仏の国の無財の七施
ミャンマーは熱心な仏教の国です。
街の中心では大きな金色のパゴダ(仏塔)がランドマークになっていて、
そこを訪れると老若男女問わず皆、焼けつくような暑さにも関わらず、
頭を地面に擦りつけるようにして祈っている姿を見かけます。
パゴダは何も街にだけあるのではなく、どんな田舎でも大きさはさておき必ずあって、
村の人々が持つ僅かな財を投げ売ってまでして建てられることも多いのだそうです。
朝方はお坊さんたちが黒くて深い鉢を持って、托鉢に回る姿はもうすっかり見慣れ、
僧院の前を通れば日に何度も寄進を集める人々の姿も見かけます。
まだ可愛らしげな小坊主たちも、やがて立派な高僧へと成長していくのでしょうか。
食堂の営業も托鉢に合わせていることが多いので、この国の朝はとても早い。
時間のリズムは仏様を基準として動いているのです。
東南アジアの上座部仏教と日本の大乗仏教との宗派の違いも
よく分かっていない自分ですが、
果たしてその仏様に対する向き合い方は、
僕の知っているそれとはまるで違っていることはよく分かります。
この国は、道路は狭くガタガタで、電気も安定して使えるところはほとんどなく、
衛生環境も手放しで褒められるものではありません。
しかし、人々の表情に陰りは見えないように思えます。
当初、それはみんな横並びで貧しいから
妬みや羨望が生まれないものだと思っていましたが、違っていました。
己の内面と対峙する仏教の教えが
物質的に貧しい彼らの心を色とりどりに染め上げていたのです。
穏やかな笑顔と優しい親切心。
「ミングラーバー」と交わす挨拶も長閑な調子で思わず心が和む。
道を訪ねればわざわざバイクで先導してくれ、
時に食事や冷たい飲み物を与えてくれる気心。
悪意はかけらほどにも感じず、異人である僕を当たり前のように迎えてくれました。
この国で暮らしている国民ほど純粋な人々を僕は知りません。
それに対して後でお金を要求されたらどうしようと思ってしまう自分の器の小ささ。
彼らの持っていない物を僕はたくさん持っているけれど、
彼らもまた僕の持っていないモノをたくさん持っていたのでした。
そんな折、無財の七施という言葉を知りました。
それはお金がなくても出来る仏教の七つの布施のことです。
・眼施(げんせ) 人に対して優しい眼差しをもって接すること。
・和顔施(わげんせ) 人に対して優しい笑顔で接すること。
・愛語施(あいごせ) 思いやりをもった言葉で接すること。
・身施(しんせ) 身をもって思いやりを示すこと。
・心施(しんせ) 相手に対して心配りを示すこと。
・牀座施(しょうざせ) 席や立場を他の人に譲ること。
・房舎施(ぼうじゃせ) 宿泊や休憩の場所を提供すること。
この言葉の意味を知ると、
おどろくほどスッと彼らの僕に対する行動に合点が行ったような気がします。
彼らが意識する、しないにも関わらず、
彼らの行動原理はきっとここからきているのではないか。
経済的に豊かではないとしても、
彼らはお金には換算出来ない布施を恵んでくれていたのです。
それは僕のためでもあると同時に、自分たちのためでもあります。
生前、善行をして徳を積み重ねることで
死後、より良い世界に転生するのです。
大きなパゴダを訪れると、鳥が捕まえられているのを見かけますが
この鳥はお金を払うことで逃すことが出来、
この行為によって徳を積むことが出来るとされます。
けれど逃された鳥は再び捕らえられ、次にお金を出してくれる人間を待ちます。
僕らが良しと教わってきた価値観からすると、
合理性もない意味のない行為なのかもしれません。
しかし、この仏の国では僕らの知っている価値観とは
全く別な価値観が生きているのです。
とある街のパゴダの前を通りがかった時、
目の前の集会所で何やら催しものがやっていました。
賑やかな雰囲気に、何だろう? と思って見ていたら、
こっちに来て一緒に食べなさいと招かれました。
しばらくしてやっと分かったのは、これはお葬式だったのでした。
けれど、悲しみに暮れている人は誰一人いなく、皆穏やかです。
そして集まった人だかりの隙間から見つけた遺影のおばあさんは和やかに笑っていました。
きっと生前は善行をたくさん行って、新しい世界に向かっていったから
笑って送り出すことが出来たのでしょう。
この国の死生観も、やっぱり僕の知っている世界のものとは別次元で存在していました。
ところが、この熱心な仏の国にも今、大きなうねりがやってきています。
2011年に軍事政権から民主化へと移行したミャンマーは、
日中韓のアジア三国を始めとして、世界中から経済的な注目を集めています。
旧首都ヤンゴン、首都ネピドー、第二の都市マンダレーを
南北に結ぶ経済の大動脈とも言える国道一号線のあたりまで出ると、
それまで純粋無垢としか言いようのなかった
ミャンマーの人々の中にも少し悪意が芽生え始めるのが分かりました。
真新しい日本製の車で追い越し際に脅かすように大声で叫びつけてくる若者。
「マネー、マネー」と言いながらふらふら付いてくる子供。
我が物顔でクラクションを鳴らしつけるバスとトラック。
これまでのミャンマーの田舎では見られなかった、
けれど、世界の多くの途上国で目の当たりにしてきた光景が
ここでも同じように展開されていました。
この国では、交通事故を起こすと責任の有無は問われず、
ただちにドライバーが七年間の刑に服さねばならないそうで、
だから彼らも狂ったようにクラクションを鳴らすのだそうですが、
それにしてももっと違うアプローチは出来ないのでしょうか。
フロントガラスの向こうにあの穏やかなミャンマー人がいるとは到底思えません。
持てる者が相手への配慮を欠いた強欲さを持ち、
弱者は生きるために人としての尊厳を失ってゆく。
お金が回りだすと、どうしてこうも世界中で
同じような人たちに変わってしまうのでしょう。
この国道一号線にはびこる不穏な空気は
やがてミャンマーの隅々まで伝播していってしまうのでしょうか。
厳しい戒律を順守していると思われた僧たちも、
凄まじいスピードで変わりゆく時代に規則が追いついていかないのか、
スマートフォンでゲームに興じたり、写真を夢中で撮っています。
そんな姿からは、周囲から尊敬を集める威厳を感じることは出来ません。
生活をより良くしていくための経済発展が、
いつの間にか彼らが長い間育んできた仏の心を奪いさろうとしています。
この国は今まさに変化の過渡期であると感じると共に、
変化と引き換えに急激に特徴のない凡庸な一国家に
成り下がろうとしているのではないかと僕は感じました。
この国は長い間、鎖国に近い外交が続いていたため
アジア諸国の中でも独特の文化が残る稀有な国です。
顔に塗るタナカや、男女問わずに着用される巻きスカートのロンジー、
足でプレイするバレーボールのようなスポーツのチンロンなど
この国固有のキーワードが多くあります。
そして僕たちが経済発展の中で置き去りにしてきてしまった
敬虔なる信仰心がこの国にはありました。
近い将来、この国を司る価値観は
いったいどちらの方向に向かっていくのか、非常に気になりました。