浄法寺の漆掻き
「仕事場は山奥なんで、車体の高い車でいらしてください」
事前にそう言われていた意味を、
現地に着いて、ようやく理解するに至った私たち。
漆掻き職人、猪狩史幸(いがりまさゆき)さんの走らせる軽トラは、
ぐんぐんと未舗装の山道を奥へと入っていきます。
普通の軽自動車で来たことを後悔するも、時すでに遅し。
なんとかたどり着いた先は、人里離れた山林でした。
ここは岩手県二戸市、浄法寺(じょうぼうじ)町。
国産漆の約8割を生産する一大産地です。
「静かでしょ。漆掻きの職場は孤独なんですよ(笑)」
そう話す猪狩さんの周りには、
まるで何かの模様のように傷付けられた木々の姿がありました。
これが猪狩さんの仕事相手、漆の木です。
「木を慣らすために、初めは傷口を小さく、だんだんと広げていくんです」
そう言いながら、おもむろに仕事を始められた猪狩さんは、
次から次へと漆の木に向かい合い、傷を付け始めました。
毎年、6月上旬から始まる漆掻きの仕事。
訪れた7月上旬は、5本目の傷を付ける頃でした。
「一気に深くて長い傷を入れても、漆は採れますが、
木の寿命が縮まってしまう。
木と長く付き合っていくための先人からの知恵ですね」
ほどなくして、傷口からにじみ出てきたミルクのような液体。
これこそが漆器などに塗られる漆の正体でした。
これは木が傷口を守るために出すもので、
触れたり、近づいたりするだけで肌がかぶれることも。
こうした性質から、古の人たちは、
漆には邪悪なものを寄せ付けない力があると考えていたそうです。
この涙ほどの液体を、猪狩さんは余すことなくヘラでかき集めていきます。
1本の漆の木から採れる量は年間約200ml、わずか牛乳ビン1本分ほど。
一つの椀に塗られるのが30mlほどですから、
一滴一滴が貴重で、かけがえのない木からの贈り物です。
「中国では、木に漆の樹液が溜まるような仕掛けをするようで、
それだと雨など、不純物も混じってしまう可能性があります。
日本の作業は、きめ細かくて地道ですよね」
もともと、サラリーマンという経歴を持つ猪狩さんは、
いつからか漆器の魅力の虜となり、初めは輪島で漆塗りの勉強に。
そんななか、自らが塗っている漆を掻くための職人が、ほとんど高齢ということを耳にし、
6年前、浄法寺の漆掻きの道に飛び込みました。
漆の生息に適した山間地の浄法寺には、他に目立った産業がなかったことから、
漆掻き職人が多く残っていたそうです。
「ただ、塗る側としては、日本産の漆は野性的で扱いにくいんですよ」
と、猪狩さん。
それでも、"素性の見える漆"を掻き続けたいというのは、
長い歴史のなかで必要とされてきたものだから、という確信からでした。
古くから汁椀や塗り箸など、和食器に用いられてきた漆。
函館で約9000年前の漆塗りの副葬品が出土するなど、
日本人と漆の歴史は古く、密接なものでした。
漆は、吸水性がある木地の器を、長く使い続けるために、
必然的に用いられるようになったと考えられています。
また、江戸時代、接着力のある漆は、
割れてしまった陶磁器の修復にも用いられるようになりました。
金継ぎとよばれる金粉をまぶす手法で、割れ物に美を見いだし、
わびさびとして楽しんでいたことも興味深い話です。
しかし、明治期以降、中国産の漆の流入や、
ウレタン樹脂などの代用品が増えると、国産漆の需要は激減。
日光東照宮や京都金閣寺など、文化財修復時の特需によって、
浄法寺漆は需要をつないできたといいます。
最後に、自ら掻いた漆で、塗りまでを仕上げた
猪狩さんの器を見せていただきました。
漆器は完成するまでの工程が多いことで知られていますが、
漆掻きという木と漆の狭間を行き来するような職業をしている猪狩さんらしく、
赤や黒の顔料を加えずに、採取した漆そのままを5回塗り重ねて器が作られています。
「漆器は技の方ばかり追求されていきましたが、
漆そのものについて追求していくことも大切ではないでしょうか」
その奥深い輝きには、しばらく目を奪われるほどでした。
「なくなるべき産業なら、なくなればいい。
ただ、漆は奥深いもの。その深さを知ってしまった今、
それを後世につないでいくのも僕の使命だと思っています」
漆の効能を知り、その力を最大限生かした日本人。
「漆」という漢字のなかに、木と水と人という文字が隠されていることも、
人と漆の関わりを象徴しているかのようです。
猪狩さんのような漆の伝道師がいる限り、
その文化が引き継がれていくことを確信しています。
[関連サイト]猪狩さんのHP「漆掻き 猪狩」