忘れられないマイルストーン
飯がうまくて、宿もたくさんある。
おしなべて治安も良い東南アジアは今や世界で最も旅行のしやすい地域かもしれません。
タイに入ってからは日本でおなじみのコンビニエンスストアまでもが登場し、
エアコンが強烈に効いた店内で、
キンキンに冷えたアイスシェイクを山盛りにして掻き込むのがこのところの日課でした。
けれど、宿から宿へ、コンビニからコンビニへと繋ぐだけのような旅は全く刺激もなく、
マレー半島を南下する旅は移動以外に目的を見いだせない日々が続いていました。
かといって原因が分かっていても、その場所から抜け出せないのは自分の弱さで、
一度その快適さを味わってしまうとなかなか距離を置くことは難しいのでした。
マレーシアに入ると、タイ南部から少しずつ見かけるようになった
モスクが一気にポピュラーになりました。
ヒジャブをまとった深い彫りの顔の女性、イスラム帽を被った長い髭のおじさん、
懐かしい世界に帰ってきたようでした。
街道沿いの屋台のお兄さんもバイクで追い越していく人も
にこりと微笑み手を振ってくれる。
この旅人への優しい眼差しも身に覚えがありました。
東南アジア経済の優等生であるマレーシア。
この国でも変わらず宿の看板はたくさん見かけました。
けれど、久しぶりのイスラムの空気にほだされたのか、
どうしてもマレーシア最初の夜は、
"旅らしい旅"を求めてどこかでキャンプをしたい気持ちになったのです。
日没ぎりぎりまで走って、灼熱の空気にまろみが帯び出す頃、一軒のモスクに飛び込む。
彼らは何の疑いもなく、モスクの一画にテントを張ることを許してくれました。
ほっと胸を撫で下ろした僕に、ミナレットから響くアザーンが優しく響きます。
そして一息ついた後、
敷地の隅に最近はすっかりご無沙汰になっていた我が家を組み立てました。
まもなく夕方の礼拝を終えた男性たちがぞろぞろと本堂から出てきて
物珍しさから僕に声をかけながら家路についていきました。
皆が帰り終える頃には辺りはもう真っ暗。
まだ寝るには早い時間だったのですが、テントに入って横になってぼんやりと
何をするわけでもない時間をまどろんでいました。
すると、遠くから原付バイクの軽いエンジン音が近づいてきました。
なんだろう? と思ってテントから頭を出してみると、
さっき少し言葉を交わしたマレー人の男が戻ってきていたのでした。
「そんなところにテントを張らないで、屋根の下に張りなよ」
とその男、エサックさんは言います。
『ここで大丈夫ですよ、平らな床があれば十分です』
「遠慮しないでいいんだよ、それに今夜は雨が降るかもしれないし、さ」
『はい、分かりました』
「ところで、晩御飯は食べたかい? ほらこれ、マレーシアご飯だから食べな。
辛いのは大丈夫かい?」
どうやら彼は、一度帰ったにも関わらず、
わざわざ僕に晩御飯を届けに戻ってきてくれたようでした。
「そうそう、トイレはあっちの建物の向こうにあるからね」
『それは他の人に教えてもらいましたよ』
「そうか、それに蛇口がそこにもあってな
」
『あ、実はそれも
』
「なんだよ、もう何でもここのこと知ってるじゃないか!
でもそれなら大丈夫だね。それにここは小さな村だから、
誰も悪いやつなんていないから安心して。じゃあお休み」
こんな小気味のいい掛け合いをした後、
エサックさんは家に帰っていきました。
無理強いをするわけでもなく、恩着せがましくもなく。
当たり前のような振る舞いで親切心を届けてくれる。
彼らから見習うことはやっぱり多い。
宿に泊まっていたのでは出会うことがなかった人との触れ合いに
今日はキャンプにしてよかったな、得難いなとしみじみ思えたのでした。
僕は彼らのように信心深いわけでもなく、
唯一無二の存在があるわけでもありません。
けれど、敬虔な彼らの心に触れることで、
彼らの信仰する神の存在が分かるような気もするのでした。
言われた通りテントを小屋の下に移し終えた後、
エサックさんからもらったお弁当を食べることにしました。
お弁当の上には紙パックのオレンジジュースが添えられていて、
ストローを挿して飲んでみると、お弁当の熱を吸っていて妙に生ぬるい味がしました。
でも、その生ぬるさが、彼がどこかでこのお弁当を買って、
わざわざこのモスクへと戻ってくるまでの時間だと思うと、
有難いような申し訳ないような、そして彼の気持ちが伝わってくるような、
色々な気持ちが混ざり合って思わず涙がこぼれてしまいました。
そして食事を終えて、一日の記録をつけようと
自転車のメーターを取り出すと、思わずあっとなりました。
画面に記された60,000kmの文字。
今いるここは日本を出て地球一周半の距離にあたる場所だったのです。
積み重ねた数字の中には越えてきた数多くのシチュエーションが詰まっています。
追い風にプッシュされて一日で200kmを走れた日もあれば
三日間上り坂が終わらずひらすら登った100kmもあります。
予定通り進めた日も、道に迷って引き返した日もありました。
数字自体に意味はないのかもしれません。
けれど刻んだ数字は、旅を振り返った時に
これまでに経験した多くの出来事を思い出すための
手がかりに成り得るのだと思います。
だから、この地に立てた60,000km目のマイルストーンは、
このモスクでの出会いをいつまでも忘れられない思い出へと刻んでくれたのです。
夜半12時過ぎ。
突然の轟音と共に激しいスコールが降り注ぎました。
バケツをひっくり返したように、とはまさにこのことで
叩き付けるような雨が激しく地面を打ちつけました。
30分ほど降り続いた雨はあっという間に空気を冷やし、
屋根で守られた僕のテントにひんやりとした一陣の風が吹いたのでした。
闇夜の向こうにチカチカと光る通り過ぎた雷雲を見ながら
僕はエサックさんの顔を思い出していました。