一宿一飯の招待所
どんな荒野の中であっても、どんな険しい山岳地帯であっても唐突に街が現れること。
中国滞在が通算四ヶ月に及ぶようになった今でも
毎度のように驚かされてしまうことの一つです。
街といっても、しけた食堂がポツポツと並ぶだけのうらぶれた街ではありません。
地図に街として載っている場所は、例外なくピンクや緑のネオンがギラギラと灯り、
立派な外観の病院、いくつもの銀行、ありとあらゆるものが揃うスーパーマーケットなど
生活に必要な機能は全て揃った街として完成されています。
『こんな場所に
』と思うようなところにでさえ、
人口100万人の大都市が突如として出現することも珍しくないのです。
もとからそこにあるものを"出現"と表現するのはおかしなことかもしれませんが、
トラックがすれ違うだけで大変な山あいの崩れた細い道路が続く先に、
片側三車線の真新しい道路が街路樹と並行して市街中心部へと延び、
その両脇に高層マンションが林立する光景は、
やはり"出現"という言葉以外にどうにも言いようがないのです。
都市インフラ開発は中国経済の牽引役として先頭を走ってきましたが、
近年は減速感が先行していて停滞感が生まれつつあります。
車の走っていない高速道路、空き室だらけのマンション
使い手の想定を度外視してまでも開発を続けた結果、
どの街でも郊外には住人のいないゴーストタウンが広がり、
中国語で鬼城と呼ばれ一つの社会問題となっています。
ただ、旅行者である自分にとって有難いことといえば、
こうした建築ラッシュで生まれた空き部屋を宿として転用している業者も多く、
そこら中に部屋があり、圧倒的供給過多のため宿探しに困ることがほとんどないことです。
中国の宿といえば、清潔感も最低レベルのボロ屋から、
何から何までピカピカの豪華絢爛な星付きホテルまで
圧倒的な選択肢で選ぶことが出来ますが、
最安10元(190円)で一晩を過ごすことが出来る宿事情からは、
贅沢を言わなければどうとでも生きていけるこの国の共産主義的エッセンスを感じます。
しかし、一方で上を見れば天井知らずの豪奢の限りを尽くした宿も存在する一面からは、
一部の階級だけが享受できる富の偏りを強く感じるのも事実。
そう思うと彼らの主張する"資本主義の導入は共産主義における発展段階である"
なんてなんだか体のいいデタラメにも思え、
彼らが権力と共に生き永らえるための大多数の人民を巻き込んだ巨大な集金システムが
この国には蔓延っているようにも感じてしまうこともあるのです。
少し話は逸れましたが、今回は中国の宿事情について紹介していこうと思います。
中国の宿泊施設はその数も然ることながら、形態も多種多様にあって、
旅店、旅館、招待所、酒店、賓館、大酒店など思いつくだけでもこれだけあります。
分かりやすいことに概ねこの順番で宿のグレードが変わっていくので、
はじめから予算のイメージがつかみやすいことも特徴的です。
施設の新しさや設備内容、地域などで若干前後することはあるものの、
旅店は10元~30元、招待所は30元~50元、
賓館であれば60元~100元ぐらいが相場でしょうか。
招待所まではトイレは共同、共同のシャワーがあるかないかは半々くらい。
賓館以上にはほとんどの場合、個室にトイレ・シャワーが付き、
各種アメニティも完備、湯沸し用のポットも備えられています。
これらの宿泊施設を日本語で言い換えるとすれば、招待所までのグレードが民宿、
酒店以上がホテルというイメージで、大酒店はそのままグランドホテルといったところ。
また、地方によっては客浅や日粗房といった名前で宿を営んでいるところもあります。
それぞれ意味合いでいえばゲストハウスにデイリーアパートといったところでしょうか。
グレードで言えばこちらも招待所と同じぐらいにあたります。
他にも幹線道路沿いの食堂などでもベッドを提供していることもあり、
この場合は食堂で夕ご飯を食べ、そのままそこで寝て、
次の日の朝ごはんもそこで食べて出発という
自転車旅行者にとって至れり尽くせりの宿泊施設も存在しています。
宿泊施設は全部ホテルという名前で、
尋ねてみるまで値段の相場も設備も分からないという国も
世界にはたくさんあるだけにこの分かりやすさは素晴らしい。
僕がもっぱら利用するのは、招待所のグレード。
値段も手頃だということもありますが、
賓館に比べて圧倒的に泊まりやすいことも理由の一つです。
中国では外国人の宿泊できる宿が限られていますが、
全ての街にそういった宿があるわけではありません。
それにそうした宿はたいてい賓館以上のグレードの、
かつ星付きの高級ホテルであることが多いのですが、
そんな場所でさえも外国人がやって来たとなると全員で僕のパスポートを回し読みし、
さんざん待たされた挙句、「泊まれないよ」と言われてしまうこともしばしばです。
大きなホテルほど経営者と従業員は別であり、
こういう組織ほど中国のみならず共産圏、社会主義圏で共通して見られる
強固なセクショナリズムが発揮されることが往々にしてあるのです。
要は融通が全くきかないのです。
そういう点で招待所は家族経営が多く、
自分たちの利益を鑑みて泊めてくれる可能性は賓館に比べてぐっとあがります。
偏見かもしれませんが自身の経験から言うと少数民族が経営している宿ならば、
その可能性はさらにあがります。
漢人の経営する宿も泊まれることは泊まれるのですが、
その商売人気質がゆえに、
まずはボッタクリプライスを提示してくることもあるのが少し面倒だったり。
「一泊したいだと? それならシャワー無し100元、シャワーあり150元だ」
外国人で泊まれる宿がないんだろう? と相場の三倍もぼったくろうとする親父の
いやらしい目尻が一層いやらしい顔つきに変わっていくのが分かります。
『そんな高い宿じゃないでしょう。招待所じゃないですか。シャワー付き50元ね』
と、負けずに値切ると、
「ちっ、シャワーつきで60元だ! これで文句はないだろう!」
面倒だとは思いつつもあっさり100元近く値引きされたり、
あからさまなボッタクリ価格を提示してくる親父とのやり取りは
内心、吹き出しそうで堪らえるのに必死だったりします。
結論から言うと、良くも悪くも顔の見える招待所のサイズ感が
僕は好きなんだろうなと思います。
どの招待所も内装は基本的にはシンプルです。
6畳から10畳くらいの部屋にベッドとサイドテーブルが置いてあるだけ。
それに扇風機とテレビがあるぐらいです。
共同の水回りも朝夜の時間帯を除けば混むこともなく不自由はそれほど感じません。
タオルや石鹸といったアメニティは基本的にありませんが、
それらの一式は持ち歩いているので全く不便はありません。
シャワーがついていない場合は、近くにシャワー屋があることも多いので問題なし。
招待所クラスの部屋には大抵、洗面器が備えられていますが
これは洗濯をするにはとても便利で、
洗った洗濯物を吹き抜けの中庭に干しても文句は言われません。
立派なレセプションもなく、建物内はいきなり客室という場合も多いので、
荷物を外すことなくそのまま自転車を部屋に持ち込めるというところも
かなり嬉しいポイント。
一日を終えてヘトヘトになった体で荷物を部屋に運び入れるのは相当な労力なのですから。
顔が見えるから、融通が利く。
シンプルだから値段も安く、それでいて必要十分な設備。
自転車と荷物の出し入れに便利な一階の客室。
招待所はどんな高級ホテルよりも経済的でずっと賢い選択肢なのです。
それに思いがけず通された部屋が広かったり、タオルがついていたり、
あの世話焼きな受付の人からフルーツを差し入れしてもらえたりすると、
嬉しくなったりするものです。
これが賓館に泊まって、お湯が出なかったり、石鹸がついていなかったりすると
高いお金を支払った分、宿への期待値が高いため失望の原因になってしまったりします。
"当たり前"の期待値を上げてしまうと、その分不満も募りやすくなってしまうから、
宿へ求めるものはシンプルなことが一番ではないかと思います。
時折、賓館に泊まることもありますが、せっかくのプライベートシャワーも
使い物にならないくらい壊れていたり、汚れたままということがあります。
使う人は個室だからと自分勝手に使い、
提供する側も自分が使うものでもないからと適当に放おっておく、
こんな賓館も少なくありません。
これならばかえって共同の招待所の水回りのほうが
清潔で行き届いていると感じることも多いです。
壊してしまうとみんなが困ってしまうから正しく使う。
共同という空間は相手のことも思いやる空間でもあるのです。
青蔵高原のある青海省から再び甘粛省に入り、起伏の多い丘陵地を走って着いたとある街。
ここも例外なく中国的開発が一巡し終えた街のようで背の高いマンションが目立ちます。
バスターミナル近くに宿の密集するエリアを見つけ、
訪ねた宿はベッドが入るだけの狭い部屋でしたが、
25元という安さに惹かれ泊まることにしました。
優しい表情のお父さんは僕を歓迎してくれ、
大玉のスイカの差し入れや洗濯などの世話を焼いてくれました。
自転車が好きだというお父さんは僕の自転車を乗らせて欲しいと言ってきます。
普段は現地の人には貸さない自転車も、この時はお父さんと妙に馬が合った気がして、
嫌な感じもまったく感じなかったので貸してあげることにしました。
お父さんが近所を一周して帰ってくる頃、娘のユリアちゃんが現れて、
彼女は携帯電話の翻訳機能を使って、色々なことを僕に尋ね、教えてくれました。
それで分かったことはこの家族はクリスチャンだったということ。
そしてお風呂屋も兼ねるこの宿にシャワーを浴びに来ていた
他の客もまたキリスト教徒だったということからも、
この宿は隠れキリシタンの集いの場所だったのかもしれません。
彼らは僕を街で一番美味しいという牛肉麺のお店に連れて行ってくれたり、
朝には、これが私達の朝食ですと言って葡萄の入ったお粥をご馳走してくれました。
別れ際にはみんなで見送りに出てくれて、そして拙い英語で
「God bless you」と旅の無事を祈ってくれました。
招待所に泊まったからこそ出会えた人たちとの貴重な体験でした。
彼らと別れ、いざ走り出すぞという瞬間に、後ろから声が聞こえてきました。
振り返るとユリアちゃんが走ってくるではないですか。
右手にはペンが握られていて、あのペンは昨日の筆談で使った僕のボールペンです。
こんな小さな忘れ物を届けに彼女は走って追いかけてくれたことに
なんだか僕はえも言われぬ温かさを感じてしまいました。
僕にペンを手渡して、ハァハァと切れた呼吸を整える間もなく
彼女が僕に言ってくれた言葉は再び「God bless you」
あぁ、だから僕はやっぱり顔の見える小さな宿が好きだ。