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会津木綿で、3.11をひっくり返す!
約400年の歴史を刻む、「会津木綿」。
1627年に会津藩主の加藤嘉明が、
その前の領地である伊予国松山から織師を招いて、
技術を広めたのが始まりだそう。
厚手で丈夫、保温性や通気性に優れた会津木綿は、
もんぺなどの庶民の日常着として愛されてきました。
そんな会津木綿は「縦縞模様」が特徴で、その種類がとても豊富です。
かつては「地縞(じしま)」と呼ばれる地域ごとの柄が存在し、
衣服の縞模様でどこの出身かが分かるような身近な素材だったといいます。
「もともとは地元にある草木で染めていたから、
地域で柄に違いが出たというようにいわれています」
明治32年創業の、会津木綿の織元である原山織物工場の
6代目・原山公助さんにご案内いただきました。
原山織物工場では、染め・織り・縫製までを一貫して行っており、
工場内では、年季の入った豊田織機がカッシャンカッシャンと
小気味良いリズムを刻みながら動いていました。
明治末期から大正にかけて最盛期だった会津木綿の生産ですが、
ライフスタイルの変化で需要が減少。
30社ほどあった織元は、原山織物工場含む2社を残すのみとなりました。
しかし、そうした状況の会津木綿に、2011年秋に新たな風が吹き始めます。
地元の若手による、会津木綿を使ったものづくりが始まったのです。
「会津木綿のほかに、頼れるものがなかったんです」
そう話すのは、株式会社IIE(イー)・代表の谷津拓郎さん。
会津出身の谷津さんは、東日本大震災後に帰郷し、
喜多方のまちづくりに取り組む、地元のNPOに就職。
しかし、すぐに自分がやらなければならないことに気付いたといいます。
それは、仕事を創り出すということ。
原発事故によって他地域からの避難者を受け入れることになった会津地方には、
人が増えた一方で、仕事がないという現状がありました。
「息の長い活動として、継続していけるものは何かを考えた時に、
"会津木綿"に行き着いたんです。
歴史ある会津木綿を使いながら、何か新しい価値を吹かせられたらと思って」
会津木綿の織元から生地を仕入れて、商品を企画し、
それを仮設住宅のお母さんたちにお願いして加工し、
谷津さんが販売するという内容のプロジェクトを発案しました。
「会津への恩返しの想いも込めて、仕事をしています」
慣れた手つきで作業をしながらお話してくださったのは、
作り手の一人、廣嶋めぐみさんです。
双葉郡大熊町から会津に避難してきた廣嶋さんは、
自宅でできる仕事を探しているなかで、谷津さんに出会いました。
「この仕事をするまでは、会津木綿は会津のお土産物
という認識しかありませんでした。
実際に使ってみると、丈夫で一年中使える素材ということが分かって
私自身も愛用しています」
初めは、地元のカフェからの受注生産で、
クッションカバーづくりからスタートしましたが、
その後、作り手のお母さんの試作で生まれた
フリンジ付きのランチョンマットにヒントを得て、
現在の主力商品であるストールが誕生。
「僕自身、昔からストールが好きだったこともあったんですが、
使えば使うほどになじんで風合いの増す会津木綿は
ストールにピッタリだとひらめいたんです。
丈夫だから洗濯しても問題がない。
汗っかきの僕にはうれしい限りです(笑)」
と谷津さんは語ります。
5人から始まった作り手も今では20人ほどに増え、
震災から2年後の2013年3月には法人化するまでに成長したこのプロジェクト。
「僕は会津木綿という伝統文化を、
日常生活の中にすっとなじむようにしてあげているだけ。
『上からもらったものを下に還す』という自分のモットーに従って、
次の世代に繋ぐものづくりをこれからもしていきたいと思っています」
最後に会社名の「IIE」の意味を伺いました。
「3.11をいつまでも忘れないようにしようと思いました。
でも一方で、"3.11鬱"になりそうなくらい、当時は3.11ばかりが取り上げられていて」
谷津さんに手渡された、IIEのパンフレット。
逆さに見てみると・・・
そこには、3.11をひっくり返して、この会津を復興していきたい
という谷津さんの想いが込められていました。
地元の伝統産業に目を向け、雇用を生み出し、
さらにその産業の新しい可能性を引き出している谷津さんの活動。
3.11以前にはなかった会津木綿の姿が、そこにありました。
時代を越えて愛され続ける、会津唐人凧
男の子の健やかな成長や立身出世を願ってお祝いをする、端午の節句。
この時期には、各地で鯉のぼりが空を泳いだり、
各家庭で兜(かぶと)が飾られたりします。
お正月の風物詩として知られる「凧あげ」も、
端午の節句の行事として、子どもの成長を願って
全国各地で大会が行われるそうです。
中国が発祥の地とされる「凧」は、形や柄が地域によっても異なりますが、
福島県会津若松市では、一度見たら忘れられない表情の凧に出会いました。
「会津唐人凧(とうじんだこ)」
「詳細は分からんのですが、400年ほど前に
東南アジアの方から長崎に伝わって、
それがここ会津にも伝えられたといわれていますよ。
昔は外国人のことを"唐人"と呼んでいましたから」
とっても細かい手作業をされながら、教えてくださったのは、
現在唯一、会津唐人凧を作り続けている、
竹藤民芸店・14代店主の鈴木英夫さんです。
もともと竹材屋として1624年に創業した竹藤ですが、
お店の前の道路環境が変わり、交通量が増えると、
それまで扱っていた長さのある竹などが扱えなくなりました。
その後は、全国の竹細工や民芸品などを扱う雑貨店として、
地域の人や観光客に愛され続けてきています。
築約170年といわれる、会津最古の商業建築である店舗は、
城下町の会津にピッタリの風格ある佇まい。
お店に一歩足を踏み入れると、
別の時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥ります。
さて、江戸時代から昭和初期にかけて、会津で作られていた唐人凧。
昭和初期になり、規格化された安価な凧が大量生産されるようになると、
手間がかかり値段も高くなる唐人凧は、いつしか途絶えてしまったそうです。
そんななか、昭和46年に、会津の長い歴史と文化を守る目的で
「会津復古会」が発足。
竹藤民芸店のある一之町通りは、昔から会津一番の繁華街で、
会津の商人は一之町通りに店を出すのが夢だったといわれています。
しかし、鶴ヶ城などに来た観光客が商店街に立ち寄ることはありませんでした。
そこで、会津の観光振興のために、各商店がやれることを実施。
会津に代々伝わっていた唐人凧も復活させようという話になり、
竹細工を扱っていた鈴木さんに白羽の矢が立ったのでした。
「唐人凧を作ったことなんてなかったですから、
最初は見よう見まねで作りました」
しかし、最初に作った凧はなかなか空に上がらなかったそうです。
「周りは、揚がらなくてもお土産物だからいいと言っていましたが、
でもそれじゃ凧の意味がない」
鈴木さんは、そこから試行錯誤を繰り返し、
厚さや重さを意識しながら凧の骨である竹の削り方を変えることで、
きちんと空に揚がる凧を作り上げました。
ポイントは、いかに竹を細く削るか。
手先の感覚で1mmほどの厚みに仕上げます。
「なるべく長く作り続けたいと思っているけど、
最近は足が悪くなり、目も悪くなり
」
少し弱音を吐かれた鈴木さん。
「せっかくだから揚げてみましょうか」
私たちの目の前で作ってくれた会津唐人凧を
お店の前の駐車場で揚げてみせてくださいました。
「走りながら引っ張って揚げるのは本当の揚げ方じゃないのですよ」
そう言いながら、器用に風を受けて空に揚がった会津唐人凧を
うれしそうに眺める鈴木さんの笑顔は、
職人というよりも、まさに少年そのものの顔でした。
古くは、戊辰戦争の籠城戦の際、
鶴ヶ城に籠城した会津藩士の子どもたちが空高く会津唐人凧を揚げて、
味方の士気を鼓舞していたという逸話の残る、会津唐人凧。
「会津唐人凧は日本一、有名な凧かもしれませんよ」
記憶に新しいNHKの大河ドラマ『八重の桜』でも、
鈴木さんが作った会津唐人凧が、劇中に何度か登場しています。
戦中に味方が生きていることを知らせるために、
コミュニケーションのツールとして活躍していた唐人凧は、
時代が変わった現在も、
子どもと大人や、会津地方と他地域を結ぶコミュニケーションツールとして
人々に愛され続けています。
大きな舌を出しながら空を舞う会津唐人凧が、
「どうだ、すごいだろ!」
と話しかけているような気がしてきました。
ガラスの漆器
以前、福井県でも触れた漆器。
漆器職人・山岸氏との出会いで、
漆の素晴らしさと大いなる可能性を知った私たちでしたが、
会津若松市では、漆器の新たな展開の形を知ることになりました。
会津は、幕末の戊辰戦争によって一時は壊滅的な打撃を受けたものの、
明治中期には日本有数の漆器の産地として、その名を轟かせました。
その歴史は、輪島塗よりも古くから盛えたという会津漆器。
なかでも会津絵は会津漆器を代表する絵柄です。
しかし、生活の洋風化につれて、その需要は落ち込み、
今では後継者不足など大きな問題も抱えています。
そんな会津漆器の置かれている環境のなかで、
ひと際、多くの人でごった返すお店が七日町にありました。
「会津のうつわ 工房鈴蘭」
人々の視線の先にある、
6畳ほどの店内にキレイに並べられていた器は、
なんとガラス製の漆器だったのです。
漆器といえば木地モノとばかり思っておりましたが、
まさかガラス製のものがあるとは、驚かされました。
そのスタイリッシュなデザインには、
思わず足を止めてしまうわけも分かります。
「お店がオープンしたのは2年前。まだまだ若僧なんですよ。
でも、お客様から頂く要望を一つひとつ反映させていった結果、
今の漆の器に繋がっているんです」
そう教えてくださったのは、店番をしていた鈴木あゆみさん。
笑顔のとても素敵な会津漆器職人です。
工房鈴蘭が創業したのは、今から約20年前。
400年ある会津漆器の歴史のなかでは若い工房ですが、
低迷しゆく漆器業界をなんとかしたい、という想いから、
もともと、会津漆器の職人だったあゆみさんのお父さん、邦治さんが独立。
幼いころから、父親の並々ならぬ想いと行動をそばで見てきたあゆみさんは、
大学卒業後、会津漆器技術後継者訓練校へ進学し、
父親とともに、会津漆器の道を歩むことを決めました。
今では2人の同志とともに、4人の職人で
新しい会津漆器の形を提案し続けています。
「会津漆器は本来、日常使いされる食器だったんです。
手入れが大変といった印象で敬遠されるのは、
本来あるべき漆器の姿じゃないはずで。
だから、とことん日常使いできる漆器を提案していきたいんです」
こうして、生み出されたのが、
特殊な技術でガラスに漆が塗られた漆器。
漆で生み出せるカラー(白以外)を使いながら、
ガラスだから、牛乳を飲んでもいいし、
ビールや焼酎なんかにも合いますよね。
「漆器はしまい込まずにどんどん使ってほしいんです。
使い込むことで生まれる独特の風合いの変化も、
漆器の魅力の一つなので」
工房鈴蘭には、汁物用などに、
もちろん木地モノも展開していました。
「伝統は忘れてはいけないと思っています。
ただ、そのなかで、食生活が変わっているのだから、
私たち職人が変わらなくてはいけないとも思うんです」
そう話すあゆみさんの工房鈴蘭には、
漆器の新たな可能性と想いがいっぱいに詰まっていました。
会津若松へ訪ねた際には、
是非とも工房鈴蘭へも足を運んでみてください。
漆器がより身近に感じると思います。
福島でつくる現代の生活用品
思えばキャラバンも福島県で17県目。
ようやく全体の1/3といったところです。
日本は広いですね!
これまでの道中、木工品、陶磁器、ガラス細工、鋳物などなど、
様々な素材のものに巡り合ってきましたが、
福島県では現代の生活において無くてはならない素材を使った
プロダクトに出会いました。
無印良品でも多く扱う、ポリプロピレンを使った製品です。
よくプラスチック製品と呼ばれていますが、
プラスチックにもいくつか種類があります。
レジ袋で多く利用されるポリエチレン、
プラモデルで利用されるポリスチレン、など。
なかでも軽くて丈夫、耐熱性にも優れたポリプロピレンは、
収納ケースの他にも、ファイル、
文房具、
お弁当箱、
ハンガーなど、
私たちの生活シーンの多くで活躍をしているんです。
その防湿力と透明性を活かした収納ケースは、
クローゼットや押し入れ、棚のなかの整理にもってこいですよね。
そんな無印良品のポリプロピレン製品を作る、
福島県中通りにある工場を訪ねました。
早速、見せていただいたのはポリプロピレンの原料。
原油から精製されたもので、透明性のある白色をしています。
無印良品のポリプロピレン製品は、この素材のまんまの色です。
これを融解し、以下のような金型に流し込み成形します。
単純な作業に見えますが、日本の繊細な技術が活きていました。
こうした型物の場合、直方体だと型から抜くことが困難なのですが、
実は、内部の厚みにほんのわずかな角度を付けることによって、
抜きやすくしているんです。
素人目には全くといっていいほど分かりません。
外枠においては、重ねて使うため、完全なる直方体です。
さらに、外面にエッヂング加工(シボ加工)を加え、
若干、表面をザラっとした触感にすることによって、
傷を付きにくくしているんです。
使う側にとっては、ケースの中身が見えにくくなる上、
さらに手垢も付きにくくなっていて、助かりますよね。
こうした細かい部分にも気を配ってくれるのが、
日本の誇るべきものづくりだと感じます。
加えて、ポリプロピレンの特徴は、回収してリサイクル可能な点。
こちらの工場でも、不要になったポリプロピレン製品から、
倉庫や運搬時に使われるパレットを生成していました。
地球環境保全が叫ばれる昨今、
こうしてリサイクル可能な素材は重宝されますね。
この工場で無印良品のポリプロピレン製品を作るようになったのは、
1997年に発売したキャスター付ストッカーが始まりでした。
限られた室内空間を有効活用するために、
生み出された製品でした。
多くの支持を集めたこの製品をきっかけに、
ポリプロピレン製品は続々と生み出され、
今ではその数、100種類超。
欧州のMUJIでは主力商品に数えられるほど支持を集め、
シンガポール・タイ・韓国へも出荷されています。
残念ながら写真はお見せできませんが、
第1~第3まである工場内は、一部の組み立ての工程以外は、
驚くほど機械化されていました。
全工程の基本のくりかえし・積み重ねによって、
品質の向上と合理化されたコストを実現してきました。
しかし、そんな工場にも、3.11東日本大震災が襲います。
写真は一部ですが、機械部分もコンベアが落下するなど、
大きな被害を受けました。
しかし、幸いなことに従業員は全員無事。
一丸となって復旧作業を進めた結果、
3月24日には出荷を、3月30日には生産を再開するという奇跡を起こしました。
「一度は働く場所を失いそうになった身。
震災以降は従業員の仕事に臨む姿勢が変わりましたよ」
震災後の様子を、工場長はそう語ります。
また、「追求」がモットーという工場長は、
現状に甘んじることはありません。
さらに高品質、合理化したコストを実現しようと、
日々、改善改革を推し進めています。
無印良品でポリプロピレン製品を見かけたら、
生産者の熱い想いと、卓越された技術力を、
少しでも感じていただければ幸いです。
伝統こけし
東北地方で見つけた"同じようで違うもの"の代表、
それは「こけし」かもしれません。
こけしには、代々受け継がれてきた形態、絵柄、色彩などが
表現されている「伝統こけし」と、
作家の自由な発想の中で制作されている「創作こけし」がありますが、
東北地方で見られるこけしは、主に伝統こけしです。
もともと農家の副業として、冬の間に作られていたこけしは、
江戸末期、子供用玩具やお土産物としてのものでした。
しかし、明治維新で海外からブリキのおもちゃが入ってくると
玩具としてのこけしは廃れてしまいます。
その後、大人が美術的価値を見いだし、鑑賞用として注目されたそう。
つぶらな瞳に、おちょぼ口。
確かに見ているだけで心がホッとし、癒やされます。
その伝統こけしですが、産地によって特徴に違いがあり、
各系統に分けられています。
例えば、宮城県の鳴子系は首が回るのが特徴で、
福島県の土湯系は頭のてっぺんに蛇の目の模様があるのと、
赤い髪飾りが描かれるのが特徴というように。
「世界を見てもこんなに変化しない人形はないと思いますよ。
僕個人としては、こけしの工人同士はあまり交流しない方がいいと思うんです。
各地のこけしは独特だから面白い。混ざったらつまらないですよね?」
そう話すのは、福島県いわき市で弥治郎系のこけしを作る、
佐藤英之さん。
工房にお伺いして、迎えていただいた時には
その若さと饒舌ぶりに驚きました。
というのも、これまで抱いてきた職人のイメージは
"寡黙なおじいちゃん(おじさん)"だったからです。
英之さんは250年続く弥治郎系こけしを引き継ぐ工房の3代目。
おじいさんが弥治郎系こけし工房に奉公に行き、
当時炭坑で栄えていたいわき市に移住し、
この地でこけし作りを始めたといいます。
震災と原発事故で、一時は群馬への避難を強いられましたが、
避難先でもこけし作りを続けました。
こけしが作れることの喜びを噛み締めながら、
1年後、いわき市の工房へと戻り、現在も家族4人で製作を続けています。
こけし作りを始めて10年という英之さんは、こう語ってくださいました。
「死ぬまでできる仕事だから、まだまだ修業中です。
難しいのは木を扱うこと。日々、木に教えられていますね」
こけし作りは、材料の選定から始まり、
ロクロにかけて削る前にできるだけ近い形に切ったり割いたりする
"木取り"の作業が全体の8割を占めるんだそうです。
「せっかくだから作ってみましょうか」
そう言うと、目の前で英之さんが木を削りだしました。
カンナ棒を使って器用に手首を回しながら行います。
すると、10分もかからないうちに、
筒型だった木がこけしの形に変化していきました。
サンドペーパーで磨き、トクサ(写真右)とヘチマ(写真左)で
木肌が滑らかになるようにさらに磨きます。
こうして裸のこけしが出来上がると、今度は模様付け。
弥治郎系のこけしは、しま模様が多いのですが、
これは"ロクロ線"と呼ばれ、ロクロを回しながら描くのです。
くるくると回るこけしの胴体に、
レコードに針を置くように、そっと筆を入れます。
すると、みるみるうちに、ボーダー服を着たこけしが誕生しました!
弥治郎系こけしの特徴は、頭頂にベレー帽のように描かれた多色の輪。
このデザインは英之さんが頭の中で考えながら
描いているのかと思って質問をすると、
「うちの工房だけで、70種類以上の伝統型があるんです」
と製作手帳を見せてくださいました。
英之さんの工房には、おじいさんを含む5人の師匠の型が
引き継がれているんだそうです。
「誰かが作らないと残らないですからね」
そうなんです、伝統こけしというのは、
名前だけでなく、時代が変わっても、しっかりとその型にそって
作られていっているのです。
最後にフリーハンドで、慎重に表情を描いていきます。
ポッと赤く染まった、ほっぺたを描いたら完成!
英之さんと目が合って、おもわず顔を赤らめる少女。
その慎ましさは日本女性の象徴かもしれません。
また、こけしの表情には、描き手の気分がそのまま反映するといいます。
「おやじが若い頃作ったこけしは、全部うちの母そっくりですからね(笑)」
英之さんの生み出した、この可愛らしいこけしも
英之さんの周りにいる誰かに似ているのでしょうか。
それから、こちらの工房では
「飾るだけでなく、さわってもらえるこけしを作りたい」
という想いから、こけし印鑑も作られていました。
大きさはこけし人形の1/10くらいですが、
製法や模様もすべて通常のこけしと同様。
「ルールがあるからこそ自由になれる。
これからも自由な発想を大切に、こけしを作っていきたいです」
ちなみに、この弥治郎系こけしで一番古い型のこけしが
来年の福缶に登場するので、どうぞお楽しみに♪
「手」で染める
福島県会津若松市は、鶴ヶ城の城下町として栄えた歴史ある町です。
その町並みは今も変わらず、落ち着いた風格のあるたたずまい。
そんな町中を歩いていると、目に入ってくるのが
それぞれのお店に掲げられている「のれん」や「のぼり」です。
「あぁ、ここは酒屋さんなんだな」
「ここは野球用品を扱うお店かぁ 」
のれんはもともと、建物の入り口に外部と内部の仕切りとして垂らし、
直接風や光が入るのを防いだり、寒さよけを目的として
取り付けられたのが始まりとされています。
また、のれんを付けていると、営業中を意味し、
閉店になると店主はまずのれんを片付けるといいます。
一方、のぼりは、かつて自軍と敵軍との識別を行うため
戦陣に用いられましたが、
現在においては主に広告としての役割を果たしています。
「げたや」に「笹だんご」、
車の中からでもそこが何のお店なのかが一目瞭然です。
さて、これらの「のれん」や「のぼり」を
明治時代から作っている工房があると聞いて、伺いました。
「安藤染店」
明治初期の創業で、当初は養蚕と糸染めを行っていたそうですが、
現在は、のれんやのぼり、はっぴ等の染めと縫製をしています。
そのほとんどが地元、会津若松のお客様向け。
昔は何軒もあった染め店が今ではほとんどなくなってしまったなか、
100年以上同じ場所で同じ商売が続いているというのは、
その地域で必要とされているという証拠です。
7代目にあたる、安藤暢昭さんに工房をご案内いただきました。
染めの方法は大きく分けて3つ。
いずれも"手"を使って染め上げていきます。
1つ目はスクリーン型を使って染める「スクリーン捺染(なせん)」
主に、複数枚を染める際に使う手法です。
2つ目は渋紙(しぶがみ)の型を使う、「型染め」
生地に型を置いて、もち粉と米ぬか、石炭、塩から作られた糊を乗せます。
この糊の部分は染料を通さないため、最後に白く残ります。
そして、3つ目は型を使わず、手でデザインを描く「手染め」
水で消える紅を使い下描きし、そこに型染め同様の糊を
手で置いていきます。
まるで、ケーキに生クリームでデコレーションするように。
実はここまでは染色前の準備段階なのです。
糊置きしたものを乾燥させ、その後染色するのですが、
「色がムラにならないようにするかが最も難しいところですね」
安藤さんが笑顔で教えてくれました。
ところで、手染めの魅力はどこにあるでしょうか?
手染めは、ひとつひとつ手作業なので生地の品質を損なわず、
やわらかさや独特の風合いを生み出します。
また、使っていくうちに色が落ち着き、味が出てくるのです。
さらに、微妙な色合いを出せたり、世の中に2つとない
オリジナルの品が仕上がる。
お店の顔である「のれん」に手染めが多く支持されるのもうなずけます。
染める時は手袋をはめると感覚がわからないので、
素手で行うという安藤さん。
会津の町に安藤さんの手仕事が、今日も風に吹かれています。
お部屋に緑を☆
北海道、岩手県に次いで、3番目に面積の大きい福島県。
県南北に連なる奥羽山脈、阿武隈山地を境に、
太平洋沿岸を「浜通り」、中部を「中通り」、西部を「会津」と
大きく3つの地域に区切られます。
その中通りの北部に位置する福島市は、県庁所在地としては珍しく、
人口で、浜通りのいわき市、中通りの郡山市に次ぐ3番手。
ただ、生産量日本一を誇る桃、日本三大けんか祭の一つ飯坂けんか祭、
日本三大こけしに数えられる土湯こけしなど、
様々な名物名産を数えます。
そんな福島市にある無印良品エスパル福島を訪ねました。
一体、どんな商品が人気なのでしょう?
「福島では、こんな緑が人気なんです」
笑顔で迎えてくれたスタッフに紹介してもらったのが、
観葉植物シリーズ。
無印良品って観葉植物も扱っているんだ!
と思われた方もいらっしゃるかもしれません。
我々も一瞬そう感じましたが、
店内をよく見ると、ありました。
まるでディスプレイの一部のように棚に溶け込んでいます。
「底面給水鉢なので、慣れていない方でも、
水をやりすぎたりして枯らすリスクも少ないんですよ」
店長がそう教えてくれた通り、外側の白い鉢に水を入れておけば、
綿が水を吸い上げて土が潤う仕組みです。
「桃園とか梨園とか多い土地柄もあって、
もともと、自分で植物を栽培することが好きなんですよね。
ただ原発事故以来、なかなか外でガーデニングなどができないため、
室内で楽しめる観葉植物が支持されているのかもしれません」
人気の理由について、エスパル福島店の店長はそう語ります。
実際、観葉植物があるだけで、部屋が明るく感じます。
植物には、人の心を癒してくれる効果がありそうですね。