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旅のまとめの重慶大厦

2015年12月16日

香港国際空港から九龍地区行きのバスにあてもなく乗った僕。

周りの乗客が一斉に降りだしたバス停に合わせて僕も降りてみると
すぐさまインド人が声をかけてきました。
「ゲストハウス?」
自分で探すから必要ないよ、と軽くあしらうと
「それなら取引をしないか? いいブツがあるんだ。」
と耳元で囁いて、怪しげなニオイのプンプンする"ビジネス"を
僕に持ちかけてきました。
困ったのは、あしらってもあしらってもそんな人間が
僕を目がけて次々にやってくること。
他にも人はたくさんいるはずなのに。
肩まで伸びた髪の毛、何日か剃っていない無精ひげ、くたびれたチノパン、
僕が周りからは少し浮いた見た目だからといって
同じ穴のムジナ扱いするのは全くもって心外な話です。

後で知ったのですが、僕がバスから降りた
いかがわしい人間がたむろするこの場所は
香港を代表する建物である重慶大厦(チョンキンマンション)の
ちょうど目の前だったようです。

重慶大厦は香港の繁華街である尖沙咀のメインストリートの
彌敦道(ネイザンロード)に面した場所に建つ17階建ての複合ビルで
1961年に建てられました。
建築から50年以上を経た歴史の中で改築・増築が続けられ、
今では建物の全貌を掴むのは不可能なほどに複雑で難解な雑居ビルになっています。
上階はゲストハウスになっていて、入居する宿の数は100軒近くあるのだそう。
宿代の高騰が止まらない香港にあって、ここだけはまだ安価な宿も多く、
香港の安宿といえば重慶大厦にありという程にその名前は広く知れ渡っています。

現在は中国である香港は、以前はイギリスの保護下であり、
アジア屈指の金融都市という立ち位置もあって、複雑な民族構成を持ち、
毎日世界中から旅行者やビジネスマンが絶えません。
そんな背景もあって香港は様々な国の人々が集う都市となっており、
重慶大厦は彼らのための受け皿として、
あるいは香港の混沌を象徴するアイコンとして存在しているのです。

『そんな建物に一泊ぐらいしてみるのも面白いかもな。』
そう思いつつも、初日は群がる客引きを蹴散らして
すぐ近くのビルにある宿を取りました。

香港では以前タイのバンコクで知り合ったビウさんと再会しました。
香港人だけれど今は中国本土に住むビウさんでしたが、
僕が香港に行くと言ったら急な連絡だったにも関わらず、すぐ駆けつけてくれました。
サイクリストでもある彼はわざわざ友人から自転車を借りてきてくれ、
図らずして香港でも僕は自転車に乗ることとなりました。

世界でこれ以上のものは知らないと彼が言う香港の夜景、
地元民ですら知らない秘密のサイクリングロード、
物価の高い香港のお値打ちで美味しいランチを食べられるローカルレストラン。
ガイドブックなんて持っていなくても、
素晴らしいガイドが香港の穴場に僕を連れて行ってくれました。

そんなビウさんに『重慶大厦に泊まってみたいんだけど…』と相談すると、
彼がニヤリと不敵な笑みを浮かべたのを僕は見逃しませんでした。
「あそこはすごく酷い宿もあれば、なかなか悪くない宿もある。
でも重慶大厦に泊まるのは香港ならではの体験だね。
友人の経営している宿があるから、ちょっと聞いてみるよ」

こうして心強いガイドを得た僕の重慶大厦体験が始まったのでした。

相変わらず入り口にたむろする怪しいインド人の群れをかき分けて中に入ると、
一階のフロアには両替屋や携帯電話屋、軽食堂がぎっしりと連なっていて、
様々な顔立ちの人間がそこにいました。

テーブルに座り何を言うでもなくその大きな瞳でじっと見つめてくるインド人、
火花が散る館内工事の傍らでメッカに向かって祈りを捧げるムスリム、
黒人の多い通りから聞こえる間の抜けた笑い声は東アフリカで聞いたものです。
本当に色々な価値観が少し歩いただけでも渦巻いている。
そしてそのどれもこれもを僕は知っている。
世界のあちこちで見かけた光景が
この小さな空間のあちこちで展開されているのでした。

トルコ料理や中東料理の軽食が並ぶ通りの奥の角、
マレー系の女性が立つ売店でアサヒのビールを買って、再び冷やかして歩きます。
たくさん売られている怪しげな電化製品はバンコクの露店でよく見かけたもので
ショーケースの雑貨やお菓子はインドで売られていたものがよく目立ちます。
たくさん目につく両替商は、お店によって天と地ほどにレートが違ってくるのだそう。
そんな暴挙が許されるのも四六時中カオスに覆われたここだからかもしれません。

ふと周りを見てみると、中国の本土人がフィリピン人とおぼしき女性に
中国語で何かを尋ねていました。
フィリピン人の彼女は英語で答えています。
言葉がまったく違うのに何故かコミュニケーションは
取れているように僕には見えました。
こんなことがごく日常的に起きているのが香港です。重慶大厦なのです。
ドキドキ、と心臓が高鳴る。
ワクワク、好奇心がそそられる。
一見すると入館するのも躊躇われるような雰囲気の
このビルにひどく興奮している自分がいたのでした。

一通り周囲を冷やかした後、10階のビウさんの友人が経営する宿へ。
マネージャーのジョンさんは広東語を駆使するインド人でした。
宿のきつめの洗剤の香りは間違いなくインドのものだったけれど、
受付の女性は日本のポップミュージックが大好きだそうで
「でも香港の歌は全然知らないの。もう20年も住んでるのに。」
といって笑っています。

受付を済ませると別階に部屋があるというので僕らは再びエレベーターに乗ります。
バックパックを背負った旅慣れた白人、お客を捕まえた客引き、
案内されている側の東アジア系のお客は、
どこかとんでもない場所へ連れていかれるんじゃないかといった面持ちで
戦々恐々としています。
エレベーターの空間でさえ濃厚な世界観が詰まっていたのでした。

ビウさんがエレベーターの中で
「このビルには120ヶ国くらいの人間がいると言われているよ」
と教えてくれました。
すると僕らの会話を耳にした黒人が
「そうさ、ここは五大陸のすべてが詰まったビルなのさ」
と僕らに目を合わせることもなく口を挟み、
そして7階で停止したエレベーターの、扉の向こう側に消えていきました。

アメリカからメキシコに渡る時のことをよく覚えています。
国境を前にして、ここを越えたらいよいよ僕は
誰も僕を守ってくれやしない魑魅魍魎の世界に飛び込んでしまうのだ、
としばし呆然と恐怖に伏していたのです。
ところが実際はそんなことは全くなくて、
どこへ行ったっていい人間もいれば悪いやつもいて、
それどころかお金や経済とは縁遠い世界に行くほどに、
人間の本質を問われる場面に出会うことが多かったような気がします。
そういった場面に出会う度に
"常識"とか"普通"という言葉を隠れ蓑にして作られていた自分の色眼鏡が
どんどんクリアになっていったから、それが面白くて僕はここまでやってきました。

だからこうして重慶大厦を歩いてみて、
このあの時感じていた恐怖心は欠片も感じず、
好奇心ばかりが湧いてきたことはある意味、世界を旅してきた証なのかもしれません。
もうすぐ地球を一周し終える、そんな実感はこの期に及んでも全くありませんが、
気持ちの変化ははっきりと以前とは違っていることを実感したのでした。

香港にはあくまで中国再入国だけのために来ただけなので、
正直なところ何も期待をしていませんでした。
ところがここには世界をぐるりと見渡しても類を見ない
濃密で複雑怪奇な世界が展開されていたのだから痛快です。
色んな人間がいるんだな、だから世界はやっぱり面白いんだな、
そんな風に思わせてくれた重慶大厦は、旅のダイジェストが詰まった
"it's a small world"なのでした。

香港にお越しの際は勇気を出して、
是非この重慶大厦に一歩足を踏み入れてみると、
思いもよらぬ混沌の魅力に気づくことが出来るでしょう。

  • プロフィール 元無印良品の店舗スタッフ

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