親切の輪廻
旅に出て変わったことはあるのでしょうか?
僕自身は何かを変えたいと思って旅に出たわけではありません。
旅に出たからといって何かを変えられるほど、世の中は簡単ではないですし、
旅は美談だけでも語れないものだと思うので、特に変わる必要もないと思っています。
でも、その当時は分からなくても、
後で振り返ってみて変わったと感じることがあることは否定しません。
メコン川に沿ってラオスを南下し、カンボジアへ。
掘っ建て小屋といって差し支えない貧相な国境事務所で手続きを済まし、
走り出した道路はラオスよりも状態が悪く、
所々大きな穴が空き、土埃が舞い上がりガタガタに崩れていました。
街道沿いの薄い板で組まれた高床式住居はひと拭きで崩れ落ちそうな頼りのなさで、
電気は通っていなさそうです。
当然、冷蔵庫もないので、ほとんどの家は大きなクーラーボックスに
氷を入れて保冷剤代わりにしていました。
また、その氷はかき氷にして食べられるのですが、
サトウキビジュースと練乳がたっぷりかかったかき氷はとても暑いこの時期、
これほどに美味しいものがこの世に存在するのかと思うような格別さでした。
井戸に水を汲みに来る子供たちもよく見かけ、
中には井戸の脇で気持ちよさそうに水浴びをするお母さんもいて、
少しドキリとさせられる場面も。
首都や観光地からも遠く離れたカンボジアの片田舎の風景は
驚くほどに前時代的でプリミティブな世界がまだそこに留まっていました。
傲慢さを承知で言えば、僕らの住む世界観からはかけ離れた場所、
でもここは暑い、冷たい、美味い、楽しい、
そういったあらゆる感覚の輪郭がハッキリとしています。
この土地から教わることはたくさんあるように思えました。
ある時、道端で子供たちが集まって何やら困っている場面に出会いました。
通りがけに横目で見ると、どうやら自転車が故障してしまっている様子。
僕はキュッとブレーキをかけて引き返し、子供たちの輪に首を突っ込もうとすると、
彼らは突然の訪問者に少し戸惑い、怖がっているようでした。
僕は慌てて自転車を指さして、ちょっと見せてとジェスチャーで示すと、
やっと子供たちも理解してくれたようで、表情に安堵が見えました。
走れなくなった自転車はチェーンが外れただけのようです。
しかし子供たちが触ってしまったようで複雑に絡まってしまっています。
でも、どうにか直すことが出来そうだったので、
僕はその場に座り込んで、彼らの視線を一身に受けながら、
カチャカチャと絡まったチェーンをほどきにかかりました。
長い間油が差されておらず、カラカラになったチェーンを触りながら、
僕は少し考え事をしていました。
旅の最中、現地の人のお世話になる機会が本当にたくさんあります。
それは休憩時に地べたに座る僕にさっと椅子を差し出してくれたこと、
食堂で相席になって話をした人が僕の分までまとめて支払いを済ましてくれたこと、
雨宿りで駆け込んだつもりがそのまま一宿一飯の恩に預かったことだったり、
ちょっとした気遣いから、頭が下がるような気配りまで枚挙に暇がありません。
でもその一方で受けた親切を本人に返す機会は、ほとんどありません。
旅の始めの頃、僕は返すことが出来ない親切を受けることが
歯がゆくて、重たくて、どうしたら良いのか分かりませんでした。
親切を受けたのなら、それと同じくらいのお返しを本人にしなければいけない、
そんな風に思っていて、そんなことが出来るわけのない今の状況が
もどかしくて仕方ありませんでした。
だから必要以上に気張っていて、
返すことが出来ないのなら誰かをアテにしたり、頼ったりしてはいけない。
人の親切に付け入ってはいけないものだと思っていました。
そんな考えが少しずつ変わっていったのがアフリカにいた頃だったような気がします。
あの土地もこのカンボジアに似ていて、何もないような土地に懸命に暮らす人達がいて、
そこに現れた僕に対して、ごく自然な振る舞いで助けを与えてくれました。
そこで僕が出来る事は『ありがとう』と伝えることだけ。
ありがとうと言う以外に僕が出来ることがなかったからこそ、
気持ちの受け止め方は気持ちしかないと気づけたのかもしれません。
たぶん、それ以前の僕は、相手の心や行為を金銭に換算し、
それと同額同様の行為をしなければと思い込んでいたのです。
だから、以前の僕は何かにつけて『How much?』と尋ねる嫌なやつだったろうと思います。
そんな事を考えながら、3分ほどでチェーンの修理を終えました。
はい、どうぞと言って自転車を立てると、
「アックン(ありがとう)」
子供たちが恥ずかしそうに言って来ました。
それだけで僕は心が満たされるような思いになりました。
彼らに対して僕は見返りなんて求めていない、
困っていると思ったから自分に出来る助け舟を出しただけです。
ありがとうと言われて感じた気持ちは
きっと今まで僕に優しさを分けてくれた人たちと同じ気持ちだったことでしょう。
だからこれはバトンなのだと思います。
受け取った思いは、届けてくれた人に直接返していくのではなく、
また次の誰かに届けていけば、それでいい。
一対一で完結する物事よりも、みんなでシェアをして繋いで行ったほうがずっといい。
それが巡り巡ってまた自分のところに届いたらどんなに素敵なことか。
受け取る親切心は返すものではなく、回していくものなのでした。
当たり前のようで、なかなか当たり前に出来ないこんなことを知りたくて、
僕は世界各地を旅しているのかもしれません。
同時に、元いた世界に戻った時、今のこの気持ちを忘れてしまわないか
少し不安になりますが、
そんな時こそ彼らの顔を思い出せば、
旅を終えてもなんとかなるような気もしています。
子供たちと別れてすぐ後ろを振り返ると、
そこには修理した自転車に二人乗りで跨がり、ふらふらしながらも
ニコニコキャッキャと学校へ向かう彼らの姿が見えました。
この日の午後の走行は、いつにも増してペダルが軽かったことを覚えています。