「高知」カテゴリーの記事一覧
黄金(こがね)生姜
アジア南部が原産と考えられ、
3世紀頃には日本でも栽培が始まっていたといわれる、生姜。
お寿司に天ぷら、冷奴、鍋などの和食に欠かせない香辛料であり、
風邪に効くという言い伝えもある食べ物です。
というのも、生姜に含まれる"ジンゲロール"という成分は、
体内に入ると免疫力を強化し、細菌に対する殺菌力があるといわれているのです。
また、"ショウガオール"という成分には、
血管を拡張して血行を良くし、体を温める効果があるのだとか。
さて、そんな生姜の生産量日本一の高知県へ
10月下旬にお邪魔すると、辺り一面に緑の生姜畑が広がっていました。
高知県は年間の日照量と降雨量がどちらも高く、
高温多湿な気候が生姜の栽培に適しているそう。
「生姜はとてもデリケートでワガママなんですよ。
水を欲するけれど、同時に水はけがよい土壌じゃないといけません」
収穫したばかりの生姜を手に教えてくれたのは、
土佐山田町にある、坂田信夫商店のTさんです。
生姜は畑が湿り過ぎていると病気になりやすいため、
畑には若干傾斜がつけてあるそう。
それでも毎日水の管理が必要で、
逆に水不足の際にはキレイな地下水を散布してあげるといいます。
また、生姜は菌に弱く、畑に入る際には靴を履き替えるか、
靴カバーをするなど、徹底した管理がされていました。
さて、収穫が始まったばかりの畑には大勢の人が集まり、せっせと作業中です。
先述したように繊細な生姜は、機械で収穫するのではなく、
手作業で土の中から引き抜き、
一つひとつ人の手によって土や根っこが取り除かれていました。
「去年は雨が全く降らず、今年は雨と台風の被害がありました。
自然が相手なので難しいですが、安定した生姜づくりを目指しています」
Tさんは、農業高校を卒業後に新卒で坂田信夫商店に入社。
今年で9年目になりますが、
一部の生姜畑を任せられた、若きリーダーです。
1947(昭和22)年創業の坂田信夫商店は、
生姜の栽培・加工・販売を一貫して行っている、生姜専門メーカー。
農業の担い手不足が叫ばれているなか、毎年新卒採用もしており、
若手が活躍している珍しい農業法人といえます。
従業員数も277人と多いことに驚きながら、
会社運営の秘訣を社長の坂田悟郎さんに尋ねてみました。
「自分たちで売り場を確保するために地方を回って、
今では47都道府県すべてに生姜を卸しています。
初めは契約農家さんに栽培を頼んでいましたが、
彼らの高齢化にともない、今では自分たちでも作るようになった。
若い人たちが頑張ってくれていますよ」
実は坂田信夫商店の作る生姜は、
「黄金(こがね)生姜」と呼ばれるオリジナルの生姜。
繊維が少なくておろしやすく、鮮やかな黄金色が特徴です。
また、一般的な生姜(大生姜)が変色するのに対して、
時間が経過しても色が変化しません。
さらに、辛みが強く香りも高いのですが、調べてみると、
辛み成分"ジンゲロール"と香り成分"ショウガオール"の
どちらも通常品種の倍以上あることが分かったそう。
坂田信夫商店では、化学肥料を極力減らして、堆肥や有機質の肥料を使用。
農薬の削減のために黄色防蛾灯を用いて害虫を予防するなど
独自の栽培方法で、安心・安全な生姜づくりに取り組んでいます。
そして、収穫された生姜は、24時間365日、
13~15℃、湿度60%という管理体制のもとに保存され、
品質とおいしさを保ちながら
約14ヵ月をかけて徐々に出荷されていくといいます。
「生姜はマイナー作物ですが、
色味や香り、味などの変化をつけることで他との違いを生み出しました。
また、生の生姜がたっぷり入ったしょうがポン酢など
生姜屋だからこそできる加工品を作って、
付加価値をつけることで勝負していきたいですね」
偶然発見された突然変異の生姜に可能性を感じ、
研究開発を繰り返して、黄金生姜を商品化させた坂田信夫商店。
農家の高齢化をただ憂うのではなく、
直営農園を増やして社員で生姜の栽培を行っている姿は、
農業とビジネスの両方のセンスを兼ね備えており、
今後の農業の未来を示しているようでした。
※Café Meal&MUJIでは、黄金生姜を使った
「まるごとジンジャエール」を提供しています。
甘みがありながら、黄金生姜のピリッとした辛みのある味をぜひご賞味ください。
虎斑竹
「この道はひい爺さんの時代から、ずっと通ってきた道や。
随分、通りやすくなってるやろ」
そう言いながら、急な山道をぐいぐいと山奥へと向かっていくのは、
高知県須崎市にある、「竹虎」の4代目、山岸義浩さんです。
竹虎は、地元でしか生息しないという、
幻の「虎斑竹(とらふだけ)」を扱う竹材専業メーカー。
山岸さんいわく、昔から日本人のくらしに必要不可欠だった竹は、
日本各地に植えられ、竹林を築いてきました。
そして、ザルや竹籠をはじめ、ほうきの柄や、農作業用の熊手、
釣り用の竿など、くらしの様々なシーンで活用されてきました。
「今日は雨上がりやき、いい模様が出ちょります。これが虎斑竹ですき」
山岸さんが指さす虎斑竹は、
表面に虎皮状の模様が入っていることから、そう呼ばれるようになったとか。
興味深いのが、虎斑竹は全国的に見ても
高知県須崎市安和(あわ)の1.5㎞間口のエリアにしか、
生息していないということ。
これまでに何度か、各地に移植が試みられたそうですが、
綺麗な模様が出ることはなかったそうです。
「なぜかは分からんがです。
学者によると、この山の土着菌による作用とも言われちょります。
なんにせよ、昔から貴重な竹として扱われちゅうがです」
かつて土佐藩の年貢としても納められていた虎斑竹は、
日用の道具としてはもちろんのこと、茶菓道の竹器や装飾用の建具としても
重宝されてきたといいます。
「自然が生み出す、2つとして同じでない模様は、
日本人の美意識に通じるものがあるがではないろうか」
山岸さんがそう話す通り、
虎斑竹は一本一本独特な個性にあふれています。
この個性を最大限引き出してあげるのは、熟練の職人技。
1本1本、火であぶりながら油抜きし、
その熱を利用して、ため木を使ってまっすぐに矯正していくのです。
「ここにしかできない竹やき、少しでもいいから残していきたいがです」
竹は自生する植物ではなく、人の手によって植えられてきたものです。
しかし、様々な工業製品が生まれてくると、
いつしか人々は竹林から離れるように。
すると、全国各地の竹林は荒廃し、
繁殖力の強い竹は、他の木々にまで影響を及ぼしているのが現状だといいます。
「けんど竹はそれだけ再生可能な資源とも言えますぞね。
3か月で親竹と同じ大きさに育つし、3~4年で製品に加工できる。
まさに無尽蔵の資源といっても過言ではないがです。
竹林の保全のためにも、竹の使い道を考えないとイカンがです」
そう話す山岸さんは、竹の需要を最大限開拓すべく、
竹細工の他に、竹の持つ抗菌性や消臭性を活かした竹炭や、
竹の葉を使ったお茶など、様々な竹のあるくらしを提案していっています。
「青竹踏みって知っちょりますか?ありゃ気持ちエイですろう。
最近の若い人は踏んだことがない人もいると聞くがです。
自分の使命は、竹の良さを今の人たちにも伝えていくことだと思うちょります」
まさに竹を割ったような性格の山岸さん。
「竹のようにありたい」と話すのは、
その多くが同じ根から生えている竹のように、
皆で手を取り合ってまっすぐに伸びていきたいという意味でした。
【お知らせ】
MUJIキャラバンで取材、発信して参りました生産者の一部商品が
ご購入いただけるようになりました!
その地の文化や習慣、そして生産者の想いとともに
産地から直接、皆様へお届けする毎月、期間限定、数量限定のマーケットです。
[特設サイト]Found MUJI Market
丁寧に暮らす
森林率84%の高知県。
なかでも、県北部で四国のほぼ中央に位置する嶺北地域は、
森林率90%という山深い場所です。
「この辺りは"高知のチベット"って呼ばれています。
知る人ぞ知る、日本最大の棚田もあるんですよ」
この時期の棚田は、残念ながら稲を刈り取った後でしたが、
水を張った時期や、緑もしくは黄金色に輝く棚田をぜひこの目で見てみたい!
と思わせる景色がそこに広がっていました。
ご案内いただいたのは、本山町に拠点を構える
「ばうむ合同会社」の代表・藤川豊文さん。
横浜の建築会社に13年勤めた後、地元である本山町に戻り、
それまでの仕事とのスピード感の違いやギャップに違和感を抱きながらも、
商工会の青年部の仲間と一緒に、地元でしかできない"何か"を模索します。
そして、視察で訪れた栃木県粟野町(現・鹿沼市)でヒントを得て始めたのが、
地元の杉を使った家具づくりでした。
「子どもたちが少ない山間部だからこそ、大切な子どもたちへ
"人の本質を育てる教材"としての学習机と椅子を作りたいと思いました」
藤川さんは、地元の杉製の家具を通じて、
"一つひとつ違うといった個性"や、"モノを大事に使うという心"を育てたい、
と話します。
一般的に、杉材は柔らかく、耐久性を維持するのが難しいのですが、
香りが立って、優しく温かいという利点もあります。
藤川さんたちは、あえて自然のままの杉材の木目を強調した机と椅子に仕上げ、
丁寧に扱わないと、汚れや傷が目立つ仕立てにしました。
今では、地元の小学校や中学校に納品され、
子どもたちは、地元の素材に触れながら、
教科書には載っていない価値を学び始めたといいます。
そして、ばうむ合同会社の手掛ける
間伐材を使ったものづくりのなかで、一際目を引いたのがこちら。
「忙しい日常のなかで、
手にするとホッとするような、自分が欲しくなるようなものを考えました」
そう話す、制作部の門田恵美さんが手掛けたのが、
木でレース編みの模様を表現した「moku-lace(もくレース)」コースターです。
もくレースのコンセプトは、
「丁寧に暮らす 大切に暮らす」。
割れにくい、壊れにくい便利なものに囲まれていると、
つい粗雑にものを扱いがちだと、門田さん。
「もくレースが、気に入ったものを大切に使うという、
丁寧な暮らしへのキッカケになればうれしいですね」
とその想いを語ってくださいました。
そんなもくレースには、間伐材のなかでも
家具などには使用できない、できるだけ小径木を利用。
張り合わせて一枚板にしてから加工していました。
杉製なので軽く、とても繊細。
だからこそ、大切に扱おうという想いが芽生えるように思います。
コースターの他にも、花瓶や植物のプランターマットとしても使えるので、
日常のなかに「丁寧に暮らす」という概念が溶け込みますね。
今年で活動10年目を迎える、ばうむ合同会社。
「林業は衰退しているとよく言われますが、
今はまだ人工林が育っていない状況なだけなんです。
林業はまだまだこれからの産業だし、人間の責任として、
森林の手入れをしていかないといけません。
今後も楽しみながら、地域に雇用と所得を生み出していきたいです」
そう、藤川さんが語るように、
豊かな自然に囲まれた本山町では、
木に触れられる、ぬくもりのある丁寧な暮らしが始まっていました。
つまみになる塩
広大な太平洋に面した高知県黒潮町(くろしおちょう)。
この町には佐賀地区を中心に、
実に5軒もの工房が塩づくりに励んでいます。
温暖で日射しの強い太平洋性の気候で、
四万十川を源流とする伊予喜(いよき)川が山のミネラルを海へと運びこむうえ、
地元住民によって美しい海が保全されてきたことから、
日本でも有数の塩づくりに適した環境なのです。
そんな黒潮町で、最初に塩づくりを始めた
「土佐のあまみ屋」を訪ねました。
晴天に恵まれたその日は、
12月中旬にもかかわらず長袖では汗ばむほどで、
自然製塩にはもってこいの気候であることを実感しました。
「人間はもともと、海から生まれてきたといわれているんです。
羊水と海水の成分は似ていますから。
塩は人間にとってとても大切な要素なんですよ」
そう話すのは、土佐のあまみ屋の小島(おじま)正明さん。
塩づくりに対する熱い想いを語っていただきました。
「そんな大切なものにもかかわらず、日本に流通している塩の多くは化学製塩、
つまり塩化ナトリウム99.9%のものでした。
いい塩を作り流通させることで、本物を知ってもらいたいんです」
小島さんがこの地で塩づくりを始めたのは昭和56年のこと。
当時、日本は塩の専売法が敷かれており、
タバコなどと同様に、特定業者にしか製塩、販売が認められていませんでした。
電気化学的に海水から塩化ナトリウムだけを取り出して作られる塩は、
味の尖った、刺激の強いものとなり、
過剰摂取によっては現代病を引き起こす要因ともいわれました。
当時より原発をはじめとした化学による汚染を懸念していた小島さんは、
伊豆大島で研究所として唯一、認められていた自然製塩所で研修を受け、
故郷、高知で製塩所を立ち上げるに至ります。
「海からできる塩は、もちろん作り方によりますが、
塩化ナトリウムは80%ほど。残りはミネラル分です」
その作り方は「流化式製塩法」といって、
これまでのキャラバンで見てきた「揚げ浜式製塩法」や
「入り浜式製塩法」をさらに進化させたものでした。
海から汲み上げた海水を、
ネットの張り巡らされた木組みのタワーに上から噴霧し、
海水がネットを伝って落ちていく間に、
太陽と風の力で水分が蒸発し、塩分が凝縮されていきます。
これを繰り返すことで作られる塩分濃度の高い水を
隣接するビニールハウスに移し、天日干し。
こうして太陽の力が、塩の結晶を生みだし、
残った水分はにがりとなるのです。
かつては、釜焚きによる塩づくりも行っていたという小島さんでしたが、
微量のミネラル分を失わないために、15年ほど前に、
ゆっくりと結晶化させる天日干しに切り替えられました。
「塩は生き物だから、全く同じものは作れないんですよ。
そんななか、私の求める"いい塩"とは、ふわっとした塩。
つまみになる塩を目指しています」
結晶が大きく仕上がる天日塩ですが、
小島さんのつくる塩は尖らず、甘みがふんわりと口いっぱいに広がります。
マイルドな味で、おっしゃる通り、お酒のつまみとして舐めたいと思えるほど。
その味の通り「あまみ」と名付けられています。
最後に、大切にしていることを伺うと、
こう応えてくれた小島さん。
「正しいか正しくないかでモノゴトを選ぶんじゃなく、
楽しいか楽しくないかで選択をしていきたいですね」
ただ、ひたすら正しい塩づくりを追求しているのかと思いきや、
それは意外な回答でした。
ほんのり甘くて、つまみになる塩は、
小島さんが楽しみながら作った味でした。
高知の人気商品
高知県を車で走っていると、その緑の豊かさに目を奪われます。
日本は国土の67%が森林という国ですが、
なかでも高知県は県土の84%が森。
日本でいちばんの森林率を誇る県だそうです。
そんな高知県では、人口の半数弱が暮らす、
高知市のイオンモール高知にある無印良品にお邪魔してきました。
早速、人気商品をうかがうと、
ご案内いただいたのがノートコーナーでした。
新学期前になると、高知県内からノートをまとめて買いに来る
お客様もいるくらいだとか。
なかでも、こちらの「植林木ペーパーノート5冊組」が人気だそう♪
計画的に植林された木を原料に使っているので、
再生紙と比べて、CO2排出量や薬品を使う量が少なく、
環境への負荷が少なくなっています。
森林に囲まれて育った高知県民は、自然のうちに、
木に対する畏敬の念を持ち合わせているのかもしれませんね。
また、こんなノートも愛好家が多いようです。
「再生紙週刊誌4コマノート・ミニ」
高知県はアンパンマンの生みの親、やなせたかし氏を始め、
多くの漫画家を輩出しており、
毎年高校生を対象とした「まんが甲子園」を開催するなど、
鳥取県と張り合う"まんが王国"なんだそう!
もしかすると、漫画家を目指す方などに
お使いいただいているのかもしれません。
このノートは以前、取材でお世話になった方にお渡しした所、
大変喜ばれました。
お子様はすぐに漫画を描くのに使っていましたし、
他にも企画書のラフ作成やコレクションを貼ったり、
TO DOリストに使ったりと、人それぞれの使い道があるようですね。
土佐文旦
木の枝にたわわにぶら下がる、山吹色のフルーツ。
これは高知県下で育てられている「土佐文旦」です。
なかでも、土佐市はその発祥の地とされ、
12月初旬に訪れた私たちは、
山の斜面にたくさんの果実を見かけることができました。
高知県では冬になると各家庭で食べる味だそうですが、
生産量があまり多くないため、
これまで県外にはあまり出荷されてこなかったそうです。
県外の人が目にするのはほとんどが贈答品として。
出荷時期が短く、旬は2~3月なので、
土佐文旦は"高知県の春の便り"といわれ、
文旦が届くと受け取った人は「もうすぐ春かぁ~」と思うんだとか。
さて、今回私たちは車がやっと1台通れる幅の坂道をぐるぐると登り、
土佐文旦農家の青木秀成さん、真弓さんご夫妻を訪ねました。
手のひらからあふれそうな大きさの文旦ですが、
もともとはマレー半島やインドネシアの辺りで生まれ、
中国を経て、九州に伝来してきたものだそう。
グレープフルーツに似ているなと思っていたら、
それもそのはず、マレー半島から東に伝わったものが文旦で、
西に伝わったものがグレープフルーツだと教えてもらいました。
グレープフルーツが、柑橘系の果物なのに
なぜ"グレープ"という名が付いたのかというと、
ぶどうの房のように1本の枝にたくさんの実をつけるからだといい、
それは確かに文旦にも当てはまることです。
「100%手をかけて育てるのがモットー。子どもと一緒です」
と、はにかみながら青木さんが話すと、
隣で奥さんの真弓さんがこう加えます。
「これってクールジャパンじゃないかしら。
こんなにも細かく面倒を見るのは、他の国ではやっていないと思いますよ」
温州みかんは、花粉が無くても、実になりますが、
土佐文旦の場合は、着果の安定や品質向上のために、
他のカンキツ(日向夏)で人工授粉を行うのだそうです。
日向夏のつぼみから採った花粉を、
文旦の花ひとつひとつに根気よくつけていきます。
それでも、花粉をつけた花のうち、
約4分の1しか実際に果実にならないというから、
実った果実を子どものように手をかけてかわいがっていくのも納得です。
ちなみに、種があって大きく球体のものが人工受粉でできた果実で、
自然に任せると種が入らず小さくて洋梨型の果実になるそう。
一見、種がない方が食べやすく、よい果実のような気がしてしまいますが、
種がしっかりと入っているのは子孫を残すため、
ひとつでも多く繁殖するための自然現象のひとつなのです。
また、放っておいたらどんどん上に伸びていってしまう枝を、
太陽がキレイに当たるように剪定するのも重要な作業です。
青木さんいわく、
「長年の経験で、剪定するバランスを体が覚えている」んだとか。
それから土佐文旦栽培の大きな特徴が、
収穫後に1年間の農作業の集大成として行う「野囲い」です。
文旦畑の一部を板で囲い、ワラを敷いて、
その上に文旦を並べ、1~3ヵ月寝かせておくのだそう。
これは追熟のためで、酸が抜け、味がまろやかに、
果肉も柔らかくなるんだそうですよ。
ここまで手を加えてから出荷されるなんて、
奥さん真弓さんおっしゃる通り、これぞクールジャパンかもしれませんね。
残念ながらまだ口にすることのできなかった土佐文旦。
「皮をキレイに剥けたら達成感。
さらに食べて満足感が得られると思いますよ」
果汁が少ないので手が汚れずに皮を剥くことができ、
口の中でプリプリの果実の食感と、ジュワ~と広がるうまみを味わえるそう!
なんだか想像しただけで、よだれが出てきますね。
とっても明るく賑やかな青木さんご夫妻の作る土佐文旦は、
Cafe&Meal MUJIのデザートとデリで味わうことができます。
どうぞお楽しみに★
原風景を守る、沢渡茶
「誰にでも思い出の風景ってあるじゃないですか。
それが僕にとってはこの沢渡(さわたり)なんです」
大きな体で、照れくさそうな笑顔を見せながら、
岸本憲明さんはその想いを語ってくれました。
水質日本一の河川のひとつ、仁淀川(によどがわ)上流に位置する沢渡は、
知る人ぞ知るお茶の産地。
ただ過去長い間、この地で生産される茶葉のほとんどが県外へ送られ、
県外の茶とブレンドされて市場に出荷されていたそうなのです。
近年、お茶の消費の落ち込みから価格低迷が続き、
認知度の低い高知の茶農家は、徐々にその数を減らしていきました。
祖父母が茶農家で、幼いころ頻繁に沢渡を訪れていた岸本さんは、
近くの川で遊んだり、おじいさんと一緒に山に登ったり、
また、毎年行われている土佐三大祭のひとつ、「秋葉祭り」にも参加してきました。
しかし、歳を重ねるごとに、
昔から見ていた風景が変わっていくことを実感します。
「原風景を守っていかなきゃならん」
我慢できなくなった岸本さんは、奥さんを口説いて、大工の仕事を辞め、
おじいさんの茶畑を継ぐべく、5年前に高知市内から移住しました。
「昔からこの地には、お茶の木が自生していたんですよ。
お茶を栽培するには最適な環境なんです」
ご覧の通り、山の傾斜地に美しく広がる沢渡の茶畑には、
毎日のように朝霧が降り注ぐんだそう。
その朝霧によって茶葉が水泡をまとい、太陽の光を和らげるので、
茶葉の旨みが凝縮され、お茶に甘みが生まれるということなのです。
実際、今年行われた「高知県茶品評会審査会」では、
最優秀賞を沢渡で生産されたお茶が受賞したんだとか。
素晴らしいですね!
私たちが訪れた12月上旬は、ちょうど剪定を終えた後で、
茶葉は冬眠に入るのを待ち構えている状態でした。
そして、お茶の若葉がいっぱいになる4月下旬頃、
新芽が摘まれ、それが「一番茶」として出荷されていくのです。
こうしてできたお茶を、岸本さんは「沢渡茶」と名付けました。
「岸本茶でも良かったんですけどね(笑)
"沢渡"の地名をもっと多くの人に知ってもらいたくて」
そういいながら岸本さんが出してくれた沢渡茶は、
香り・渋み・甘みのバランスが絶妙でした。
また、沢渡茶は3煎目ぐらいまで、味が落ちずにおいしく飲めるのが特徴だそう。
ただ、ここで岸本さんの挑戦は終わりません。
一番茶のみを摘んでいた沢渡で、初めて、
二番茶の茶摘み(6月中旬)に踏み切ったのです。
「茶畑の景観を守っていくためにも、農家が専業でやっていけるように、
さらなる商品開発が必要だと考えました」
一般的に苦みが強くなるといわれる二番茶ですが、
岸本さんはこれを「緑茶」としてではなく、なんと「紅茶」として加工しました。
茶葉は緑茶にするには、摘んでからすぐに蒸して酸化を止めるのですが、
紅茶にするには、一晩寝かしてから発酵を促すそうなのです。
緑茶と紅茶の違いは、発酵の有無にあり、
発酵させることで、茶葉が赤茶けていくんだとか。
こうして二番茶から作られた紅茶「香ル茶」は、
もちろん「ダージリン」「アッサム」など
紅茶用の茶葉の品種から作られたものとは風味が異なりますが、
独特の甘みが特徴の渋みの少ない"和紅茶"です。
他にも、一番茶を贅沢に釜炒りにした「俺の番茶」も開発し、
高知のお茶として、世に展開していっています。
「原風景を守りたい、その一心だけでやっています。
夢は、法人化して雇用を生みながら、沢渡の景観を守っていくこと。
まだまだ採算は厳しいですけどね(笑)」
そんな岸本さんは、「秋葉祭り」の主役・鳥毛役も担っているそう。
「うちのじいちゃんも昔、鳥毛役やっていたらしくて。
この祭りも失くしたくないし、じいちゃんの地元を失くしたくない。
じいちゃんが守ってきたものを、生活できる農業にして、
子供たちにちゃんと残してあげたい」
別れ際にも照れくさそうに微笑む岸本さんを前に、
「自分にとっての原風景はどこか」を考えている私たちがいました。
2児の父親でもある岸本さんの挑戦は、まだ始まったばかり。
岸本さんの作る沢渡茶シリーズは、
Found MUJIの一部店舗でもお買い求めいただけます。
【お知らせ】
MUJIキャラバン連載ブログの年内更新は本日で終わりです。
2013年は1月9日(水)より再開となりますので
どうぞよろしくお願い致します。
四万十ドラマ
この秋放映のドラマの舞台にもなっていた四万十川。
日本三大清流にも数えられる一級河川は、
昔から川漁で生計を立てている人が多いほど、
天然ウナギから鮎、テナガエビ、青海苔などの水産物に恵まれています。
その中流域に位置する、四万十町十和村(とおわむら)という
信号もコンビニもない人口約3000人の小さな村に、
一つの道の駅がありました。
「道の駅 四万十とおわ」
高知市から車で約2時間強かかるほど、
決して利便性が良いとはいえない立地にもかかわらず、
オープン5年目で来場者数約80万人に達する見込みだそうです。
旅路の途中、よく評判を耳にした私たちは、
運営者にぜひお話を伺いたいと、(株)四万十ドラマの代表取締役社長、
畦地履正(あぜちりしょう)さんの元を訪ねました。
幸運なことに、その日は四万十ドラマが主催する
「いなかビジネス教えちゃる」というセミナーの開催当日で、
全国各地から畦地さんの取り組みを学ぼうとする方たちが集まり、
どさくさに紛れて私たちも参加させてもらうことに。
「これまでの道のり、失敗も多かった。
私は生産者を裏切るような真似もしてしまった」
実績やサクセスストーリーばかりが伝わりがちななか、
畦地さんは失敗談を交えながら、その歩みを語ってくれました。
四万十ドラマが産声をあげたのは、今から18年前の1994年。
旧北幡3町村(西土佐村、十和村、大正町)の出資で設立されました。
もともと農協に勤めていた畦地さんでしたが、退職し、
四万十ドラマの立ち上げから参加。
常勤職員は畦地さんたった一人からのスタートでした。
当時はひたすら"地域には何かある"と信じて、
地元の人に触れ、地域のことを調べていったそうです。
徐々に地元の産品を展開し始めるようになり、
やがて有機野菜も取り扱うようになりました。
そんな折、大きな過ちを犯してしまったと、畦地さんは振り返ります。
「有機野菜の出荷に穴があきそうになったため、同じ四万十産の野菜だからと、
他の生産者の野菜を混ぜて売ってしまったのです」
これが発覚し、有機農家からは1年ほど口をきいてもらえなくなりました。
この時のことを猛省された畦地さんは、
「あるものはある。ないものはない」
と何事にも正直に、誠実に対応するようになり、
「ないものは作らなくてはならない」
と一次産業の大切さを痛感するようになったといいます。
ここに畦地さんの礎を見るように思います。
その後、四万十ドラマのコンセプトを、
ローカル: 四万十川を共有財産に足元の豊かさ・生き方を考える
ローテク:地元の素材や技術、知恵を活かした第1~1.5次産業にこだわる
ローインパクト:四万十川に負担をかけずに活用する仕組みを作ること
と置き、様々な商品開発を進めていくなかで、
一次産業に対しても大きくかかわりだすのです。
その一つの事例が、こちら。
四万十の栗=地栗(ジグリ)を使った「渋皮煮」です。
かつて栗の有数の産地として知られていた旧十和村も、
安い海外産や高齢化の影響で、徐々に山は荒れていきました。
それを地元にもともとあった渋皮煮に加工して出すことによって、
原料としての栗に付加価値をつけ、経済を生み出していくことに成功。
ヒット商品となった渋皮煮、今度は材料の栗が不足し、
今では毎年5000本の栗の木を植えて、山の再生にまでつなげています。
また、会計時には環境に優しいこんな取り組みも。
レジ袋には古紙で作られたバッグが使われているんです。
これまでも四万十ドラマでは
「新聞バッグ」のワークショップなどを開催してきており、
全国に200人以上ものインストラクターを輩出してきています。
地域や国によってその土地らしさが生まれ、
思わず読み込んでしまう新聞を使うというアイデアも斬新ですよね。
「新聞バッグ」の制作キットも販売していました。
このように開発された商品は100種類を数え、
町の経済を活気づけるとともに、四万十の景観を守っています。
今では、売れない商品はないというほど。
ここまで展開できた秘訣は何なのでしょう?
研修の後半、訪れた有機農家での一コマに、
その理由を垣間見たような気がします。
畦地さんは、加工品を作るために生産者と作物を取引するわけですが、
生産者の販路開拓にもひと役買っていました。
青果の取引の際に、消費者や小売担当者と生産者を直接つないでいるのです。
畦地さんはこう話します。
「地域ビジネスに必要なのは、
実際にモノを作る"労働者"、労働者が働きやすい環境を作る"管理者"、
そして、新しい産業を作り出す"起業家"。
前にも後にも"人"なんです」
畦地さんとともに歩んでこられた地域の方の言葉が
今も脳裏に焼き付いています。
「畦地さんとは運命共同体ですから」
四万十ドラマの成功も、
すべては畦地さんが、その地の生産者たちとともに考え、ともに歩み、
絶対的な信頼関係を築いてきたからこそだと思いました。
ドラマは人が作るもの。地域を生かすも殺すも"人"次第。
四万十ドラマにそう教わった気がします。
地デザイナー
四万十川の支流にある、四万十市西土佐地区に住む、
とってもワイルドな"地(じ)デザイナー"にお会いしてきました。
その人は、サコダデザインの迫田司さん。
現在、地元でデザインの仕事をする傍ら、日本中を飛び回り、
地元に住み地域のデザインをする"地デザイナー"を増やす活動もされています。
私たちが高知県にお邪魔している1週間のうち、
奇跡的にスケジュールが空いている時間があり、
日が暮れてからにもかかわらず、訪問を快諾してくださいました。
教えていただいた住所に行ってみると
せっせと炭火焼きの準備をする迫田さんの姿が。
名刺交換もそこそこに、
「とりあえず、そこにある温かいのでも食べといてよ。全部地のものだから。
BBQの鉄則は、最初に何かつまめるものを用意しておくことらしいよ」
といわれ、まずはお鍋をいただくことになりました。
ご自宅のすぐ横で、事務所のあるこの"木賃ハウス"は
迫田さん一家が自宅を建てる前に住んでいた場所だそう。
電気やガスはなるべく使わない、
炭や薪を利用した昔ながらの暮らしがそこにありました。
「僕ね、10年間先に老後をやったんですよ」
迫田さんは、社会人2年目にカヌーをしに訪れた四万十川に惚れ込み、
20年前にこの地に移住してきました。
カヌーのインストラクターとして働くも、それだけでは足らず、
田んぼを借りて自分の食べるお米を作ったり、道具を作ったりと、
手づくりの暮らしをしていたと笑って話します。
移住10年目に家を建て、地域の人との関係が強固になってくると、
もともと印刷会社でディレクターをしていた迫田さんに
近所の人から様々な相談や依頼が来るようになりました。
村役場からの依頼で、迫田さんがデザインした、
四万十川の支流で作られたお米の袋は、
どんなに技術が進んでも炊飯器の目盛りは「合」や「升」であることから
「升(ます)」をイメージした直方体の自立型に。
「付加価値をつけるのではなく、潜在価値を見つけただけ」
そう話す迫田さんが、潜在価値に気づけたのは、
その土地で築いたそれまでの生活があったからに違いありません。
迫田さんはデザインについて、こう定義します。
「デザインとはコミュニケーションのこと。
関係性をハッピーにする解決法がデザイン」
例えば、迫田さんが手掛けたある牛乳パックのデザインが
一つの町を変えることになったといいます。
高知県中西部の佐川町にある、唯一の牛乳屋さんの
パッケージデザインを考えていた時のこと。
「地元の小学校でもその牛乳は出されていて、
地域の人はみんなその牛乳を飲んで育っているんですよね。
それを聞いた時に"それって地乳(ぢちち)やん"って」
地酒や地鶏ならぬ地乳、そのパッケージには
これまでにありそうでなかった白黒のデザインを採用。
白黒パッケージなら印刷は1色でコストダウンになる、
というところまで考えて作られていました。
なかなかすらりといえない名を与えられたローカルミルク"ぢちち"ですが、
子どもたちも気に入ってその名を連呼するようになり、
いつしか地域で勝手に地乳を使ったアイスやパンなどの加工品が生まれ、
「地乳プロジェクト」が推進されるようにまでなったんだとか。
迫田さんの活動領域は、パッケージデザインだけにとどまらず、
地域そのもののデザインにまで発展しています。
自身の住む西土佐地区は、愛媛県松野町との県境にあり、
買い物はすべて愛媛のスーパーに行くなど、生活圏はほぼ愛媛県です。
しかし、これまで歴史の中でも県境の存在は大きく、
特産品は高知県産、愛媛県産に分けられていました。
そこで考えたのが、
「県境がNICE!!(ないっす)プロジェクト」
お互いの地域食材で商品開発を進め、
"県境産"という新たな産地を作り出すことで、経済の活性化を目指します。
次々と地域に新たな仕掛けを投じていく迫田さん。
「デザイナーだって、魚屋や肉屋と同じで地域に必要な職業だと思うんだよね。
デザインもその土地生まれであるべきでしょ」
数年後には自分自身はデザイナーを卒業して、
"地デザイナー"を支える立場になりたいと語ってくれました。
その土地のことを最もよく知る"地デザイナー"が地域をデザインし、
その土地に住む人たちが自分の町を誇りに思うようになる。
これこそが、真の地産地消なのではないでしょうか。