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古くても褪せないカトラリー

2015年06月24日

手軽でおいしくて、どんな食材とも絶妙な相性を見せるカレーは
今や日本人の国民食と言っていいほどにごく日常的に食べられています。
明治時代にイギリスから伝わったとされるカレーは、
戦時下において簡単で大量に調理が出来る点が重宝され、
軍隊食として普及していった経緯があるそうです。
イギリス式のカレーは小麦粉やバターを使って
とろみをつけた日本式カレーの原型になるものでした。
今ではカレーは日本独自の進化を遂げていて、
カツカレーにカレーパン、カレーうどんと
数多くのバリエーションを持つまでに至りました。

アジア諸国を見渡してもタイやマレーシアでも、
味付けは異なれど、カレーは身近に味わうことが出来て、
カンボジアやラオスでもそれに準じた料理を見かけました。
アフリカや南米でも似たような食べ物を食べたことがあり、
大航海時代以後の香辛料貿易の歴史は
そのままカレー伝播の歴史と言いかえることが出来るかもしれません。

カレーの本場にあたるここインドはと言えば、
朝から晩までカレー、カレー、カレー…、カレー漬けの毎日が続きます。

ところで話の流れに矛盾するようですが、
インドにはカレーという名前の料理は実は存在しません。
様々なスパイスやハーブを煮込んだ料理がカレーだとすれば
インドにあるあらゆる料理がカレーになってしまいます。
インドではこれらにそれぞれにちゃんとした料理の名前があるのですが、
総称してカレー(curry)と名づけたのは、この地に入植してきたイギリスでした。
それはタミル語で"汁状の料理"を意味するカリに由来するとか、
ヒンドゥー語で"香りのよいもの"を意味する
ターカリーから来ているとか諸説色々あるそうです。
そういえばミャンマーでもカレーと呼ばれる料理は、
いわゆるカレー風味でなくとも煮込み料理を指していたのを思い出します。

ただ、そうは言いながらも話の展開がややこしくなってしまうので、
ここでは僕もインドのカレーもカレーとまとめて呼ぶことにして
話を進めていきたいと思います。

さて、ここインドではそのカレーを食べる際に
僕らのようにスプーンやフォークといったカトラリーは一切使いません。
使うのは自分の右手。ここは手食文化圏なのです。

手食はアジアやアフリカ圏でよく見られる食事作法ですが、
インドのヒンドゥー圏では特に強く地域に根付いています。
浄と不浄の概念が徹底されているヒンドゥー教では、
食事において、右手で食べることが最も清潔で浄性が高く、
食器ですら不浄のものと考えられていることから手食が好まれています。
また、料理は油を使って炒めたり揚げたりすることで浄性が高まるとされています。

食堂に入るとまずは食卓に置かれたポットか水場で手を洗います。
席について周囲を見渡してみると、
みんな器用に上手にカレーを手で食べているのが見えます。
小皿に盛られたカレーを大皿のご飯にかけて、指先で馴染ませる。
手首をリズミカルにチャッチャッと振ってかき混ぜた後は、
サッとそのご飯をすくい上げて口に運ぶ。
再び、大皿に向かう指先はシャッシャッと周囲のご飯をかき集めて、
またカレーをかけて、かき混ぜて食べる。
一連の動作は流れるように軽やかで見ていて惚れ惚れするようでした。

間もなく運ばれてきたカレーを前にして、僕も同じように真似をしてみるのですが、
指先からご飯がぽろぽろとこぼれ落ちて、上手にご飯をすくい上げることが出来ません。
インドの作法では第一関節より先で食べるのが正しいマナーと聞いていたので、
これを意識すると余計に上手く食べることが出来ませんでした。

どうしたものかと改めて彼らの食べ方にヒントを得ようと見ていると、
親指、人差し指、中指の第一関節より先だけで食べている人は、
案外ほとんどおらず、概して第二関節ぐらいまでは指がカレーに染まっています。
人によっては五指をカレーだらけにして
懸命にご飯とカレーを混ぜあげている人さえいました。

きっとこういう食べ方は日本で言う箸の持ち方と一緒で
大変な無作法なのだと思いますが、
今僕がいるのは高級レストランでもなんでもない大衆食堂です。
定食屋でどんぶりものを食べる時は箸でかきこんだり、
ソバの香りを楽しむために音を出して啜ったりすることと同じようなものなのでしょう。
ここで自分にとって大切なことはいかに美味しく食べれるかどうか。
まずは形よりも実践だということで、五本の指がカレーだらけになるのを覚悟で
グイッとご飯をかき混ぜることから始めてみることにしました。

すると指先に、冷めて固まってしまっている米の手触りが伝わってきます。
長粒種のインディカ米は触っても全く粘り気はありません。
次にカレーをかけると、米粒一つ一つに味がしっかり馴染んでいく触感が
汁を吸って米の塊がホロホロと崩れていく様子から感じられてきました。
指先を軽くカーブさせてスプーン状にし、ご飯をすくって口に運ぶと
スプーンや箸の食感とも違った柔らかい口当たりでカレーが口の中で広がりました。

新しい世界が広がったような不思議な感覚でした。
生まれてこの方、フォークやスプーン、お箸といった
カトラリーを使った食事作法に身を置いていた者としては、
食べ物を美味しく食べる方法は心得ていたつもりです。
ところが手を使って食べてみると、
カトラリーを使っていては口に入れるまで感じることが出来なかった
料理の温度、硬さ、素材の細かい形、重さを食べる前から感じることが出来たのです。

つまり味覚とは舌で感じるだけのものではなかったのです。
フルーツを食べる時のことを思い返してみてください。
グレープの粒を房から取り上げる時の触感で、
その粒のジューシーさを感じられると思います。
モモを手の平にのせて触ってみれば、
熟れた甘いモモか、酸っぱさの残る若いモモかが分かるはずです。
そう考えれば、食べる前の触感が
食べ物の味に深みを与えてくれることは的外れではありません。
食べる行為は料理を口にする前から始まっているのです。

運ばれてきた料理を目にして味のイメージを膨らませる。
鼻を刺激する匂いに味の予想を見立て、
料理に触れると指先から伝わってくる手触りや温度から
目の前に置かれた料理の味の想像を深めていく。
食べる前にしてもう体は料理を味わっているのかもしれません。
そして料理を口にするとその味が想像通りであれ、
そうでなかろうと全身に知覚されていくのです。
つまり食べることは料理を味わう最終行為にしか過ぎなかったのです。
手食は料理を目や鼻、舌で味わうことに加え、
触感を使った味わい方を与えてくれるものでした。

手食のメリットはこれだけではありませんでした。
絶えず右手を使わなくてはいけないから、他の物事に手をつけられません。
それはつまり食べることに集中出来るということです。
新聞を読みながら、テレビを見ながらといった、
ついやってしまいがちな"ながら食べ"が出来ないので
必然的に食に全感覚を向けることになるので、真っ向から料理と向き合うようになります。
それに、ナイフとフォークじゃ綺麗に食べ切れない
骨付きのチキンもこれなら上手く食べることが出来ます。

そもそもフォークやナイフ、スプーンを使った食事作法が普及したのは、
18世紀にスパゲッティが流行してからです。
それ以前にもフォークやナイフは存在していましたが、
あくまで食材を切り分けるためであって食べる時は手で食べていました。
なんてことはない、フォークやナイフを使った食事作法が確立されてから
僅か数百年の時間しか経っていないのです。

中国の箸食に影響された日本はそれよりも昔から箸を使っていましたが、
おにぎりやお寿司が僕らの国にも手食があったことを教えてくれます。

だから思い出して見てください。
僕たちはきっと手食の快感を知っているはずです。
おにぎりを持った時の密度やふわっとした手応えで味の良し悪しが想像出来たり、
形が崩れないようにそっと優しくつまんで口に運んだ時に広がるお寿司の繊細な味わいを。

一回の食事で二度も三度も"オイシイ"この手食は
例え原始的な食べ方といえど、
今だそれを超えるものはない究極のカトラリーなのかもしれません。

  • プロフィール 元無印良品の店舗スタッフ

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