対価としてのチップと一方通行のバクシーシ
海外旅行といえば自分の国にはない文化や自然、
食事、歴史や生活習慣を体験することが一つの醍醐味。
自分の知らない世界に触れることで、新しい世界が広がっていく感覚は、
日常の中ではなかなか得難い快感だと思います。
ただ、そこで異文化の衝突のような、
受け入れ難かったり、理解しにくい相手国の側面に出会うことも時々あることでしょう。
それは宗教や民族といった大きなテーマでなくとも、もっと身近に存在していたりします。
中でも"チップ"の習慣にはいつまでたっても慣れることが出来ない、
そう思う人は僕だけに限らず多くいるのではないでしょうか。
チップの習慣は欧米諸国だけでなく、
旅行をしていると世界中至るところで遭遇することになります。
ホテルで荷物を運んでくれたポーターに、小洒落たレストランのウェイターに、
登山の案内人を務めてくれたガイドに、など。
低予算の旅をしていたとしても、このような場面には時々出会うことになるのですが、
内容に満足して快く支払ったチップというと思い出せるのは数える程しかありません。
どちらかと言えば、サービスを受ける前に予めいくら払おうと決めていて、
サービスの内容云々に関わらず、決めていたお金を支払うことがほとんどでした。
チップに慣れていない僕にとって、サービスをお金に換算するという行為は
とても難しく、いつも頭を悩ませる問題だったのです。
さて、話は少し飛んで、このインドはお釣りがない国です。
お釣りがないというのは海外では往々にしてあることで、
小さな商店で大きなお札で支払いをしようものならば、
お店の人は村中を駆けまわってどうにか小銭をかき集めてきたり、
時には買い物を拒否されたりしてしまうことも時々起こります。
このインドの田舎では特に5ルピー以下のコインは滅多に流通しておらず、
お釣りの代わりに、お店でバラ売りされているキャンディやキャラメルを
一個につき1ルピーとして渡されていました。
もしくは、パッケージに正しい値段が書いてあるにも関わらず、
40ルピーや50ルピーといったきりのいい値段を請求されたり。
1ルピーは約2円。5ルピー以下のコインが不足しているのだから、
だいたい10円ぐらいが買い物の度にいい加減に扱われているということになり、
これが積み重なると結構な金額になってしまいます。
宿が一泊100ルピーからあるインドの物価感覚からしたら尚更でしょう。
そしてなぜインドの釣り銭事情をここで挟んだかと言えば、
これから紹介するお釣りのない国でのチップ話は
ただでさえ慣れないチップをより難解に理解に苦しむものにするものだったからでした。
インドに入ってからどうも体調が優れません。
雨季に入って暑さが和らいだ代わりに、
雨に降られるケースが増えていて風邪を引いてしまったのか、
それとも夕方頃から活発に飛び回る蚊に刺されてマラリアになってしまったのか、
日に日に熱が上がっていきます。
そんな状況で周りにはカレーのような
辛くてスパイシーな食事ばかりしかなかったのはさすがに応えました。
ある時、大きな街に到着し、メインストリート沿いにピザ屋の看板が見えたので、
カレーよりは少しはマシだろうとピザ屋に足を運びました。
こっちでは高級料理にあたるピザ屋の店内は客もまばらで寂しい雰囲気です。
カウンターでは店員が時間を持て余すように携帯電話をいじっていました。
やる気の感じられない彼からメニューをもらい、
290ルピーと書かれた一番安いピザを注文して会計をしたのですが、
321.25ルピーと表示の値段よりも高いお金を彼は請求してきます。
『どうして?』と尋ねると「サービス料だ」と教えてくれました。
もうオーダーは厨房にいってしまっていたようだったので、
仕方がないかと諦め支払いをしようとすると、
財布に入っているお金では321ルピーか、330ルピーでしか払うことが出来ませんでした。
差額は0.25ルピーという現在では存在しないお金の単位だったこともあり
一旦321ルピーを出すと、「1ルピー足りないよ」と言います。
確かに当たり前だよなと納得して、
次に330ルピーを出すと、今度は彼はレシートだけを僕に渡します。
お釣りは? と聞けば、「ない」とあたかも当然のように言うではないですか。
正しいお金のやり取りも出来ずに自分たちだけが得する商売を商売と呼べるのでしょうか。
金額はごく僅かで気にも止める必要もないのかもしれませんが、
そんな杜撰なお金のやり取りしか出来ないお店に、
チップに相当するサービス料を払うこともどうも釈然としません。
受け取ったレシートにはしっかりと"サービス料"と記載されていたのでした。
それからは体調が悪かろうと意地でもローカル食堂で食べました。
幸いにしてまだ比較的マイルドな
ネパール風餃子のモモを出すお店があったのには助かりました。
そこでの会計は92ルピーとまたして中途半端な額になりましたが、
僕が100ルピーを出すと、
「今細かいお釣りがないから、90ルピーでいいよ」
と10ルピーのお釣りを渡してくれました。
その店主の対応に気を良くした僕は次の日もそこに通ったのですが、
今回も97ルピーときりが悪い数字です。
店主もお釣りがないことに苦い顔をしていましたが、
でも前の日は僕が得する思いをしているので、今回は僕が
『昨日良くしてもらったから100ルピーそのまま取っておいてよ』
とお釣りは要求しませんでした。
きっとこういうのがサービスの渡し手と受け手のいい関係なのだと思います。
もともとチップを意味するTIPはイギリスのパブが発祥とされていて
"To Insure Promptness(迅速さの保証)"と
"Take It Please(取っておいてください)"
の頭文字を取った二通りの説があると言われています。
だからチップとは、サービスの渡し手はてきぱきしたサービスを提供し、
受け手がそれに価値を認めて渡す対価なのだと僕は思うのです。
つまるところ双方が納得出来なければチップはチップと呼べないはずなのです。
だから、先のピザ屋のように最初から決まった額の支払いを要求するつもりならば、
チップやサービス料などと記載しないで
黙って取っておいた方がよっぽど不快な思いをしないで済むのに、と思ったのでした。
それから数日。
体調は一向に良くならず、むしろ悪化の一途を辿っていました。
ある時とうとう熱が40度に達してしまい、
そのまま倒れこんだ田舎の宿で三日間高熱にうなされることになりました。
見かねた宿の授業員は朝・昼・晩と様子を伺いに来て、
歩くこともままならない僕のために食事を用意してくれました。
そればかりではなく、ついには病院にまで付き添ってくれたのでした。
検査の結果、マラリアではないので安静にしていればよくなると薬を渡されて
ホッとして帰る帰り道のタクシー。
運転手とは往復で400ルピーと話はつけてあったので、
500ルピー札で支払って、お釣りの100ルピーを
付き添ってくれた宿の従業員にチップとして渡そうと思っていたのですが、
500ルピー札を見た運転手は途端に眼の色が変わって、
「お釣りは持ってないし、俺は病院の前で20分待った。
だから100ルピー分は自分へのチップで500ルピーもらう」
と言ってくるではないですか。
今にも倒れてしまいそうなこの体で、さすがに言い争う気にもなれず、
僕はそのまま彼に500ルピーを渡してしまいました。
何だか強引さすら感じてしまうインドのチップ。
ここに双方の納得は欠片もありません。
ただ彼らはサービス料だ、チップだという言葉を使いますが、
これはおそらくバクシーシという概念に通じているのかな、と思います。
バクシーシはもともとイスラム教の喜捨に由来する
豊かな者が貧しい者へ富を分け与えるべきという考えに基づくものなのですが、
タクシーの運転手やピザ屋の店員が僕に求めたチップとは
ヒンドゥー圏のインドでも恐らくバクシーシの意味合いも含むものであって、
豊かな者から富を受け取るのは当たり前だというところに落ち着く気がします。
だから彼らは僕からお金を受け取っても笑顔を見せることも、
ありがとうと言うこともなくもらって当然という表情で去っていきます。
けれど、それがバクシーシだとしても
僕はこのバクシーシ自体に納得のいく答えを見つけることは出来ません。
カースト制による身分制度が今だ根強いインドでは、最下層にあたるシュードラと
カースト以下の存在とされる不可触民と思われる人々が嫌でも目につき、
小奇麗な商店やレストランの外では彼らが物乞いとして待ち受けています。
彼らにお金を恵むことで彼らは現金を手に入れ、
対する僕たちは自分に対する徳を積むことが出来るといいますが、
どうもそんな簡単な話じゃ済まない気もしています。
まず、僕一人のバクシーシでは個人一人でさえも潤すことは出来ないだろうし、
それにきっと彼らの手に入れた現金は
その日を凌ぐ日銭として使われることになるのであって、
十中八九、お金を貯金する、本を買って勉強をするといった
未来のためには使われないことでしょう。
そのチャンスさえ奪ってしまう社会風土というのも一因です。
カーストの闇は思っていた以上に深く根深い。
そうなると毎日が持てる者からのバクシーシを待つだけの毎日で、
そこは延々に抜け出すことの出来ない負のループです。
多くの人々をずっと底へ留めておくだけで、
富を持つ者だけが徳を積んでいるのだとしたら、なんだかとても一方的です。
だから、お金を求めるならばそれに見合った価値を示す発想があれば、
少しは状況が変わるかもしれないのにと思いました。
靴を磨く、荷物を運ぶ、外に停めた自転車を見張る、
少しでもいいから知恵を働かせて価値を示す発想がなければ、
この施す側と施される側の構図はずっと続いていくように見えます。
この国で見た現状を変えることの出来ないバクシーシも、
もぎりとってくるような不当なサービス料も
ただでさえ自分の理解からは程遠いチップをさらに遠ざけるものでした。
最も、対価に見合った価値だ、等価交換だと口酸っぱく言っている僕の方が
物質文明や資本主義社会にとらわれてしまった哀れな人間なのだろうかと、
差し出してきた彼らの手を「ノーノー」と払いのける度に、
突き付けられるような気もしたりするのですが。
色々と考え込んでいたら、また熱が上がってきてしまいました。