるような存在感のなさです。

マラウィも東アフリカの内陸国で、周辺諸国に比べると経済的に立ち遅れていました。
商品やサービスの品揃えを見るとケニアを軸とする東アフリカ経済圏に入るのか、
アフリカ一の大国南アフリカ経済圏に入るのかの境になるような国で、
タイ寄りなのか、ベトナム寄りなのかどっちつかずのラオスとも似ています。
そこに中国の資本がどんどんと流れこんでいるという点もそっくりで、
また、両国ともに日本の支援で作られた道路や橋が目立ちます。

こうした様子は周辺の大国がそれぞれのアプローチで小国を翻弄しているようで
僕はある種の新植民地主義的なものを感じていましたが、
『日本から来た』と現地の人と話すと、
ほとんどが好意的に受けとめてくれているようだったので
これも一つの形として有りなのかもしれないと思いました。

乾季のこの時期、景色は枯れ草色の森に赤土の大地が空との対比が強烈で、
ここだけを切り取った写真を見れば、
ここがラオスなのかアフリカなのか区別がつかないことでしょう。
これにアフリカでよく見かけた紫の花を咲かせるジャカランダでも生えていたら、
まるっきりアフリカだな、と思っていたら、
ラオスでもブーゲンビリア(?)の花弁が紫に咲き誇っていました。

似ているといえば、子供たちを始めとする現地の人々の
僕たち外国人への反応もそっくりです。
外国人を見るや否や「ハロー、ムズング!!」と駆けて来るマラウィの子供たち。
ラオスでも「サバイディ、ファラン」!!」と四方八方から声が飛んできます。
タイ語にも近いラオス語のこんにちは・サバイディと外国人を意味するファラン。
地元の人に教えてもらったところによると、
ファランとはかつてのホスト国フランスが訛ったものだそうで、
こんなところにも取り巻く国々との関係性が垣間見えて面白い。

好奇心を全面に押し出す彼らと接していると、
時に言葉すら超えられるような錯覚に陥ります。
話せる現地の言葉はわずかだったとしても、挨拶さえ交わせば僕らは友達になれるのです。

旅の序盤、ラテンアメリカにいた頃はよく「オラ、アミーゴ」なんて言ってくる輩も多く、
なんて馴れ馴れしいんだ!と思っていたのですが、
いつの間にかそういう彼らの気持ちも少しは分かるようになっていました。
たぶん、それがアフリカにいたあたりからだと今になって思います。
アフリカでも随分調子のいい人々が多かったのですが、
時としてそんな調子のよさも、人と人とが良い関係を築く上で
必要なのかもしれないと思ったのでした。
あそこで交わした数々の挨拶、ハローもジャンボも、
それこそギブミーマネーの言葉も含めて、
交わす挨拶で僕らの距離はグッと近づいた手応えは今も残っています。

挨拶の持つ不思議な力は計り知れないものがあって、
時に暑さで疲れ果てている時も側道から言葉をかけられただけで、
何だか元気が湧いてきます。

いえ、何も言葉を交わさなくたっていいのです、
すれ違う時に手を軽く上げたり、
目と目があった時に眉をクイッと上げておでこにシワをつくれば、
相手もニッコリ笑ってくれるのです。
するとペダルを漕ぐ足にも力が戻ってくるのが分かります。
あの忌々しきクラクションだって、挨拶の意味の時はちゃんと分かるし、
僕を追い越したバイクが振り向きもせずに右手の親指を立てて
走り去ったりした時などは、いい意味でやられた!と思ってしまいます。

寝床や値引きの交渉の際にも、
下手にたどたどしい現地語の言葉で交渉を持ちかけるよりも、
交渉の成立の如何は、気持ちのよい挨拶が出来るかどうかに
かかっていると言っても過言ではありません。
ニコッと笑って、スパッと切れのよい挨拶をする。
店主が「おう、なんだお前、なかなかやるじゃないか」と口元に笑みが見られたら
交渉は8割方成功したと思ってよいでしょう。
物事は第一印象が肝心とは言いますが、だから僕はどうしてもという状況ほど、
始めの挨拶に全力をかけています。

何にせよ、挨拶。新しい国に着いてまず覚えるべきはその国の挨拶。
日本だと意識すればするほど堅苦しくなってしまう挨拶も、
実のところはとてもシンプルで簡単なものなのです。
そして、その効能を身をもって実感出来るところが
言葉の通じない海外の面白いところではないでしょうか。

ラオスは僕にとってちょうど60カ国目の訪問国。
訪ねた国の交わした挨拶の数だけ僕は世界中に友達がいます。
サバイディ!!

  • プロフィール 元無印良品の店舗スタッフ

最新の記事一覧

カテゴリー一覧