お金じゃ買えない世界
内モンゴル自治区へ入ると、いよいよだだっ広い草原と地平線が戻ってきました。
無限の空間をぽつぽつと埋めるのは無数の家畜たち、
看板に併記されるのは縦書きのモンゴル文字、
遊牧民伝統の移動式住宅も僅かにですが見られるようになってきました。
この移動式住宅を中国語では包(パオ)といいますが、
普段僕が朝ごはんで食べている中華まんの中国語名は包子です。
確かに包に姿かたちそっくりな包子の具もこの辺までくると
羊肉を使ったものが増えてきました。
そして嬉しかった事といえば久しぶりに青空が戻ってきたこと。
中国でも最も寒冷な地域の一つである内モンゴルは九月上旬といえど
既に吹きつく風は冷涼で鼻先を掠めていきますが、
大気汚染の心配をすることなく口を開いて大きく吸い込む空気の美味しさは格別でした。
四日ほど走ってやってきた中国とモンゴルの国境の街エレンホト。
この街は中国らしさは健在でありつつも、キリル文字とモンゴル文字が混在し、
市場では既にモンゴルの空気がはみ出しているようななかなか面白い場所でした。
内モンゴル自治区と新疆ウイグル自治区で(そして僅かに甘粛省)、
ぐるりと囲われたモンゴルですが、これだけ長い国境線を有していながら
両国の交流が活発に行われている国境はここのみです。
これには中・蒙間の歴史関係やモンゴルが以前はソ連の衛星国の一つであったこと、
またモンゴル国内において"大都市"と呼べる街が
首都ウランバートル以外ないことなどが理由として考えられますが、
それにしても寂しい限りです。
ほとんど唯一といってもいい国際国境ということでそれに関係してか、
モンゴル側の街ザミンウードは"道の扉"という意味なのだそう。
そしてこれより先は人のいない大地。
最果ての街といえども煌々とネオンがきらめき、モノが溢れかえる中国とは異なり、
正真正銘の大草原と大砂漠が待っているのです。
果てまでもといえば、国境越えの時のこと。
「自転車での越境は認められない。車でしか駄目だ。
それも四人乗りの車には四人まで。人数超過も認めない」
と国境警備に止められてしまいました。
しかしそこまで厳格にルールが決まっているのならば反抗しても仕方がない、
そして僕のような人間を生業としているドライバー達が周辺にたむろしていたので、
彼らにお金を支払って車に乗って国境警備を越えることにしました。
ところが100mほど先の国境事務所で出国手続きをすると、
もう既に四人が乗っている車だというのに、
どこからともなく五人目の男が現れ乗車してくるではないですか。
周辺の警備兵も何かを言うわけでもなくだまって見過ごしています。
結局のところゲートに立つ警備さえ越えてしまえば、あとは彼らの管轄外で
何をしても何があっても問題ないようでした。
それはそうです、モンゴル商人は人の数よりも遥かに過剰な商売品を
車にぎっしり詰めて往来しているのだから、
この乗車人数制限がいかに形だけのものでありましょう。
そう、中国の形式主義や部局割拠主義は国土の果てまで来ても続いていたのでした。
僕の名誉のために断っておくと、決してこれは僅か数百mの越境のために
数千円のお金を支払うことになってしまった僕の僻みではない(はずです。)
さて、モンゴル側の街であるザミンウードは鉄道駅のある周辺は
殺風景なマンションが立ち並び、否が応でもソビエトの影響力を感じさせるものでした。
しかし少し郊外に足を伸ばすとゲル家屋が規則性もなく乱立していて、
以前は自然発生的に出来上がった街だったという一面も見られます。
人々の顔立ちもまぶたの厚いいわゆる朝青龍顔が増え、
食事のメニューや味付けも明らかに中国とは毛色が異なっています。
小さな街といえど公園がふんだんにあって、銅像などのモニュメントが
たくさんある様は明確にこの国が社会主義国家であったことを物語ります。
コンクリートマンションと移動式住宅の混在する元社会主義国家というと
中央アジアの国々をも彷彿させるものでもありますが、
あちらとこちらで決定的に違うのは、
街角に建つ宗教施設がモスクからお寺に変わったこと。
モンゴルはラマ教(チベット仏教)が広く信仰されていて
寺社の前に据えられたマニ車をくるくると回す風景が何よりの違いを生み出していました。
そして最も衝撃を受けたことといえば、
宿の蛇口をひねったら茶色の水がゴボゴボと出てきたことです。
恐る恐る口に含んでみると強烈な鉄の臭いが広がり、
ここはもう中国とは全くの別世界だと痛感しました。
そもそもこっちでは水道があるだけでも上等な方なのです。
すぐ向こう側のありとあらゆるものが溢れ発展する中国側の街と、
元々は苛烈な土地であることを今なお語るモンゴル側の街。
国境で区切られた二つの街に、
真実はいつも片側だけでは語れないものだと考えさせられました。
この先のモンゴル南部はゴビ砂漠の端にあたり、
乾燥した荒野を北上し、首都を目指します。
次の最寄りの街までは約230km。
うまく行けば二日、時間がかかれば三日の距離です。
地図を見る限りでも、街の人から情報収集しても
その間には僅かな集落がいくつかあるだけでお店や食堂はないと聞かされました。
久しぶりの無人地帯に不安半分、期待半分で準備に取り掛かります。
満足に物が揃っているとは言えないザミンウードの街ですが、
小さい商店をあちこち覗いてまわれば、案外必要なものは揃いました。
水が6リットルに食パンが一斤、ラーメン5袋、パスタ400g、ソーセージ一本、
チョコレートクリーム一缶にビスケットを300g、ピーナッツを一パック。
水は恐らくどこかで一度は補給出来るとして、
食料はこれだけあれば何とか三日間はやっていけることでしょう。
国境の街を出発すると、走り出して10分もしないうちに
さっそく文明から切り離された世界が展開されます。
モンゴル帝国がユーラシア大陸を席巻した時代から、
いやそれよりももっともっと昔の時代からこの辺りの景色は
ずっと変わっていないのではないでしょうか。
先人たちがこの大地を自在に駆けた時代に思いを馳せながら、
ひたすらに黙々とペダルを回し続けました。
絶えず北西からの風が吹いていてなかなかスピードが上がりません。
考えてみればこの辺りの砂が日本まで飛来するのだから、
風が強いのは当たり前かもしれません。
うまく行けば二日で、と考えていたプランは早々に撤回し、
三日で街に到達できるよう計画を切り替えました。
この日は結局80kmで切り上げ、誰もいない砂漠の上にテントを張りました。
日暮れの残光がまだ僅かに残っている間に夕食を作ります。
出来る限り水を節約して作るラーメンは
擦り下ろしたショウガとニンニクがささやかな贅沢です。
食後は鍋の油分を固まらないうちにティッシュで素早くふき取り、お茶を沸します。
ウェットティッシュで手と顔を拭き、
出来上がったお茶をちびちびとやりながらビスケットをかじる。
そして、ふぅっとため息にも似た一日の安堵を吐き出す頃には、
空は夜の顔を覗かせています。
風も止み、恐ろしいまでの静寂のさなか、
時折、遠くを走るシベリアへと続く列車がガタンゴトンと線路を叩いて、
僕にちょっとした安心感を与えてくれたのでした。
こういう場所でしか知りえないことがあります。
それは例えば自分はどれだけ走ることが出来て、
どれぐらいの量の水を必要として、
どれだけの荷物を運ぶことが出来るのか。
風向きはどっちの方向で、この時期の夜明けは何時なのか
どれも現代の暮らしの中ではさして必要のない情報かもしれません。
今や地球の裏側にさえも一日あれば行くことが出来て、
蛇口をひねれば水が出る、
アクセルを踏むだけで労せずして大量の荷物を運搬できるようになりました。
暮らしはこれからも益々便利になってゆくことでしょう。
僕たちは長い歴史と研鑽を経てそういう力を得たはずです。
けれど更なる追及が際限なき欲望を生み出してしまうことも僕たちは知っています。
そしてその歩みを止めることはとても難しいこともよく知っています。
欲望にストップをかけることがどうして難しいかというと、
たぶん人が生きていく上での必要なものや量、範囲といったものを
どんどん忘れていってしまっているからではないかと思います。
"それ"があるから満たされるのではなくて、
"それ"があるから有難いのだということにもう一度立ち返らなければなりません。
欲望は欲望を欲望してしまうから、
そこに自覚を持って時々顧みなければいけないと思います。
"足るを知る"を完全に忘れてしまった時、
僕たちはお互いにとっても、地球にとっても
自分勝手で目に余る存在になってしまうでしょう。
だからしっかりと自分のサイズというものをわきまえなければなりません。
色々なことに制約のある自転車旅だから、
ときどき人間の基本を試される場面に有無を言わさず出くわすことがあります。
その瞬間はとてつもなく大変なことも多いですが、
でも僕にとってそういった時こそが
"足るを知る"を強く実感する場面でもあるので
こういう強制力はなかなか悪くないと思っています。
一見すると何もないかに見えるモンゴルの大地は
人間が生きていく基本の単位を思い出させてくれる土地だったのでした。
しかしまぁ
見事なまでに景色が変わりませんね。
こんな風にでも考えていなければ、到底やっていけそうにありません。
モンゴルの大地は残り約1500kmを予定しています
。