南部裂織
「バブルの頃は恥ずかしいものだったんですよ。
貧しい現金収入のない人が古布を裂いて織っていたものなので」
ここ数年、エコの観点からも世間で再び注目されている
「裂織(さきおり)」についてそう語るのは、
青森県十和田市にある南部裂織保存会の事務局長、小林輝子さんです。
裂織とは布を裂いて緯糸にして織った、織物のこと。
布を大切にする女性の知恵から生まれたもので、
そうした織りは全国および海外でも見ることができます。
寒冷な気候のため、綿を栽培できなかった雪国青森では、
麻布がメインで、冬にはそれを重ねて刺し子をして防寒していました。
明治26年鉄道の開通以降に綿が入ってくると、
経糸に木綿糸、緯糸に古布を使い、こたつ掛けや帯を織ったといいます。
「南部には赤い裂織が多かったのですが、
それは暗い家に少しでも明るい光を、という母親の家族に対する愛情の表れでした」
また、こたつ掛けの縁も赤色で作られることが多かったそうですが、
それは昔炭を使ったこたつだったため、
火事にならないように、という"おまじない"の要素も含まれていたとか。
さて、南部裂織保存会の話に戻りますが、保存会は1975年に、
故・菅野暎子さんによって発足されました。
菅野さんは1971年、叔母の形見分けの中にあった裂織の帯に出逢い、
それが地元で織られたものだと知ります。
そして、そこから消滅しかけていた裂織のルーツと、
技を教えてもらえる師を求めて訪ね歩きました。
1年かけてようやく織り手に出会った菅野さんですが、
最初は「お金にならないからやめておきなさい」と拒まれたそう。
昭和初期頃までは各家庭で織られていた裂織でしたが、
その頃、地元の人に裂織は"ボロ織"と呼ばれ、
周りからは見向きもされていなかったのです。
それでも菅野さんは東京の手織り教室に通い、惚れ込んだ裂織の技術を研き、
南部裂織保存会を設立して、自宅で裂織教室を開くなど
裂織の普及に心血を注ぎました。
2002年には、より多くの方に南部裂織を体験してもらえるように、
道の駅の隣に「南部裂織の里」をオープン。
現在、高い天井の梁の見える広々とした工房内には、
過去30年以上にわたって、農家の納屋や古い民家などから
菅野さんが集めた地機(じばた)が70台も並んでいます。
ちょうど教室に来ていた生徒さんの織りを拝見させていただくと、
なかなか一筋縄ではいかない様子。
地機では、「腰当て」という布を文字通り腰に当てて、座って織るのですが、
自分自身が機の一部になって、手だけでなく足も使っていくのです。
「無心で織って、キレイなものが出来上がる。
ここは女性たちの和みの場でもあるんです。
芸術家を養成するのではなく、あくまで裂織を伝え、つなげていく場所です」
小林さんはそう話し、保存会の合言葉をご紹介くださいました。
『暮らしに創る喜びを 手仕事の温もりをいつまでも』
「裂織は京都の友禅のように雅な文化ではないけれど、
とっても華やかですよね。
十和田は自然が豊かで、色彩溢れる環境です。
私自身、知らないうちに"美"に対する意識が育てられたと思っています」
その日、たまたま工房を訪れていた小林さんの娘である、
小林ベイカー央子(ようこ)さんにも話を聞くことができました。
央子さんは、仕事の傍ら「裂織3Gプロジェクト」を運営。
裂織にアートなスパイスを効かせ、
新しいプロダクトを生み出すというプロジェクトです。
3Gは3つのジェネレーションのことを表し、
十和田で活動する南部裂織保存会(60代)と、
プロのデザイナーやクリエイターからなる姉部(40代)、
そして、美大生を中心とする妹部(20代)で構成されています。
そんな裂織3Gプロジェクトからは、
普段づかいがしやすいバッグやネックストラップなどの
プロダクトが開発されていました。
「叔母の家に行くと、ボロ布がたくさん置いてあったのを覚えています」
実は、央子さんの母である、事務局長の小林さんは
保存会の創設者である、菅野さんのお姉さんだったのです。
「妹の菅野暎子は子どもたちに裂織の素晴しさについて伝えていきたい、
という想いで活動していました。
今では市内の中学生はほとんど、裂織を体験しに
ここに来ているのではないでしょうか」
活動当初は、反対していたという小林さんですが、
後に保存会の事務仕事を手伝うようになり、
今では妹の菅野さんの遺志をしっかりと継いで活動されていました。
古くなった布を一度裂いて、それを新たに織って作り上げる裂織は、
個性豊かですべてが一点物。
美しく温もりのあるこの織物が、
かつて"ボロ織"と呼ばれていたとは信じ難いほどです。
ものがなかった時代に、
古の女性たちの、ものを大切に使い続ける創意工夫から生まれた裂織には、
時代が変わった現代でも、
女性たちの想いがたくさん詰まっているように感じました。