MUJIキャラバン

時代を越えて愛され続ける、会津唐人凧

2014年05月14日

男の子の健やかな成長や立身出世を願ってお祝いをする、端午の節句。

この時期には、各地で鯉のぼりが空を泳いだり、
各家庭で兜(かぶと)が飾られたりします。

お正月の風物詩として知られる「凧あげ」も、
端午の節句の行事として、子どもの成長を願って
全国各地で大会が行われるそうです。

中国が発祥の地とされる「凧」は、形や柄が地域によっても異なりますが、
福島県会津若松市では、一度見たら忘れられない表情の凧に出会いました。

「会津唐人凧(とうじんだこ)」

「詳細は分からんのですが、400年ほど前に
東南アジアの方から長崎に伝わって、
それがここ会津にも伝えられたといわれていますよ。
昔は外国人のことを"唐人"と呼んでいましたから」

とっても細かい手作業をされながら、教えてくださったのは、
現在唯一、会津唐人凧を作り続けている、
竹藤民芸店・14代店主の鈴木英夫さんです。

もともと竹材屋として1624年に創業した竹藤ですが、
お店の前の道路環境が変わり、交通量が増えると、
それまで扱っていた長さのある竹などが扱えなくなりました。

その後は、全国の竹細工や民芸品などを扱う雑貨店として、
地域の人や観光客に愛され続けてきています。

築約170年といわれる、会津最古の商業建築である店舗は、
城下町の会津にピッタリの風格ある佇まい。

お店に一歩足を踏み入れると、
別の時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥ります。

さて、江戸時代から昭和初期にかけて、会津で作られていた唐人凧。

昭和初期になり、規格化された安価な凧が大量生産されるようになると、
手間がかかり値段も高くなる唐人凧は、いつしか途絶えてしまったそうです。

そんななか、昭和46年に、会津の長い歴史と文化を守る目的で
「会津復古会」が発足。

竹藤民芸店のある一之町通りは、昔から会津一番の繁華街で、
会津の商人は一之町通りに店を出すのが夢だったといわれています。
しかし、鶴ヶ城などに来た観光客が商店街に立ち寄ることはありませんでした。

そこで、会津の観光振興のために、各商店がやれることを実施。
会津に代々伝わっていた唐人凧も復活させようという話になり、
竹細工を扱っていた鈴木さんに白羽の矢が立ったのでした。

「唐人凧を作ったことなんてなかったですから、
最初は見よう見まねで作りました」

しかし、最初に作った凧はなかなか空に上がらなかったそうです。

「周りは、揚がらなくてもお土産物だからいいと言っていましたが、
でもそれじゃ凧の意味がない」

鈴木さんは、そこから試行錯誤を繰り返し、
厚さや重さを意識しながら凧の骨である竹の削り方を変えることで、
きちんと空に揚がる凧を作り上げました。

ポイントは、いかに竹を細く削るか。
手先の感覚で1mmほどの厚みに仕上げます。

「なるべく長く作り続けたいと思っているけど、
最近は足が悪くなり、目も悪くなり…」

少し弱音を吐かれた鈴木さん。

「せっかくだから揚げてみましょうか」

私たちの目の前で作ってくれた会津唐人凧を
お店の前の駐車場で揚げてみせてくださいました。

「走りながら引っ張って揚げるのは本当の揚げ方じゃないのですよ」

そう言いながら、器用に風を受けて空に揚がった会津唐人凧を
うれしそうに眺める鈴木さんの笑顔は、
職人というよりも、まさに少年そのものの顔でした。

古くは、戊辰戦争の籠城戦の際、
鶴ヶ城に籠城した会津藩士の子どもたちが空高く会津唐人凧を揚げて、
味方の士気を鼓舞していたという逸話の残る、会津唐人凧。

「会津唐人凧は日本一、有名な凧かもしれませんよ」

記憶に新しいNHKの大河ドラマ『八重の桜』でも、
鈴木さんが作った会津唐人凧が、劇中に何度か登場しています。

戦中に味方が生きていることを知らせるために、
コミュニケーションのツールとして活躍していた唐人凧は、
時代が変わった現在も、
子どもと大人や、会津地方と他地域を結ぶコミュニケーションツールとして
人々に愛され続けています。

大きな舌を出しながら空を舞う会津唐人凧が、
「どうだ、すごいだろ!」
と話しかけているような気がしてきました。

  • プロフィール MUJIキャラバン隊
    長谷川浩史・梨紗
    世界一周の旅をした経験をもつ夫婦が、今度は日本一周の旅に出ました。
    www.cool-boom.jp
    kurashisa.co.jp

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