そんな場所で生きる人々
世界一の多雨地帯とも言われるインド東部は雨季真っ盛り。
薄曇りの日中は断続的にスコールが降って、
夜には必ず凄まじい雷鳴とともに叩き付けるような雨音が屋根を鳴らしました。
分かっていたこととはいえ、想像以上の雨脚の強さはもはや観光どころではなく、
なかなか回復の気配の見えない体調もあって、早々にインドを脱出することに決めました。
紅茶で有名な西ベンガルのダージリンの麓を横切って、一路ネパールへ。
インドに多大な影響を受けているネパールは、
街道沿いの町並みや手食で食べるカレーといった面では
大きな違いはありませんが、クラクションは控えめになって、
うんざりするような周囲の視線もなくなり、ホッと一息つける国でした。
英語もよく通じるので、お互いの意思疎通が難なく出来ることも
今の状況ではなんと有難かったことか。
チベット自治区と北で接するこの国は中華圏の影響もよく受けています。
ネパール風餃子のモモは小籠包タイプがネパール式ですが、
形まで餃子そっくりのチベット式モモも時々見かけます。
麺料理のチョウメンは中国では炒麺と言われる焼きそばです。
時々見かけるチベット式の仏塔では
青・白・赤・緑・黄のタルチョが鮮やかにたなびいています。
インドと中国の二大国に挟まれた小国のネパールですが、
両国を訪れた僕にとって随所にその面影が見えるのが興味深く、
ここに緩衝国としても面白さがあるのかなと思いました。
そういえば人々の雰囲気も
他人に全く無関心の中国と、行き過ぎた関心を示すインドの両極端の
ちょうど間くらいだったから過ごしやすいのかもしれません。
ところでここに来るまでの道中、僕がネパールに行くと言うと人々みんなから
『どうしてそんな危険な場所に行くんだ。地震があったのを知らないのか?』
と決まって言われていました。
ネパールを襲った大地震が起きたのは4月25日のことだから、
タイにいた頃から、諭されるようにずっと言われ続けてきたことでした。
ネパールまであと数十キロというところでさえ、
人々は危ない危ないと口にするのだから、なんて偏見にまみれていることでしょう。
最もこれはネパールの地震に限らず、
アフリカはアフリカ全土が治安が悪い、イスラム諸国は過激な思想を持っている、
報道される一部のニュースが全体のイメージにすり替わっていることが多くありました。
全くの誤解がその地域全体を覆い、
そのネガティブなイメージは強力にこびりついてしまっています。
かくいう僕も福島県の原発に程近い町の生まれで、
海外で自己紹介をすると、とても深刻な顔をされることがあり、
両親や友人が今もそこに住んでいると話すとなると、
余計に心配されてしまうことが少なからずありました。
観光業が主要産業であるネパールのイメージが悪くなることは致命傷です。
経済が立ちゆかなくなれば災害から立ち直る力を奪うことになってしまうでしょう。
今回、僕は主要な被災地に立ち寄る予定も時間もなかったので、
代わりにせめて少しずつ平穏を取り戻している大部分のネパールを紹介することで
少しでも誤解を解きたいと思いました。
それが観光者として訪れた僕の立ち位置です。
ただ実際に不安がなかったわけではありません。
雨で緩んだ道が崩落してきたらどうしようとか、
食料が国に行き届いてなくて僕を狙う追い剥ぎが現れたらどうしよう
といった心配は頭の片隅をかすめました。
入国管理事務局の警備員に現状を尋ねると
『北部の奥地に行かなければ他は全く問題ないよ』
と念を押すように言っていたのが印象的でした。
彼もまた今のネパールを覆う誤解をどうにかしたいと思っている人間の一人なのでしょう。
それからインドとの国境線を成すタライ平原に沿って数日走りましたが、
彼の言うとおり全く問題はありませんでした。
レストランも商店も開いていて、宿にも泊まることが出来ました。
交通機関も滞りなく動いていて、学校に通う子供たちも元気いっぱいです。
一万人近い命が奪われた不幸な真実もある一方で、取り戻しつつある日常もある。
けれど伝えられる事実の多くが片方に偏っていることが、とても歯がゆく思いました。
それから首都のあるカトマンズ盆地へと続く山岳地帯へと入りました。
くねくねと永遠に続くかのようなスイッチバックの坂を上っては下り、
何度目かの峠を越えると開けた渓谷に出ました。
渓流に沿って小さな村々が点々と続くそこは、
タジキスタンとアフガニスタンの国境線で見た景色に瓜二つです。
都会の喧騒から遠く離れた地は、
地震の騒動すらまるでなかったかのような穏やかさでした。
しかし、ある時泊まった宿では災害のための作業員が泊まりこんでいて、
ここからそう遠くない場所の復旧工事にあたっていました。
少なからずやはりここも地震の被害があったのだそう。
それでも、彼らは逞しく生きていました。
炎を得るために山に入って薪を集め、水はすぐそこに濤々と流れ、
食べるために飼っている家畜を屠殺することも出来るのだから、
ガスや電気、物流が止まると何も出来なくなってしまう僕たちよりも遥かに力強い。
ここに来るまでの人々が言っていた"そんな危険な場所"には、
今もたくさんの人が暮らしていたのでした。
世界には色々な環境下で様々に暮らす人々がいます。
水すら満足に使えない砂漠の一軒家、
冬は凍てつくような寒さと雪で周辺とも寸断されてしまう村。
一見客として数日訪ねる分にはまだしも、
そこでずっと暮らすことまでは僕自身考えが及びません。
そういう意味では、僕もネパールを"そんな危険な場所"
と言った人たちと立場は一緒なのかもしれません。
厳しい自然や気候、環境から逃れられる場所はいくらでもあるはずなのに
そこにとどまり続ける理由はどこにあるのでしょうか。
僕が想像するに、そこには諦観に近い感覚があるのだと思います。
寒いものは寒い、暑いものは暑い。
けれど、それさえ受け入れてしまえば、
食べ慣れている食事や、
言葉や習慣を同じくする家族や仲間がいることの方が遥かに大事で、
それらを引っくるめた愛国心に似た魂が
土地に結びついているからこその居心地の良さがあるからだと思います。
きっとこればかりは物質的なものにいくら囲まれても、
手に入れることの出来る居心地ではないのでしょう。
そしてその魂は時として大きな災害も受け止め、
再生を果たすための大きな力となり基礎となるものだと思います。
さて4日間をかけて山を上りきり、首都カトマンズへ入るとさすがに震源地も近く、
住宅も密集しているのでところどころで崩れ落ちた建物が目につきました。
この土地に残る歴史的建造物は古いせいもあり、大きなダメージを受けています。
そして、そんなもので地震から建物を守れるとは到底思えない差し当たりの支え棒が
あちこちに張り巡らせられていました。
郊外の空き地や公園には避難してきた住民のテント村が出現していました。
旅行者にとっての中心地であるタメル地区で見かけるツーリストの数はまばらで、
代わりに各国のワッペンを胸元に貼ったボランティア団体の人を見かけます。
町並みからも、行き交うツーリストの数を見てもまだまだ復興には時間がかかりそう。
宿の多くはオフシーズン料金でお客の確保に必死になっていて、
通りの怪しいクスリ売りもタクシーの運転手もだいぶ手持ち無沙汰そうです。
彼らは僕を見かけると、次から次へと声をかけてきます。
けれど、インドのそれと比べると控えめで大人しかったので
ちょっと歯ごたえがありません。
結局、二人組のネパール人を捕まえて街を案内させました。
20分程彼らにガイドをさせた後、頃合いを見て幾ばくかのチップを渡しました。
地震で破壊された町を元通りにすることは僕には出来ないけれど、
せめてこの町が普通だった時に観光客として落としていたであろうお金ぐらいは
残しておくべきだと思ったのでした。
僅かではありますが、僕なりのこの土地で生きる人々への応援のつもりです。
僕自身、この国ではやり残したことがたくさんあります。
連日の雲のせいでヒマラヤの山々をほとんど見ていないし、
楽しみにしていたトレッキングも雨で諦めました。
だからいつかまたネパールにやってきたいと思います。
次にこの国に来る時は、
たくさんの旅行者で溢れかえるネパールに出会えることを願っています。