インドのなかのもう一つのインド
インドの地図を眺めてみるとインドの国土は
赤道に向かって突き出た逆三角の形をしていますが、
よく注意を凝らして見てみると右の方の、
ネパールとバングラデシュに挟まれた細い回廊で結ばれた先に
インド東北地方が延びていることを皆さんはご存知でしょうか。
アッサム、メガラヤ、トリプラ、ミゾラム、
マニプル、ナガランド、アルナーチャル・プラデーシュ、
これら東北地方の七つの州はインドのセブンシスターズと総称されています。
インドの秘境とも呼ばれているこの地域への入域には近年まで
それぞれ許可証が必要であり、長らく外国人の立ち入りが制限されていた地域でした。
地理的にもそうですが、この地域が世間一般からどれほど隔絶された地域かと言えば、
インド地図を販売している各社のどの地図にも
大抵これらの地域は収録されていないことからも知ることが出来ます。
(インド本土だけの方が形的に地図への収まりがよいこともあるのでしょう)
日本のガイドブックにもこの七州に関する項目は一切載っておらず、
千ページを越える情報量が売りの英語のガイドブックにだけ
僅かに十数ページが割かれているだけ、という程度でした。
デリーやムンバイ、コルカタといったインドの主要都市から
遠く離れたこの地域には特筆すべき産業もなく、とても貧しく、
その多くは政府からの補助金を頼って生活しているそうです。
東南アジアや中国へと抜けるアジアハイウェイが通る地域として
経済の盛り上がりが期待されていますが、
森や山がちな地形もあって、インフラ整備はまだまだ不十分で、
今のところ名ばかりの経済路となっています。
ヒンドゥー寺院も見かけますが、
イスラムモスクやキリスト教会も目にする東北地方で、
なによりインド本土との決定的な違いを生み出しているのは、人種の違いです。
インド人といえば、コーカソイドに属するアーリア系で、
ダークな肌に彫りの深い顔、それに大きな瞳が特徴的ですが、
東北部にはビルマ系やチベット系、
それにネパール系のモンゴロイドが数多く住んでいます。
州や民族ごとに異なる言語を話し、
生活習慣や伝統も本土のインド人とは大きな違いを持つこのあたりは、
外見的な特徴も手伝ってインドというよりも
東南アジアの延長線上にあるような印象さえ受けます。
実際に言葉を交わした者たちは皆口を揃えるように
「ここはインドだけどインドじゃないのさ」と言っていたことが耳に残っています。
とりわけミャンマーに国境を接するナガランドには、
ナガの諸民族が暮らしていて、その顔立ちは僕たち日本人に瓜二つです。
アンガミ族やアオ族、コニャック族など二十三の民族に分けられるナガ人は
勇敢な民族として名高く、数十年前まで人間の首狩りが風習として残っていました。
第二次世界大戦頃から、キリスト教への改宗が進められ、
敬虔なクリスチャンへと変わった今では首狩りが行われることは無くなりましたが、
それでも独自の生活習慣を今なお残しながら暮らしています。
各民族ごとに織柄の異なる伝統衣装や踊りを持ち、酋長がいて各村落を治めています。
住宅の建築や意匠にも違いが見て取れ、民族間の言語も異なってくるため、
ナガランドでの公用語は英語として定められています。
今日では毎年十二月、ナガランドの州都であるコヒマ近郊に各民族が一斉に集う
ホーンビルフェスティバルという、伝統を後世に残していくイベントも行われています。
また、外見ばかりではなく、かつての日本にも似た風習がナガランドにはあって、
モロンと呼ばれる集会所では夜な夜な男たちが集い、先輩から後輩へ、
狩りの仕方や畑の耕し方、果てには夜這いの仕方に至るまで
社会のいろはを教える若衆宿として機能していたそうです。
首狩りというセンセーショナルなキーワードで結び付けられがちな
ナガランドですが僕が興味をひいたのは食文化です。
インドの主食といえば、
チャパティーやロティといった小麦粉を水溶きしたものを焼き上げたものか、
さらさらと粘り気の少ない細長いインディカ米のどちらかですが、
実はここにインドのユーラシア大陸における主食の交差点としての面白さがあり、
また、インドとナガランドの違いを決定的にする要因があります。
つまり、インドは穀物を粉にしてから食す粉食文化圏と、
そのままの形で食べる粒食文化圏の堺目にあるわけですが、
ナガランドは確実に後者にあたるのです。
それも日本に近い粘り気と僅かな甘みのある短粒種だったり、
時に赤飯すら食べることすらあることには驚きました。
副菜をとっても豚肉を多用し、犬肉や蛙、たけのこといった食材が市場に並び、
発酵食品も多く、時に納豆まであるという食材のバリエーションは
確実に東南アジアや中国の方角に向いていることを感じさせます。
唐辛子文化圏でありながら、辛さの中に
どこか日本にも通ずる味のうま味があることからも、
やっぱりここはインドとは思えないものでした。
経済路としてのアジアハイウェイはまだまだこれからだとしても、
食の伝搬路としてアジア諸国との繋がりはこういうところからも見えてきたのでした。
もとを正していけば、ナガランドは戦前イギリスの植民地支配を受けておらず、
戦後のインド独立の過程で強制的に併合されたという経緯があります。
そのため独立志向が高く、度々インド軍による弾圧や迫害にさらされてきましたが、
長らく未開放地域だったためにこうした惨状は表に伝えられないままだったそう。
七十年代にインド憲法を受け入れた今でも一部の急進派は独立志向を持っているため、
ナガランドの各地には信じられない程多くのインド兵が派兵されていて、
中国の新疆地区で感じたようなきな臭さが漂っています。
ここに忘れずに付け加えておきたいことは、
この現状には日本も大きく関わっているということ。
戦時下の日本軍は、インドの解放後にナガ族の独立を認めるという条件で
彼らの協力を取り付けましたが
日本軍の敗戦という形で線引された現在の国境線では、
ミャンマー側に寸断されてしまったナガ族も数多く住んでいて、
あちら側でも政府からの圧政を受け、厳しい暮らしを強いられています。
そこに関わった国の人間として、決して看過出来ない暗い影がそこに落ちているのです。
さて、ナガランドを後にして、紅茶で有名なアッサム州に入ると、
さすがに本土も近づいてきたためか、インド人が増えてきました。
そしてあれだけいたインド兵もピタリと見かけなくなりました。
インド人といってもバングラデシュも近いためかイスラム教徒も多く、
ベンガル人にあたる人たちでしょうか。
顔立ちもさることながら、彼らの行動も仕草も、
僕も噂でたびたび耳にしていた、いわゆるインドな動きを見せるようになりました。
休憩でもしようかとちょっと商店の前に立ち止まった瞬間、
わらわらと男たちが集まりだす。
その誰もが何か話しかけてくるわけでもなく、
かといってこちらから挨拶をしてもまるで無視。
ただただじぃっとその大きな瞳で僕を覗きこんできます。
目を離すと、勝手に自転車や僕の荷物を触り始め、
果てには許可無く乗り回そうとさえしてくるのには参りました。
最も閉口したのは走行中で、
追い抜いてくるトラックの助手席の人間は窓から身を乗り出して、
バイクの荷台に乗っている者は首を180度回転させて
地平の彼方に彼らが去りゆくまでずっと僕を見てくることです。
それも僕自身にはほとんど目を合わせず、
僕の自転車ばかりに視線が行くのは気味悪さを感じてしまいます。
時には待ち伏せをされたり、延々と並走をされたりと、
こちらのことをまるで考えないインド人の負の一面が、
このアッサムに入った途端現れたのです。
ナガランドやマニプルではこういったことは一切なかっただけに、
ちょっと衝撃を受けてしまいました。
後付的ではあるけれど、教育や制度、家庭環境、生活習慣など、
もしそういった要素が積み重なった結果、
行動としてその国の人間に共通してみられるものを国民性と呼ぶとすれば、
僕の訪れたナガランドやマニプルは、こういう一面にフォーカスしてみても
インド領だけどインド的じゃないという気がします。
あぁ、この強烈な視線攻撃にちょっとだけ、
いやかなりナガランドが恋しいと思ってしまったのは、ここだけの話です。