アジアの手がかり
香港から五度目となる中国・東北部へと戻った僕は、
遼寧省の省都・瀋陽から再び旅の轍を繋ぎ直しました。
この辺りは満州国があった地域ということも然ることながら、
地理的には朝鮮半島へと至る中華圏の出口です。
遥か昔から人や文化、作物などあらゆるものがここを経由し、日本へとやってきました。
そして僕も中国と北朝鮮を隔てる鴨緑江へと辿り着き、
計5か月、9000km近くを走った中国縦横断の旅を終えることが出来ました。
この先の北朝鮮は残念ながら自転車で走ることが不可能なため、
黄海に面した港から韓国行きの船を目指したのですが、
その道中に思いがけない人々に出会いました。
国境の街・丹東から港までの40kmは鴨緑江沿いに道が延びていましたが、
一部の区間で北朝鮮の領土に隣接した場所がありました。
あちら側とこちら側を分けているのは、
簡単に乗り越えることが出来そうな小さなフェンスだけ。
フェンスの向こう側に目を凝らして見てみると、
北朝鮮の人々が農作業をしているのを目撃しました。
土臭い色の作業着を着た女性や坊主頭の男性がそこにいて、
作業が一息ついたのか、煙草をふかしているところでした。
彼らの格好は数十年前で時が止まっているかのような寂しげな郷愁を漂わせていて、
全てが枯草色に染まった晩秋の季節はなおさらそれを強調しているかのようでした。
それでも何もかもが秘密のヴェールに包まれていると思っていた
この極東の社会主義国家の人々が案外と"普通"に暮らしていたことは、
僕の中で大きな印象と少しの安堵を残しました。
一方でフェンスだけが切り分けている今や世界有数の大国となった中国を、
ひいてはそこから繋がっている世界中の国々を
彼らは一体どのような気持ちで捉えているのだろうかと気になりました。
韓国行きの船は夜7時に出港し、
船内で横になっていた僕は夜半過ぎに目が覚めてしまい、
夜風を浴びにデッキへと向かいました。
この時間帯なのだから恐らく首都・平壌の近くまでやってきているはずなのに、
船の向こう側に見える朝鮮半島は暗黒のシルエットだけが月夜の下に浮かぶだけです。
明かり一つ見えない半島を眺めながら、
僕はぼんやりと昼間出会った人々の事を思い浮かべていました。
さて、船は韓国の仁川港に到着しました。
ちょうどこの港からユーラシア大陸の最終地であるプサンへは、
韓国が国を挙げて整備したという韓国縦断サイクリングロードが延びています。
だからあとはウイニングランのような気持ちで、
この道を辿って日本を目指せばよかったのかもしれません。
けれど、なんだかそれもつまらないな、
予定調和で終わる旅ほど面白くないものはないよな。
だいたい双六でいえば"あがり"の前には
"振り出しに戻る"や"6マス戻る"があるものじゃないか。
そんな無茶苦茶な理由付けをしてしまったがために、
韓国に着いたはずの僕は二日後にはフィリピン・マニラに向かっていたのでした。
自転車を組み立てて空港の外に出ると、
香港よりももっと濃厚な南国の湿り気がすかさず僕にまとわりつきます。
そこに紛れ込む排ガスや油のにおい、夕焼けの空にこんもりと発達した入道雲。
モンゴルで冬を迎えたはずの僕の旅は、中国で秋へと舞い戻り、
ここフィリピンで夏を取り戻しました。
フィリピンを走って早速感じたことといえば、
"ここは果たしてアジアなのだろうか?"という疑問です。
確かに立地的に言えば南シナ海に浮かぶこの島嶼群は
東南アジアに分類されるのかもしれません。
しかし、感じとれる国の雰囲気は
僕の知っているアジアの雰囲気とは少し異なっていたのです。
僕のいうアジアの雰囲気とは、角の立たない柔らかさや大らかさのようなもので、
例えばもし僕がお金をもっていなかったとしても、
何とか生きていけるような、土地に受け入れてもらえるようなポジティブな曖昧さ。
ところがここでは絶対的な貧困が目の前に立ちはだかり、
マニラの歓楽街ではストリートチルドレンが
ガラスで隔てられた建物越しでさえもお金を無心してくる。
夜になると街の表情はがらりと変わり、田舎では人通りがぱたりと途絶え、
多くの商店は早々に店仕舞いをしてしまいます。
日中でさえもお店は鉄格子越しに物のやり取りをしなければならず、
散弾銃を抱えたガードマンもかなりの頻度で見かけます。
なんだかこの年中蒸し暑い気候も含めて中米によく似ているなと思いました。
あの地域でも覆しようがない貧困が蔓延っていて
それに由来する治安の悪さが深刻でした。
両地域の近代の歴史を振り返ってみれば、
どちらもスペインによる長い植民地支配があり、
その後アメリカへの経済的な従属関係が続いていている点で酷似しています。
キリスト教は長い時間をかけて北部を中心に布教され、
そのため風俗習慣も他のアジア諸国とは異なり、
こちらも中米に近い毛色を見せています。
イスラム教徒の多い南部のミンダナオ島を除くと、
アジアよりも中米に共通点が多く見いだせるのだから、
ここはアジアというよりも中米と言った方がいいのではないか、
これがこの国に対する第一印象でした。
その印象をいっぺんに覆したのは
街頭で売られていた中華まんだったということに自分でも少し驚きました。
見た目はまさに僕らの知っている中華まんそのもので、
フィリピンにもこんな食べ物があるんだと感心しながら名前を尋ねてみると
おばさんは「シオパオだよ」と教えてくれました。
隣で売っていた焼売に似た食べ物はシオマイと言うそうなので、
シオパオを漢字に書き換えるとすれば恐らく焼包。
中国で毎朝飽きることなく食べていた包子に連なる食べ物がこの国にもあったのです!
食べ物の系譜で地域を定義するとすれば、
この中華まんほどアジアを指し示す料理はないのではないかと思います。
トルコではマントゥ、中央アジアではマンティ、ネパールにはモモ、
モンゴルにはボーズ、そしてまだ食べていませんが韓国にもマンドゥという
小麦粉の生地で具材を包んで蒸した料理が存在しています。
この料理の源流は中国にあって
それらの分布はそっくりそのままアジア地域を指し示しています。
だから、中華まんの世界地図はフィリピンもアジアの一国であるという
手がかりを見出すことが出来る気がするのです。
フィリピンはスペインのマゼラン艦隊の到達によって世界史に登場しますが、
考えてみればヨーロッパの大航海時代よりも前に、
羅針盤を開発した中国は一足先に大航海時代を迎えていて、
アジアやインド洋を中心に交易が盛んになり、
明代の初期、鄭和は船団を率いてアフリカのケニアまで到達しています。
シオパオがいつこの地域に伝えられたのかは分かりませんが、
アフリカに比べれば遥かに近いフィリピンと大陸との交流の中で
持ち込まれた料理なのでしょう。
アジアを語ることは中華圏の影響を語る事と同義であって、
なかなか見えてこなかった中国との繋がりをシオパオに見出すことが出来ました。
そうすると最初は否定的に思えた"フィリピンはアジアである"
ということにも納得がいくようになるのだから不思議なものです。
しかしフィリピンの中華まんの面白いところはこれだけではありません。
おばさんに、『ひとつ頂戴』と注文すると
「アサードにする? それともボラボラにする?」と具材の味を聞かれました。
どちらもスペイン語に由来する単語です。
フィリピンで使われている言語には数字を始めとして
スペイン語からの借用語がかなり多いことは知っていましたが、
中国から伝わったのであろうこの料理にスペインのエッセンスが加えられているところに
様々な国によって影響を受けてきたこの国の歴史が垣間見える気がしたのです。
南シナ海に浮かぶ7000以上の島々を抱えたこの島嶼国家。
そこは、東洋と西洋が出会う場所。
二つの大航海時代が交わる場所。
フィリピンの国民的スナックのシオパオが、そう教えてくれたのでした。