中津ほうき
「ほうき」は掃除道具の一つですが、
妊婦さんのお腹を撫でると安産になるとか、
魔を払う意味で亡くなった人の横に置くとか、
地域や時期によって様々な使われ方をされてきました。
日本においてほうきは、古墳時代中期からあったようで、
使われる草の種類や柄の部分は多様化したものの、
その形は1000年以上ほとんど変わっていない普遍的な生活用具です。
かつてほうきは、農閑期の仕事として全国各地で作られていました。
しかし、安価な海外産のほうきや、掃除機の台頭により産地も減り、
国産材を使ってほうきを作っている所は、現在はほぼないんだとか。
そんななか、神奈川県愛川町の中津地方で、
原材料である"ホウキモロコシ"の栽培から手掛けている方たちがいました。
柳川直子さん率いる、「株式会社まちづくり山上」。
一度途絶えてしまっていた中津ほうきを、柳川さんが2003年に復活させたのです。
まちづくり山上の拠点である「市民蔵常右衛門」には、
世界ならびに全国各地から集めたほうきが展示してありました。
世界のほうきと日本のほうきを比べて見てみると、
日本のものほど、草の質が良いものはありません。
それは、日本には靴を脱ぐ文化があり、
足の裏でゴミが分かってしまう生活スタイルだから。
編む作業よりも"草選り"といって、
ほうきに使う草を選り分ける作業が一番大変というほど、
手間暇をかけて作られているそう。
「掃除機を毎日かけるのは大変でしょ。
ちょっとしたほこりやパンくずなんかをさっと片付けられるほうきは
生活になくてはならないもの。
うちがやらなきゃ、誰がやる?って思いましてね」
もともと、江戸末期生まれの柳川さんのご先祖様が、
明治維新の頃新しい生き方を求め、関東地方を渡り歩き、
ほうき草の栽培とほうきの製造技術を学び帰郷。
これを起源として、ほうき産業が中津地方一帯に広まったのでした。
柳川さんはほうきづくりを復活させるにあたり、
ホウキモロコシの種を分けてもらうべく、
種を持つ農家と仲良くなることから始めたそうです。
その土地で育ってきた種を使うのは、柳川さんいわく、
「人間が手を加えていないものがその土地に一番合っている」から。
5月に種を蒔き、7月末~9月頭の真夏に収穫作業があるホウキモロコシは、
暑さと虫と闘いながら、1本1本、手で収穫していきます。
「私たちは太陽の恵みを分けてもらっています。
だからいつも、"お天道様の言う通りにしよう"って言っているんです。
天候によって栽培がうまくいかなければ、
それはみんなに話して理解してもらえばいい」
柳川さんは、昔ながらの無農薬栽培で自然のままにホウキモロコシを育て、
自分で育てた原料を使ってほうきを作ることにこだわります。
「本物じゃないと後に残らない。
全部語れないと意味がないし、自分でやればすべてが分かりますから」
そう話す一方、ほうき自体は自分で作るのではなく、
若い世代に技術を残していこうと、柳川さんはある動きに出ます。
「ほうきをただ作るだけでなく、今の時代に合わせて作らないと残っていかない。
それを作れる人を最短で見つけるには、美大に行けばいいと思って」
柳川さんは武蔵野美術大学大学院に社会人入学し、さらには学芸員の資格も取得。
武蔵野美術大学の構内にある民俗資料館でほうきの展示を行い、
そこでほうきに興味を持った、若手職人たちと出会いました。
「展示を見てドキドキして、ほうきを使う所作に惚れました。
ほうきは説明書がなくても、手に取っただけで自然に使える。
そういうものづくりを求めていたんです」
若手職人の一人、留松里詠子さんは中津ほうきとの出会いをそう振り返ります。
その後、留松さんは、かつて中津からのれん分けした、
京都のベテラン職人さんの元で学び、現在ほうきづくりに勤しんでいます。
「今は美大を出ても、一人立ちできる人はほとんどいない。
それっておかしいですよね。
私たちの世代が、若い人のバックアップをしていかないとね」
会社組織として、中津ほうきを復活させた柳川さんは
若手職人の育成に懸ける想いをそう話すとともに、
子どもたちについても話してくれました。
「今の子どもは、ほうきを与えても掃くことをしないんですよ。
掃く時って手加減するでしょ?
加減をすることは、人とのかかわりにおいても同じ、大切なことなんです」
そうしたことを伝えていきたいと、柳川さんたちは、
ほうきの文化や歴史についての講演やワークショップなども行っています。
「ほうきの工夫する余地はまだまだあると思っていますよ。
例えば、飾っても楽しめるようなものだったり。
今後も中津ほうきを後世につないでいきたいです」
普遍的なものでありながら、
その土地や時代に合わせて作られ続けているほうきを
使い手としても大事にしていきたいと思いました。