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ありのままがある湖

2015年07月22日

大きな石がごろごろ転がる坂道を、
フラフラと頼りない幅の轍を刻みながら上っていました。
雲の切れ間から覗く蒼天。緑の絨毯を染める菜の花。遠くに見える万年雪の氷河。
聞こえてくるのは勢い良く流れる雪解け水のせせらぎと、
ハァハァとあえぐ僕の呼吸だけ。
時折ふき込む高原の風が軽やかに汗を奪い去り、心地良い冷たさをもたらしてくれます。
ここはキルギスの真ん中、標高3000mに位置するソンクル湖へと続く道。

ソンクルのあるナリン州は、ロシア人の目立つ首都ビシュケクや、
ウズベク人も多く住む第二の都市オシュとも異なって、
人口のほとんどがキルギス人と言われています。
山に囲まれた土地は発展を遅らせましたが、
その分かつてのキルギスの姿がここには残っていると言われています。

中でもソンクル湖はとっておき中のとっておき。
ロシア人のリゾート地でも名高いもう一つの湖イシククル湖とも異なるここは、
ソビエト時代に集団農業のコルホーズの導入により、
定住生活を営むようになったキルギス人が、
かつての遊牧の民として本当のキルギスを取り戻す場所なのです。

坂を上りきり雪壁の残る3440mのカイマクアシュー峠を越えると、
そのソンクルが下り坂の向こうに寂然とした佇まいで待ち受けています。
ここでは雪のない初夏から初秋の間だけ湖のほとりに伝統的住居のユルタを建て、
羊や馬、牛たち家畜を放牧させながら暮らしています。
ガスも水道も、電気も当然ありません。
あるのは湖と川、空、草原、花、砂利だけ。

緩やかなうねりの丘陵で駿馬を駆る遊牧民。
カメラはおろか、この両目をもってしても収まりきらないスケールの自然の中、
たてがみをなびかせて走る姿は見惚れるほどに美しい。
平らな道などここには存在しなく、
まさに人の営みが踏み跡として残った轍が道としてあるだけです。
時にその道すら失い、僕は茫洋と広がる草原の中を湖と太陽の方角を頼りに走りました。

川は大地の起伏に沿って右往左往しながら湖に注ぎ、
真っ直ぐな川の流れは決してありません。
両手ですくって口に運ぶその水はとてもクリアで、冷たく体を潤しました。

ずっと遠くのユルタから手招きする仕草が見えて、そこを訪ねてみると、
この時期しか味わえない新鮮な馬乳酒のクムスを一杯二杯と振る舞ってくれました。
フェルトで覆われた室内は、強烈な夏の日差しを遮って
意外なほどに涼しくて過ごしやすく、
その傍らでお母さんが牛の糞を燃やして湯を沸かし、チャイを淹れてくれました。

太陽がゆっくりと山の向こうに沈みかける頃、見晴らしのいい場所にテントを張ります。
あたりからは丸見えですが、ここでは治安や安全のことなど気にする必要はありません。

湖から鍋で水をすくってそのまま携帯ストーブにかける。
下界から大事に運んできたソーセージを入れたラーメンを食べ終えたら、
あとは寝袋にくるまって、刻一刻と夜の帳が落ちるのをじっと待ちました。

徐々に姿をあらわす星空。
中国や東南アジアにいた時は見ることの出来なかった空です。
この星が見たくて僕は、ここに戻ってきた。
空に向けてカメラを設置する間にも流れ星がいくつも瞬いては消えていきました。

草木も眠る丑三つ時、不意に地鳴りのような音が聞こえて目が覚めました。
誰か人が来たのでしょうか? それも大勢で?
息を殺してそっとテントを開き、外を見やるとそこでは馬の群れが草原を駆けていて、
すっかり上った満月明けの明るい月に照らされた
そのシルエットは神々しさすら感じました。
彼らは少し遠くの丘で立ち止まり、一頭の馬が大きくいなないた後、
向こうに消えていきました。

やがて晩秋の寒さの夜が明け、春の陽気と小鳥のさえずりが朝の知らせを知らせます。
朝ごはんを食べ、テントを片付け出発の準備が整う頃には、
太陽が停滞している草花の湿度も吹き飛ばし、グラスホッパーが飛び交う夏の気温です。

丘を二つ三つ越えると朝から白や茶の羊を追い立てる少年に出会いました。
「サラマレク!」
僕の持ち合わせのキルギス語はそう多くはありません。
それでも僕は少年と色々なことを話したような気持ちになりました。
一分ほどの邂逅を過ごした後、それじゃあといって少年は
アブミにかけたかかとで馬を蹴って先を行く羊たちを追いかけ始めました。
彼にとっても僕にとってもまた今日もソンクル湖の長い一日が始まります。
今日はどこまで走ろうか―――。

去年走ったすぐ隣のタジキスタンのパミール高原は、
作物はおろかペンペン草も生えないような生への拒絶を孕んだ厳しさを持っていました。
対してあそこから数百キロしか離れていないここは、
緑に溢れ、なんて優しくて大らかで伸びやかなのでしょうか。
これまで数多くの3000m、4000m級の高地を訪れてきましたが
こんなに豊かな大地は見たことがありませんでした。

ここには忘れかけていた、ありのままを受け入れる懐の深さがある。
この湖には何もないけれど、生きるために必要なものは全てありました。
だからでしょうか、ここの空気の輪郭はとてもくっきりしていて
時に全てを見通せるような気にさえなったのでした。

ここで過ごした三日間は間違いなく完璧で、
そして数多くの示唆を僕に与えてくれるものでした。
もしかしたらこの湖を訪れるまで僕は知らなかったのかもしれません。

平らも直線も存在しない遥かな時間がつくり上げた大地のうねりを。
冷たい雪融け水で沸かしたチャイの美味しさを。
客人を迎え入れる遊牧民の温かい眼差しがユルタの中に暖かい雰囲気を生んでいることを。
草花をなびかせる風の音を。
煌々と眩しさすら感じる月明かりの明るさと陰影を。
行雲流水。
ありのままを受け入れる心構えを。

何もないから知ることが出来た。
この湖を訪れて本当によかった。
心から思いました。

  • プロフィール 元無印良品の店舗スタッフ

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