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二十年続く鎖り縁

2015年04月15日

マレー半島南下の旅は再会の旅でもありました。

マレーシアの首都クアラルンプールでは、
アゼルバイジャンで知り合ったロシア人の友人が切り盛りする宿にお世話になり、
東西の文化の混交が特に色濃く見られる港町マラッカでは、
台湾で出会ったマレーシア人が
マレー風串焼きのサテーのレストランに招待してくれました。

また、これは再会ではないですが、
マラッカの街は宣教師のフランシスコ・ザビエルも縁がある街だそうで、
街を見渡せる丘の上には彼の像が建てられていました。

ザビエルはスペイン北東部のバスク地方に生まれ、この地を経由して日本へと渡りました。
彼の地は僕もかつて訪れていて、あれからはるばる二年をかけて、
僕はいよいよユーラシア大陸の南の端までやってきたのだと考えると
妙な感慨が体を包み込みました。

更に歩みを南へ進めるとついに海峡を越え、東南アジア最後の国シンガポールへと入国。
いよいよもって日本や西欧と変わらぬ整然さと平静さを携えたこの国でも
元職場の上司の方々、これまた旅先で出会ったシンガポーリアンが
僕を迎え入れてくれたのでした。

こうした彼、彼女たちとの再会は、単純に嬉しいものであると同時に
日本で暮らしていた時には全く縁遠かった国々を身近な存在へと変化させてくれます。
それはザビエル像もそうで、きっかけの糸口を探せば日本と世界は必ずどこかで結びつく。
時に大きな世界も目を凝らしていけば、小さな世間として繋がっているのだと思います。

さて、そんな再会ラッシュの中でもずっと楽しみにしていたのが、
同郷のルミとの数年振りの対面でした。
僕とルミは中学校の同級生。
といってもお互いを見知ったのは小学生の頃だったと思います。

僕の育った福島県の小さな町の小学校では、クラスメイトはたったの25人。
そんな少人数の学校だから給食はなく、結局人生で一度も食べず終いでした。
当時の僕はスポーツ少年団に入っていて、
ソフトボールやドッジボールをやっていたのですが、当然練習相手がいません。
だから練習試合のために隣の小学校へ出向いていくことがよくあり、
その練習相手の中でルミを初めて見かけたのだと記憶しています。

やがて僕たちは同じ中学校に進学。
各地の小学校から同級生が集まると、ようやく初めてクラス替えというものを経験。
それでも僕とルミは結局同じクラスになったことはありませんでしたが、
なぜだか休み時間の廊下でよく話しをした覚えがあります。
それはルミのいい意味で女性らしからぬサバサバした性格が、
余計な気を使わなくてよかったから、話の馬があったのかもしれません。

一度だけ中学二年生の夏休みに僕らは、
当時町が主催していたオーストラリアへの研修旅行で一緒になったことがあります。
二週間ほどかけてそれぞれ現地の家庭にホームステイをして、
最後の数日間はみんなでオーストラリアの東海岸を観光して周るもので、
僕は男子班のリーダー、彼女は女子班のリーダーでした。
年頃の男女は些細なことで毎日ケンカが絶えませんでした。
互いの班のリーダーだった僕たちは、誰よりもヒートアップして
「お前が悪い」『いやそっちの方が悪い』
と鼻息荒く言い争いをし、最後にはホテルのフロアを水浸しにする程でした。
今でこそ、この研修旅行での男女の仲違いは、
僕らの間での昔話ではお約束の鉄板ネタではあるのですが、
あの頃は本当に一触即発の状態だったのです。

中学を卒業すると再び僕らは、それぞれ違う高校へと進みましたが、
通学の電車でよく一緒になることがあり、
ああだこうだとうだつの上がらない話ばかりしていました。

大学に入る頃には僕は東京へ、ルミは地元で進学をしたため
さすがに頻繁に会うことはなくなりましたが、
友人を通じて彼女がニュージーランド留学に渡航したと耳にしました。
さらに後にはオーストラリアやアフリカのルワンダなどでも暮らすようになります。

同じような時期に僕は僕で自転車を抱えアメリカ横断へと向かい、
その時の体験が原風景となって今の自転車旅の元となっているのだから、
中学の時はケンカをした記憶しかなかった研修旅行も、
実のところ心のどこかで僕らの大きな礎となっているのだなと思います。
研修旅行をきっかけに外の世界に興味を持った者同士、
会うことは少なくなっても不思議な親近感を抱いていました。

最後に会ったのはいつだったか、記憶が曖昧で定かではありませんでしたが、
今回の旅の序盤に僕はルミに再会できるチャンスがありました。
旅のスタート地点に選んだカナダのバンクーバー。
折しもそのタイミングでルミは隣の州のカルガリーに住んでいたのです。
けれど、残念ながら僕が夏のロッキー山脈越えにあえいでいる最中、
彼女の労働ビザの期限が来てしまい、数日の差で会うことはかないませんでした。
あんな小さな町で生まれた僕らがカナダで会えたら面白いね、
なんてメールのやり取りをしていたのですが、結局叶わぬ夢となったのでした。

日本に戻った彼女は福島に戻り、英語の教師をしていたところで結婚しました。
旦那さんの仕事の関係で、シンガポールで暮らすことになり、そして妊娠。
去年の夏に出産をし、母親へとなりました。
一方の僕はあれから今に至るまで旅を住処とし毎日を過ごし、
やがてあの時会うことが叶わなかったルミにシンガポールで
再会を果たすことが出来ました。
旅の序盤にすれ違ってしまった二人が、四年近い時間を経て
地球をぐるりと周ってきた先で再び出会えたのだから、
因果とはなんたるものかと考えます。

「相変わらず変わってないねぇ」
『そっちこそ。それにしてもあのルミが今ではママとはね』
「うん、私もそう思う」
プハッと二人で吹き出してしまいました。
小さい時からお互いを知っているからこの会話には色々な意味が込められているのです。

もういつ以来振りなのかさえ覚えていないのに、
一方で昨日も会っていたような親しさも湧いてきます。
そして話の流れはすぐに明後日の方向へと流れ、
またとりとめのない昔話で時間が過ぎてゆきます。

変わってないと思えば、僕の知らない顔もそこにはありました。
息子をあやし、てきぱきと家事をこなす姿は、
僕の知っているものではなく、それは確かにママの姿でした。
出産は、あらゆる価値観を一変させるとは言いますが、
彼女もまた一人の母親としての横顔をするようになっていたのです。

素敵なママになったんだね、と僕は内心思ったのですが、
それを言葉にして本人に伝えるのは、
それはそれでちょっと気恥ずかしくて止めました。

僕らの間柄はとても曖昧で不思議です。
親友と呼べるほどでもないけれどお互いのことはよく知っている。
そうかと思えば、あまり深い話をした記憶はなくて、
取るに足らない会話しか思い出すことが出来ない。
ケンカもしたけれど、だいたい後腐れはなかった。

こんな切れそうで切れない間柄だから、
なんとなくこれが腐れ縁というものかと思っていたのですが、
地球規模の何年も続く縁を腐れというのはこれもやっぱり違う気もしていました。
でも少し調べてみると、すっと腑に落ちる解に行き着きました。

それはすなわち"腐れ縁は鎖り縁"であるということ。

もともと、"くされ"とは"鎖"を意味するものであったそうですが、
語感の響きからいつしか"腐れ"に変わっていった経緯があるのだそう。
なるほど、僕らの小学校以来の不思議な縁は切っても切れないというよりも、
鎖のように強固な結びつきと表現したほうがピッタリです。
僕らの縁は鎖だったのだ。

二十年続く鎖り縁は、またきっと僕たちを地球のどこかで
巡りあわせてくれることでしょう。
今は分からなくとも、なにか確信めいたものを感じています。

  • プロフィール 元無印良品の店舗スタッフ

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