混交の土地
かつて玄奘三蔵も天竺を目指す途中で
立ち寄ったというキルギス最大の湖イシククル湖。
世界で二番目だという透明度を誇るこの湖は、
ソ連時代はロシア人を中心としたリゾート地として賑わったそうですが
宿泊施設の多い北岸側と違って、僕の通った南岸は観光客もまばらで、
しなびた雰囲気のいかにも時代から取り残されたような集落が続く道でした。
水温が低く夏でも入水がためらわれる湖の中国語名は熱海。
この冷たさで熱海とはこれいかに? と思いましたが、
この湖は塩分が含まれているとか、湖底から温泉が湧き出ているからだとか
諸説色々ありますが、高地にも関わらず冬も不凍の湖です。
夏は冷たい湖だとしても、寒いキルギスの冬では文字通り熱海。
この古称からもこの地域がいかに一年の中で、長い冬に閉ざされる土地かが窺い知れます。
各地で民家に泊めてもらいつつ、
そして、湖の東端のカラコルの街へと到着しました。
このイシククルの州都は、昨年もバスの小旅行で訪れていました。
あれから数ヶ月で街が大きく変わるわけはなく、
街並みは見覚えがあるままでしたが、
夏のこの街もビシュケクと同じでこんなに人がいたんだと思うほど、
通りを人々が行き交っていました。
ソ連時代はプルジェバリスクの名前で呼ばれていた街の名前が示す通り、
ここはキルギスの外れとは思えないほど、
大柄で碧眼金髪のロシア人をよく見かけ、中心部には木造のロシア正教会もあります。
けれど、この中央アジアの東外れの街の面白いところはロシア人、キルギス人の他に
ドゥンガン人も多く住む街だということ。
ドゥンガン人とはすなわち中国系ムスリム、中国での民族区分で言えば回族を指し、
中国におけるイスラム教徒の迫害を受けてこの地に逃れてきた人々の子孫です。
街に建つドゥンガンモスクは僕の連想するモスクとはかけ離れていて、
もうほとんど中国様式の建造物ですが、鮮やかなブルーは
やはりこの中央アジアで見てきたモスクの色をイメージさせるような気もしています。
表向きにはそれぞれの民族が、それぞれの禁忌に足を踏み入れないように
上手くバランスをとっているように感じ、
それでいてこの中央アジアの外れの街は
最も様々な価値観が入り交じる街の一つなのでした。
ここから僅か数百キロ先の中国で、それがすっぱりと切り落とされ
中華世界が始まるとは思いがたい。
ドゥンガン風に醤油で味付けされた中央アジアうどんのボソラグマンを食べながら
僕は『うーむ』と中央アジア最後の余韻に浸っていました。
ここではちょうどキルギスにやって来た韓国の友人と会ったりして
三泊ほどのんびりした後、カザフスタンへ向けて出発。
夏の間だけ開くローカル国境への道のりは思ったよりも悪く、
時に拳大の石ころがごろごろとし、壁のような上り坂が待ち受けていました。
それでも歯を食いしばって自転車を押す僕の横を軽やかに抜き去る馬や、
とぼけた調子で鳴く牛の声が、ここは急ぐ場所ではないと言っているように聞こえ、
のんびりと走りました。
夕方7時頃、国境手前の集落に到着し、余ったキルギスのお金を使いきろうと
コンテナで出来た唯一の商店に立ち寄りました。
「今からカザフスタンに行くって? もう今日は国境は閉まっちゃってるわよ」
店主のおばさんがそう教えてくれました。
何かと手続きに時間のかかる国境は今日中に越えたいと思いつつ、
今日でキルギスとお別れするのは何だか寂しい気もしていたので、
ちょっと遅かったわねぇと言うコンテナ商店のおばさんの一言は
僕にとっては助け舟のように感じたのが正直な気持ちでした。
そうと決まれば、さっそく寝床探し。
この商店の場所を教えてくれた近くの家族の家を訪ねると
二つ返事でテントを張らせてもらえることになりました。
実は前回の中央アジア旅でロシア語に因んだ名前を名づけてもらっていました。
"あつし"だから"アルトゥル"。
こういう場面では謎の名前の謎の東洋人として寝床の交渉するよりも、
現地の名前で自己紹介をした方が断然受けがよく、親しみを持ってもらいやすいです。
「アルトゥル? ははっ、そりゃあロシアの名前じゃないか。
テントなら好きな場所に張るといいよ」
子どもたちも突然の珍客に興味深々で、
坊主頭のライディンはテントに寝かせてあげると嬉々として喜びました。
はじめは訝しげな表情を浮かべていたアニサも少しずつ打ち解けていって、
最後には誰よりも可愛らしい顔で笑ってくれた時は、
この為に今日はここに留まったんだと思いました。
そして子供たちが川へ水汲みに行っている間、
お父さんの薪割りを手伝いながら、持ち合わせのロシア語とキルギス語、
そしてボディランゲージで旅の四方山話をしました。
「オシュにも行ったのか? 俺はオシュの生まれだよ。結婚してこの場所に来てねぇ」
この集落からオシュと言えば、キルギスの真反対といえるぐらい遠く、
山がちなこの国の地形を考えると、大きく迂回していかなければならず、
距離以上にとても遠い場所です。
それでもこの地域における人々の動きは、まさに大陸ならではというスケール感と
時として国という概念を超越することが往々にしてあることを僕は知っています。
世界を周ってみて、今の世界地図で示された国境線が
いかに無意味なものかと感じることがありました。
もちろん各々の政治の影響力を線引していく上でも、
経済を動かしていく上でも国境線は大事なものであることは知っています。
国境を跨いだ瞬間に、劇的に世界が変わることも身を持って体感していて、
その変化が痛快だということも知っています。
しかし、その一方で国境線では寸断することが出来ない地域的繋がりも
各地で触れてきました。
ケニアとタンザニアの国境上を行き来して暮らすマサイ族、
フランスでもスペインでもなく俺たちはバスク人だと主張するバスク地方。
この中央アジアで言えばタジキスタンのパミール高原にはキルギス族が多く暮らし、
ウズベキスタンのブハラはもともとタジク系民族が住む土地でした。
そこに住む人々と土地に育まれた文化や生活習慣といったものは
決してこの数十年で引かれた国境線では分別出来るものではありません。
ましてや身体的特徴や言語に繋がりを持っていたとしたら尚の事。
また、アフリカ大陸のサハラ砂漠以南の土地、
いわゆるブラックアフリカの人々が国という概念を超えて、
"アフリカ"というキーワードで広大な土地で繋がっていることも見てきました。
中央アジア諸国の○○スタンとは○○人という意味ですが、
この地域では時に挨拶よりも先に「アックーダ?」と聞かれることがよくあります。
これは、「どこから来たの?」という意味のロシア語で、
その都度、僕は『ヤポーニアだ、ヤポーニアだ』と特に何も考えず答えていたのですが、
あの問いかけは単に出身国のことを聞いているのではなく、
お前の出自やアイデンティティの根っこはどこにあるんだ?
そんな風な意味も持っていたのではないかと、今になっては思います。
(だからといって、それに対する自分の明確な返答は持ちあわせていないのですが)
アレクサンドロス大王の東方遠征や、ペルシャ系王朝の興亡、中華王朝による西域経営、
モンゴル帝国の成立、帝政ロシアの南下など、
この土地は常に東西南北の強国により盟主が変わり続け、国境線も変化し続けてきました。
ここが果たしてどこの土地だったのかなんて、
切り抜く時代によっていくらでも変化します。
だから「アックーダ?」いう質問は国という概念でなく、
お前の根幹はどこにあるんだい? という
混交の土地ならではの問いかけのように思ったのでした。
「おーいアルトゥル、バーニャ(お風呂)が沸いたぞ、入るだろ?」
さっき割った薪で作ったお湯が沸いたようです。
お風呂といってもストーブに沸いたお湯を手桶ですくって、
水と混ぜて浴びる簡素なものですが、
こんな風に当たり前のように旅人に与えてくれるこの土地の懐は
僕がこの土地に惹かれる理由の一つです。
お湯はじゃぶじゃぶと際限なく使えるものではありませんが、
後の人の分も残るようにと少しずつ大切に使って浴びるシャワーは
どんなシャワーよりもポカポカと温まるものでした。
その日も雲ひとつなく、恐らく夜はたくさんの星が瞬いていたと思いますが、
僕は柔らかい土と草の上に張ったテントの中で
星を見ることなくぐっすりと眠りに落ちました。
翌朝も空はよく晴れて、テントを畳んで出発準備をしていると、
朝ごはんに呼ばれました。
チャイに自家製のバター、そしてカイマクというミルクの脂肪分を
抽出したものをナンにつけて食べる、田舎のキルギスの一般的な朝食です。
水分の少ないナンをチャイで流し込むと、チャイの器が空く度に、
もう一杯もう一杯と注いでくれるお母さん。
ここだけでなく中央アジア各地で与えてもらった目いっぱいのもてなしに
いつも心もお腹もホクホクの朝を迎えることが出来ていた気がします。
カザフスタン国境の先、ケゲンの街まではキルギスと変わらず
ひたすら草原が続く風景でしたが、
一つ小さな山を越えるとそこできっぱりと植生が変わり、
そこからは草木もまばらな荒野へと変わりました。
熱波も漂う不毛の大地をバテバテで走り、やがて昨年も通った街へと合流。
街外れにあるレストランでは、軒先で串焼き羊肉のシャシリクを炙るおじさんが
「ジャパン? ジャパン?」と去年と同じようにニコニコと尋ねてきました。
当然、僕のことを覚えている由もなかったのですが、
変わらずシャシリクを焼き続けていて、
訪れる東洋人にはこうして同じように尋ねているのでしょう。
このおじさんの人懐こさにここを通りがかったどれだけの自転車旅行者が潤されたことか。
僕のことは覚えていなくとも、
おじさんが変わらずいてくれたことだけでとても嬉しくなりました。
中国からの長距離バスも休憩で立ち寄るところで、
駐車場には新疆ナンバーのバスが次々にやって来ていました。
中国が目の前のところまでやってきているのです。
ここから先は去年も走った道なので、
カザフスタン最後の街までは車をヒッチハイクしました。
乗せてくれたのはカザフ人とロシア人の三人組。
仕事帰りに僕を拾ってくれて、さらにはわざわざ大玉のスイカを買ってきて
「プレゼントだ!」と渡してくれました。
そして国境へと至る最後の道は、再び自転車で走りました。
最後の休憩に寄った商店では、ラーメン用のお湯をもらおうとしたら、
結局、家の中に招かれ、ナンやサムサ、それにコーラの大ボトルまで貰ってしまいました。
なんだかここ数日は何かを貰ってばかりです。
英語の出来るお母さんと色々話をしていたら、この家族はウイグル族なのだそう。
そして一緒の家に住んでいる旦那さんの兄弟の奥さんは
ウズベキスタンから嫁いできたとのこと。
彼女には小さな息子がいて、つまり彼は
カザフスタンに住むウイグル人とウズベク人のハーフ。
やっぱりこの土地の歴史は混交の歴史そのものだなぁと思うわけです。
土地の外れにくればくるほど、色々な血が複雑に混ざっている。
純血なんてものは存在しないのだから、
お互いの違いを認めたり、混じり合っていく寛容さを
僕らはこの土地から学んでいかないといけない。
それにしても、僕は思ったのです。
今は小さいこの少年がもう少し大きくなったら
彼は自分が何者であると考えているのか尋ねてみたい、
『アックーダ?』と。