歴史の当事者として走ったアジア
グリンゴ、ファラン、イングレー。
これらの単語はある地域における外国人を指す別称です。
グリンゴはラテンアメリカ諸国で聞く言葉で、とりわけ中米諸国ではよく耳にしました。
外国人に向けて発せられるこの言葉は、元々はアメリカ人を指すものだったそう。
なぜアメリカ人なのかと言えば、
当時、北米大陸で領土拡大を続けるアメリカに対して
不満を募らせたラテンアメリカ諸国が、
アメリカ軍の軍服を彼らの帝国主義の象徴に見立て、
「Green Go Out!!(アメリカは出て行け!)」と叫んだことが訛ってグリンゴになり、
今では主に白人外国人を指す蔑称となったそうです。
ファランはインドシナ半島における外国人の呼称で、語源はフランスから来ています。
理由は簡単でフランスはベトナム、ラオス、カンボジアにあたる地域の
宗主国として存在していたからです。
そしてイングレーはイングリッシュ。
イギリスの植民地下にあったミャンマーの子供たちがときどき口にした言葉でした。
従属国にとっての外国人とは、テレビや写真で目にする人間ではなくて、
宗主国の人間以外に考えられないのでしょう。
その土地に対して強い影響力を与えた国に由来する言葉が、
外国人を表現する代名詞として土地に根付いているというのは
なんだか少し考えさせられるものがあります。
北米、南米、アフリカ、ヨーロッパの順に訪ねてまわった中で
近代史における他国の植民の歴史を、こんな風に
僕はあれこれ好き勝手に感想を抱いて傍観していました。
けれどアジアに入り東南アジアあたりからは、いよいよ僕も歴史の一員として、
そう遠くない過去に日本がこの土地を踏んだ足跡を目にする機会が増えだしました。
日本軍が攻め入ったとされる都市や、拠点になった港町。
あちこちに残る大戦の傷跡や慰霊碑の数々。
これらは東南アジア各地で数多く目にしました。
そこにアジア諸国の列強からの独立という大義があったとしても、
日本を中心に世界地図を見渡してみても、随分と大きな事をしでかしたな、
というのが率直な感想です。
戦争があったことで戦後のアジア諸国独立の
きっかけになった事実もあるのかもしれませんが、
当時の事の正当性を後の歴史で語ることは出来ないと思います。
それに独立を勝ち取った国もあれば、南北に分断され混迷に陥った国々もあるのです。
ところが、そんな思いとは裏腹に出会う人のほとんどは
日本に好意的だったことは意外な思いでした。
「ジャパン、ナンバーワン! ジャパン、ビューティフル!」
と持ち合わせの英語と、日本企業の名前を出しては手放しで褒め称えたり、
大きな手で握手を求めてられることも多々あって、
日本語を勉強して日本で働きたいと言う人もたくさんいて、
僕らは僕らが思っている以上に世界から注目されていると感じました。
それだけに僕らはアジアを引っ張る立場として、
人道的で、関わる多くの人にとって最良の結果をもたらす行動や活動に
一層努力をしていかなければならないと思います。
さて、ミャンマー西部のチンドウィン川を越えると、
まもなくインド・ミャンマーを隔てるアラカン山脈が姿を覗かせます。
この辺りは第二次世界大戦下における日本軍のアジア戦線の最終局面にあたる場所。
ヤンゴンを攻略し、ビルマを押さえた日本軍がインド方面へと歩を進めた理由は、
連合軍のインド経由での中国への物資支援ルートを断つためと、
またインドの東の拠点の一つであるインパールを落とすことで
インドの独立勢力の決起を促すためと言われています。
しかし、満足な兵站もなく、食料や医療といった後方支援が得られないままの特攻は、
チンドウィン川やアラカン山脈の自然の壁が立ちはだかり、
マラリアや赤痢といった疫病も蔓延し、失敗に終わります。
インドからミャンマーへと敗走する退却路は戦死者よりも餓死者、病死者が多いほどで、
数万人に及ぶ遺体が横たわり死屍累々の有り様だったそうです。
そこは息絶えた戦没者が、道標の代わりとなったことから白骨街道とさえ呼ばれました。
そんな街道にあたる場所でジャパンという言葉が聞こえてきたことに、
僕は内心ドキリとしました。
たまたま僕を一見で日本人と見当てたのかもしれません。
けれど、その後も何人もの人がジャパン、ジャパンと言っているのが聞こえてくるあたり、
この地域ではもしかしたらジャパンが外国人を指す代名詞になっているのかもしれません。
アジアの覇権を目指した帝国主義を掲げ、よその国の土地に入り込んで、
そこを舞台にまた別な国と争いをした結果、
ここに定着した外国人の呼称がジャパンなのだとしたら
僕はどんな態度でそれを受け入れればよいのでしょう。
そんなことを考えながら辿り着いたミャンマーとインドの国境は、
50mも無い小さな鉄橋で隔てられていました。
ここからアラカン山脈の登坂が始まります。
標高100mから一気に2000m級の山脈が連なる険しい山岳地帯では、
自転車の僕だけでなく何台ものトラックでさえ、
エンジンが悲鳴をあげ、ストップしている姿を目にしました。
全線舗装された今でさえこの有り様です。
食料も火薬も尽きたにも関わらず、
未開のジャングルが行く手を拒んだであろう当時に思いを馳せると
そんな状態でもなお個人を突き動かした国という生き物に畏怖の念が湧いてきます。
ぜぇぜぇと息を切らせながら色々な思いが巡ります。
どうして国のために目の前に命を放擲することが出来ようか。
国といったって、ここはよその土地。
自分たちに縁のある土地でもないのに、
そこに国のためという大義を掲げられることが分からない。
国を守るために個人は国の四肢として動かなくてはならないのか。
個人を守るために国は存在しているのではないのだろうか。
勝てば官軍の世界だから、正解はないのでしょうけれど、
戦争に奪われた命を思うと、やっぱり不条理さを感じてしまいます。
インパールのあるマニプル州は、今ではミャンマーからのドラッグルートになっていたり、
インドからの独立を目指す勢力がジャングルに潜んでいるという理由から、
尋常ではない数の兵士があちこちで検問と巡視をしていました。
やがてインパールに到着し、さらに北に位置するコヒマへとやって来ました。
このコヒマはインパール作戦において日本軍の最終到達地点となったところで、
この土地の占領を巡ってもイギリス軍と激しい戦いが繰り広げられた場所でもあります。
このところ、イギリス人とよく出会っていました。
まずは国境の村の食堂でばったりと出会ったミャンマーへ向かうウィリアム。
彼の紹介で、コヒマでは現地のニノさんという女性の家にホームステイしたのですが、
ここでもイギリスから自転車でやってきたトムとニックの二人組に出会いました。
彼らもミャンマーへ行くというので僕らは情報を交換し合ったり、
お互いの旅のエピソードを披露し合って過ごしました。
そこにインドの女の子が二人加わって、
いよいよこの地を巡って争った三者が偶然にも出揃ったことは
どこか示唆に富んだ巡り合わせだったように思います。
翌日になると、冗談好きのニノさんは
「私はびっくりしたのよ。だって70年前は互いに戦い合った国同士の人間が、
今では同じ部屋でおしゃべりして、寝てるんだもの」
とからかうように言ってきました。
僕は虚を突かれた笑いを浮かべ、一方でトムは
「あれは過去のことさ。今は今だよ。なんならここで握手してみせましょうか?」
と返していました。
僕らは戦争を知らない人間です。
戦争にまつわるわだかまりも感じることはありません。
アフガニスタンやイラクにといった戦地に派兵しているイギリスは
またちょっと事情が違うのかもしれませんが、
それでも当時のような距離感で戦争が身近にあるわけではないと思います。
だから戦争の直接の痛みは僕には分からないし、想像の範疇を超えてしまいます。
当時に関わった国の人間として無責任な言い方かも知れませんが、
それは時間の与えてくれる功罪だと思っています。
そうでなければ、多分いつまで経っても人は
憎しみや悲しみ、怒りに囚われてしまう。
痛みを知らない世代が生まれてくるというのは
新しい価値観で新しい関係を耕していけるきっかけになると思います。
ただ、だからといって過去に起こった事実を否定してはいけません。
過去を学び、認め、反省する。
当たり前のことを言っているかもしれませんが、
これを愚直に出来ないと僕らはまた同じことを繰り返してしまうかもしれません。
このあたりの地域の、このあたりの時代の話と言えば
真っ先に持ちだされるであろう児童文学"ビルマの竪琴"では、
戦争の悲惨さと残された者の使命とは何かをテーマに物語が書かれています。
ミャンマーを敗走する日本軍と追撃するイギリス軍。
作者によると、物語を書くにあたって相手国はどこでも良かったそうですが、
"音楽による和解"を考えていたために共通の歌をもつ国としてイギリスが選ばれ、
必然的にミャンマーが戦いの舞台とされたそうです。
音楽の才に秀でた水島上等兵が奏でる竪琴は時に戦局を切り抜ける手段として活躍し、
イギリス軍に周囲を囲まれた際に"はにゅうの宿"を奏でると、伴奏に合わせて
いつしか森に隠れる敵陣から「Home,Home,Sweet Sweet Home」と原曲の歌声が聞こえ、
日本軍敗戦の知らせを受けた両軍はやがて手を取り合って一緒に歌った、
というシーンがあります。
物語は実話ではないにせよ、作品からは戦争の愚かさと、
そして出し抜くことや傷つけ合うことではなくて、
共に歩むための別な手段や方法があって、
手を取り合う方がもっと簡単だということを教えてくれます。
今日、出発するというトムとニック。
ビルマの竪琴のように僕らは一緒にはにゅうの宿を歌ったわけではないけれど、
自転車旅という共通の手段でもって、お互いの無事を願って固い握手をしたのでした。
さて、ニノさんの家から歩いてすぐの街の中心にある丘は
コヒマの戦いで殉職したイギリス軍の墓地になっていて、
丘の前面に建てられた石碑にはこう書かれています。
"When you go home,tell them of us and say"For your tomorrow,we gave our today""
(君、故郷に帰りなば伝えよ。祖国の明日の為に死んで逝ったわれらのことを)
戦争の痛みを感じることは僕には出来ない。
けれどここで起こった事実を知り、咀嚼し、自分の言葉で伝えていくことは出来る。
同じことを二度と繰り返さないために。
たくさんの人が笑顔になれる未来のために。
多くの人が平和で人間的な日常を過ごせるように。
これが僕なりの当事者として走ったアジアでした。