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現代の風呂敷
モノを持ち運ぶとき、今でこそ鞄に入れるのが当たり前ですが、
一昔前の日本では、少し様子が異なったようです。
そう、「風呂敷」に包んでいたのです。
もちろん、鞄も普及していたようですが、
鞄に入りきらないモノや、ちょっとした買い物などの際には、
風呂敷に包んで持ち運ぶのが一般的だったそうです。
それぐらい風呂敷は、日々のくらしで欠かせない日用品だったため、
地域のたばこ屋さんでも売られていたんだとか。
ただ、レジ袋や紙袋の普及によって、急速にその需要が低迷。
高価な着物をしまっておくときや、
結納の際に、贈答品を家紋入りの風呂敷に包んで贈るときなど、
特別なときにしか使われなくなってしまいました。
そんななか京都に、
異彩を放つ風呂敷屋があると聞いて訪れました。
「京都 掛札」
祇園の交差点から東大路通を北に向かって程なくすると、
見るもカラフルな店内に目を奪われました。
一見、鞄のように見えますが、
実はこれらはすべて風呂敷を結んだだけのもの。
柄も日本の伝統文様を現代風にあしらったものでした。
- 麻の葉
- 七宝
「日本の伝統文様には、それぞれ意味合いが込められているんですよね。
せっかくだから、それらを広く知ってもらいたかった」
例えば、蝶柄であれば、一度さなぎになって華麗に生まれ変わる神秘的な姿を
不滅・復活・立身出世にたとえて武家の家紋や意匠に好まれたそう。
また、つがいで飛ぶことから夫婦和合を、
幼子の衣装の文様として美しい成長を願ったといいます。
デザインを手掛ける3代目の掛札英敬さんが、
その想いを語ってくれました。
もともと染物屋として、家紋入りの絹の風呂敷を手作りしていましたが、
10年ほど前から、こうしたカラフルでポップな木綿の風呂敷も手掛けるように。
現在も、おあつらえ専門でお父様と染色の仕事を受けつつ、
家族で日用使いできる風呂敷を提案していっています。
そもそも風呂敷という名は、室町時代末期に、大名が風呂に入る際、脱衣した服を包んだり、
足拭きに使われたりしたことに由来するといわれていますが、明確ではないそう。
その後、江戸時代に入り商売が盛んになると、商売道具や商品を運ぶ運搬道具として、
また、庶民のあいだでもやはり日常の運搬道具として、支持されていったそうです。
風呂敷なら縦横傾けることなく、
縦長のモノも横長のモノも、包むことができますよね。
「何も風呂敷は日本独自のものでもなく、世界各地に似たようなものはあるんです。
お隣、韓国には"ポジャギ"と呼ばれる包み布があったり」
英敬さんは、こうした文化は農耕民族であることが大きく関係しているといいます。
狩猟民族は、食糧調達の際に副産物として得られる毛皮を、
目的に合わせて裁断して縫合していたため、ごく自然に立体的なものが生み出されました。
一方の農耕民族は、農作物の繊維から布をつくるという風習だったため、
原料となる作物をつくる必要があり、そこから糸を紡いで、一枚の布を織り上げたわけです。
せっかく苦労して織り上げた布を、一度切って袋状にしてしまうと、それ以外に使えない。
平面であれば、包んだり敷いたり掛けたりと、応用次第で様々な使い方ができる。
こうしたモノを作り上げる大変さが、
モノを工夫して大切に使う文化を育んできたのではないか、
ということなのです。
「ただ、この平面から立体をつくるというのは、
特に日本で顕著に見られる文化だと思いませんか。
着物も、帯も結ぶことで立体的に見せたり、折り紙にしたってそうでしょ」
そう話しながら、英敬さんは目の前で一枚の風呂敷を、
バッグのように仕立ててくれました。
「少しアレンジを加えたところもありますが、結び方は昔から伝わっているものですよ。
欧米人には、よくマジックだ!って言われます。
結び方を知っているだけで、一枚の風呂敷は様々な形に化けるんです」
確かに、風呂敷一枚で、ここまで多様な使い方ができるとは
目からうろこが落ちるような発見でした。
「風呂敷を初めて使う人に提案していきたいんです。
そのためには、パッと見でかわいいと感じるデザインも大事だし、
包み方までキチンと伝えていきたい」
そう話すように、英敬さんはHPや店頭で包み方の指導はもちろんのこと、
「風呂敷のある風景」として、現代における風呂敷の日常使いを訴求していっています。
日本で育まれてきた、平面から立体を生み出す風呂敷は、
繰り返し使えてエコという観点からはもちろんのこと、
便利でかわいい、日常使いのできる代物であることを教わりました。
【お知らせ】
MUJIキャラバンで取材、発信して参りました生産者の一部商品が購入いただけるようになりました!
その地の文化や習慣、そして生産者の想いとともに産地から直接、皆様へお届けする毎月、期間限定、数量限定のマーケットです。
[特設サイト]Found MUJI Market
レゲエを愛する、金網職人
「好きな食べ物はロコモコ。
京都だからっておばんざいを毎日食べているわけないですよ(笑)」
今回、京都でお会いしたのは、金網職人の辻徹さんです。
HIPHOP系のアパレル会社で働いていた辻さんですが、
10年前の21歳の時に家業を継ぐために実家に戻りました。
「一度しかない人生後悔しないように生きなさい」という母親の言葉通り、
やりたいことをして過ごしていたという10代。
ジャマイカ出身のレゲエシンガー、ジミー・クリフの歌に出会い、
「自分が本当にやりたいことは何か?」と自問自答していたそう。
「自分の目で見たものしか信用できない」と話す辻さんは、
実際にジャマイカに行き、そこで自分のやりたいことは"商売"である
という答えに行き着き、父親が起ち上げた「金網つじ」を継ぐ決心をしたといいます。
辻さんの生まれ育った京都は、古くから都として栄え、
日本の食の中心地として料理文化が発達してきました。
おいしさを育む調理道具も当然、ともに発展。
湯豆腐に欠かせない"とうふすくい"や"焼き網"、
"茶こし"に"うらごし"などの金網細工もその一つです。
昭和の半ばまでは、30軒以上あった金網細工の工房ですが、
プラスチックやステンレスの発達や海外産のものに押され減少。
周りが調理器具以外のフェンスなどの建築関係の仕事に移行していくなか、
辻さんのお父様、辻賢一さんは調理器具一筋で仕事を続け、
今では数軒になってしまった金網工房の代表的存在となっています。
辻さんが実家に戻ってからは、それまで問屋経由が中心だった仕事を、
「技術があるんだからもっと前に出よう!」と、直接の仕事に切り替え、
6年前には直営店舗もオープンさせました。
その後、ネットショップも立ち上げ、プロの料理人だけでなく、
一般個人のお客様にも手作りの調理器具を届けています。
「顔の見えるものづくりではなく、作る時は作る。売る時は売る」
が主義の、辻さんの工房へお邪魔すると、
真剣な眼差しで一本一本銅線を編んでいました。
編み始めが肝心で、細かい作業で集中力を要するんだそう。
しかし、次の瞬間、この顔に!
とってもお茶目な職人さんなのです。
「自分はお客様と、ものづくりをする職人の間の位置にいたいと思っています。
よく販売の時に"大は小を兼ねる"とかいいますけど、
今の時代、小さい方がしまう場所や使い勝手がいい場合も多い。
イメージだけでなく、あくまで"使われる道具"として、
きちんとした売り方をしたいんです」
辻さんは国内外問わず、実演に出かけ、
金網の調理器具を自分の言葉で発信していっています。
中国では「日本に若い跡継ぎがいるのはなぜか?」とよく興味を持たれるそう。
なんでも、中国において伝統工芸士はワーカーに過ぎないのだとか。
「伝統工芸に固執していちゃダメだと思うんです。
100均だって別にあり。人の価値観によるものだから。
でもうちは『現代の生活に溶け込む商品づくり』をコンセプトに、
守らなければならない部分は守り、
変えないと売れない部分は変えながら、やっています」
辻さんは、海外での商売のコツは
「その国に合わせるのが大事」と教えてくださいました。
例えば、茶こし。
もともとの日本茶用の茶こし(写真上左)はある程度深さがありますが、
ヨーロッパにこのまま持って行くと、深さがありすぎて
何かをすくう動作しか連想されなかったそう。
そこで、海外用に浅いモノ(写真上右)を開発。
また、フランスのご夫人などが紅茶を入れる際に、
茶こしを2本の指で持つということを知り、
写真のものよりも細い柄のものも作ったといいます。
それでも商売をする際に、あまり国内/海外という風には見ていないという辻さん。
「しょせんみんなワンブラッド。同じ人間ですから」
と語り、あくまでもフラットな視点を持っている方でした。
「今後はもっとお金儲けがしたいですね。そして若い職人を雇いたい。
それができるのは仕事が増えている状態ってことですから。
うちの商品は全部脇役だって親父がいつも言っています。
その創作理念『脇役の品格』を大切にしながら、
うちにしかできないものをもっと作っていきたいと思います」
お父様を背に、少し恥ずかしそうに、でも自信を持って話す辻さんは、
とてもかっこよかったです。
技をつなぐこと、想いをつなぐこと。
それが親子間で実現されていることが、何よりも素敵なことだと感じました。
半農半X(エックス)という生き方
この日本一周の旅を始めて、大きく変化したものの一つに
「食」に対する考え方があります。
これまでは近所のスーパーに置いてある野菜をなんとなく買い、
なんとなく調理して食べる。
産地を気にすることもなく、旬を気にすることもなく。
でも京野菜や金沢の加賀野菜、長崎での取材を通して、
その土地には本来、その地の気候や環境にあった野菜が作られ、
人々はそれを食べることで健康を保ってきた
ということが徐々に分かってきました。
流通が現代のように発達していなかった昔は、
多くの家庭で、自分たちで食材を作っていました。
また、今でも、本業としての農家ではなく、
自分たちの食べる食材を家庭菜園で作る人々や
自分のレストランや宿で提供する食材を
自分たちで作る人々がいることを知りました。
そこで、食の安全性が叫ばれている今日において、
一番手っ取り早くそれを確保するためには
"自分たちで食べるものは自分たちで作るのがいいのではないか
"
という考えに達したのです。
仕事時間の半分を、自分たちが食べる食材を作ることにあて、
残りの半分で、自分の専門分野の仕事をする、
「半農半X(エックス)」という生き方。
今回、京都にこの「半農半X」のコンセプトを
90年代半ばから提唱している方がいると聞いて、訪ねてきました。
京都市内から車で2時間弱の綾部市に住む、
「半農半X研究所」の塩見直紀さんは、大学卒業後、大手通販会社に就職。
早くから環境問題に意識を持つ会社であり、
塩見さんも自然と同じマインドになっていったといいます。
また、28歳の時に読んだ本の言葉に衝撃を覚えます。
「我々は後世に何を遺して逝こうか、
金か、事業か、思想か」
これは、キリスト教思想家、内村鑑三の33歳時の言葉で、
塩見さんは自分も33歳で次の道に踏み出すことを決め、
実際に33歳で会社を辞めました。
「会社の同期が芸術肌でみんな個性的だったんですよ。
自分には何もないって思って。
そんな時に、作家・翻訳家の星川淳さんが自分自身の
農業をやりながら仕事をするスタイルを"半農半著"と表現していて
これだ!と思いましたね。
自分の"天職"を探す意味で、"半農半X"って置いたらしっくりきて」
塩見さんは実家のある綾部市にUターンして、
自分たち家族の食べるお米や野菜を作りながら、
この「半農半X」という生き方を発信することを生業にしています。
塩見さんいわく、持続可能な循環社会においては
"食べる物の自給"と"自分の夢の自給"の2つが必要だといいます。
人は何か食べないと生きていけないし、
人には生まれてきた意味があり、生きる意味が要る。
みんなが自分のミッション(X)を叶えて自走しつつ
周囲と和して生きる社会が理想である、と。
では、各々のミッション(X)はどのように見つけたらいいか?
「Xは、すでにやっていることだったり、意外と足元にあることだったりします。
アイデアって既存のことの組み合わせですから」
そういって、こんなX発見のための方程式を紹介してくださいました。
X =
3つの自分キーワード(好きなこと、得意なこと、興味があること、気になることなど)
/ 場所(故郷or今いる場所)
「"1人1研究所"の提案もしていきたいですね。
一つのことを極めることでそれがXにつながると思います。
個性的な小さな"○○研究所"って日本全国いろいろあって、
その多様性が面白い」
この「半農半X」の考え方は、日本国内のみならず、
台湾や中国、韓国などにも広がりを見せているそうです。
「大量生産、廃棄の足し算の時代は終わりました。
これからは引き算の時代。
ライフスタイル、働き方、生き方を変えていかないと」
もし、あなたが「半農半X」という生き方をするとしたら、
もし、自分の研究所を作るとしたら、
Xに何が当てはまるか
。
一度考えてみると何かが見えてくるかもしれませんね。
私たちも半農半Xを具現化すべく、
Xを追求しながら残りの旅路を楽しみたいと思います。
すぐき漬け
「柴漬け」「千枚漬け」と並んで"京都の三大漬物"といわれるのが、
カブの変種であるすぐき菜を原材料とする「すぐき漬け」。
もともとすぐき菜は、桃山時代に上賀茂神社の社家によって
栽培が始まったといわれているようですが、
1804年に京都所司代から出された「就御書口上書」で
他村への持ち出しが禁じられたことから、
限られた地域だけで栽培され、栽培技術が口伝で受け継がれてきました。
京都市内から車で約20分の北区上賀茂地域で
すぐき菜を栽培しているという、田鶴均さんを訪ねました。
「普通の漬物は、漬けるのは漬物屋の仕事ですが、
すぐきは農家が全部やるんですよ」
残念ながら私たちが訪問した1月には、
すでにすぐき漬けの仕込みは終わっており、
その現場を拝見することはできなかったのですが、
田鶴さんの家では、すぐき菜の種の採取から、
種蒔き、栽培、収穫、漬けの作業すべてを自分たちで行うのだそうです。
「種は売っているものではなく、各家に代々受け継がれてきたもの。
同じすぐき菜にしても家によって品種が異なるから、漬け方にしたって違う」
収穫したすぐき菜の皮を剥き、一晩塩漬けにした後、
天秤で押しをかけて本漬けし、室で発酵させるそう。
現在五十数軒あるすぐき農家のうち、ほとんどは電気で室を温めるそうですが、
田鶴さんの家では、炭火で温めるという伝統的な漬け方を
今も変わらず行っているといいます。
現代の日本においては、数少ない本格的な乳酸発酵漬物で、
その味は酸味の効いたすっきりしたもの。
このすぐき菜は、京都府によって認定された「京の伝統野菜」のひとつです。
京都には、千年の都の歴史の中で、地方からの献上品をはじめ、
全国各地から様々な野菜の種が集まり、その中から
それぞれの土地にあう良いものだけを残して、代々受け継いできました。
しかし、作り手の農家によって品種が異なるため、
形の統一、味の統一がしにくいことから徐々に市場から嫌厭され、
30年ほど前には絶滅の危機にあったそう。
そんな時、これではマズイ!と立ち上がった
料亭と若手農家のグループがあり、
「復活させよう!京の伝統野菜」という運動を行ったことで、
1987年から行政が「京の伝統野菜」として認定し、
世間で見直されるようになったのです。
実は田鶴さんは、その時の若手農家の一人でした。
「九条葱、賀茂茄子、聖護院かぶら
京野菜には作られた場所の地名が付いていますが、
それだけその土地に適しているってことです」
ほとんどの京野菜を育てているという田鶴さんの畑では、
冬野菜の「聖護院大根」や「九条葱」が栽培されていました。
「『作物は人間の足音で育つ』っていうんです。日々野菜の顔を見て、
タイミングを見て体調管理をしてあげることが大切」
京の伝統野菜は"京都"というひとつのブランドによって、
他の地域の在来種よりも広く全国的に知られているように思いますが、
その裏には田鶴さんのような、伝統を廃れさせてはいけない
という想いを持った生産者がいたことを知りました。
清らかな酢
日本三景のひとつに数えられる天橋立(あまのはしだて)。
その近くの京都府宮津市に、地元で評判のお酢屋さんがありました。
明治26年創業の「飯尾醸造」。
約400社あるといわれる日本の食酢メーカーにおいても、
自社で醸造設備を持つのは約1/3といわれていますが、
なかでも飯尾醸造は天然醸造を手掛ける希少な酢蔵です。
突然の訪問にもかかわらず、
快く迎えてくださったのが蔵人、秋山俊朗さん。
もともと、酢が苦手だったという神奈川県出身の秋山さんは、
飯尾醸造の酢を飲んで、初めてそのおいしさを知り、
勤めるにまで至ったそうです。
早速、その味を試させてもらうと、
その理由が分かるような気がしました。
深いコクのせいか、実に味わい深く、
酢独特の酸味にツンとしたトゲを感じないのです。
そこには飯尾醸造の酢造りに対する徹底した姿勢が表れていました。
以前、鹿児島県で取り上げた黒酢は、
米から酢になるまでの全工程をひとつの壺の中で完結させていましたが、
一般的には、酒を酢酸発酵させたものが酢となります。
醸造用アルコールを使って作られる酢も多いなか、
飯尾醸造では、なんとその酒造りから手掛けていました。
つまり正真正銘の純米酒から酢を造っているのです。
さらに酒造りには当然、良質な米が必要になるわけですが、
その米においても、農薬・除草剤を一切使わずに作られた
地元・丹後の契約農家と自社で手掛けたものに限る徹底ぶり。
「昭和30年代、現在より毒性の強い農薬が使用され
ドジョウもフナもいなくなった田んぼを見た先々代が、
"生き物も棲めない田んぼで作った米では体がおかしくなる"
と安全性の高い米づくりを提唱したことがきっかけです」
と、秋山さんはその理由を振り返ります。
そして、そんな手間隙かけて作られた米を、
ふんだんに使用していることも飯尾醸造の特徴です。
日本では1リットルの酢を作るのに40gの米を使っていれば、
"米酢"と表示してよいことになっているのですが、
看板商品「純米富士酢」では実にその5倍の200g、
さらに「富士酢プレミアム」では320gもの米を使用しているのです。
こうして造られた酢の素になるもろみを水と種酢と混ぜ、
発酵途中の別のタンクから活発な酢酸菌膜を入れ、発酵させること90〜150日。
さらに、角をなくすための熟成に240日以上。
原料から商品として出荷するまでに1年以上、
米づくりから換算すると1年半以上の歳月をかけているのです。
こうして造られたお酢が、おいしくないわけがありません。
「富士酢」という商品名には、
初代の"日本で一番の酢を造りたい"という想いが込められているそう。
今では、多種多様な果実酢も展開しています。
高酸度のお酢に、甘い濃縮果汁を加える製法とは異なり、
生の完熟果実からもろみを造り、発酵と熟成を重ねています。
どれも果実ならではの風味が口いっぱいに広がりながらも、
お酢としての酸味を損なわない味わいがしました。
安全でおいしいのはもちろんのこと、"地域とともにある"、
というのがモットーの飯尾醸造の酢。
地域で評判の酢は、地域にも優しいものでした。
Made by Japanese
京都市河原町にある、明治8年創業の「開化堂」。
茶筒専門店としては、日本で最も古い歴史を持つといわれています。
そんな長い歴史を持ちながらも、創業以来からほぼ同じ製法で作られる茶筒は、
今の時代にも色褪せることなく、洗練された輝きが放たれています。
明治初期の文明開化の頃、
英国から輸入された錻力(ブリキ)を使って缶を作ったのが始まりとか。
銅や真鍮をまとった美しさは、思わず目を見張るほどです。
茶筒の使い心地を左右するのは、蓋のフィット感。
キツすぎても緩すぎても、どうも心地悪く感じてしまいますが、
開化堂の茶筒は、上蓋と下蓋の継ぎ目を合わせるだけで、
音も立てずにゆっくりスーッと閉まってくれます。
この絶妙なフィット感は、開化堂5代目の八木聖二さん、
6代目隆裕さん親子によって生み出されています。
「この感覚は初代から変わっていないんですよ。
実は内側にカーブしていたり、微妙に膨らみがついていたり
。
見えない部分にも手間がかかっていて、その工程は130に及びます」
そう話す6代目の隆裕さんは、職人でありながら、
プロデューサーとしての一面も持っています。
大学卒業後、就職した先で海外勤務を経て、家業に転身。
それまでに培われた語学と適応性を生かして、
5年ほど前から、開化堂ブランドを海外へ展開し始めたのです。
ニューヨーク、ロンドン、パリなどで開催される展示会では、
茶筒づくりを実演し、海外のバイヤーからも高い評価を獲得。
今やその先は欧米を中心に10カ国に広がっています。
「Made in Japanを打ち出して、一部の日本好きをターゲットにするよりも、
いかに海外の人の日常生活に取り入れてもらえるかを念頭に置きました」
と隆裕さんが話すように、海外での見せ方は茶筒としてではなく、
様々な食材の保存容器としての見せ方をしています。
パスタ缶といった容器にまで、その用途は拡大しています。
「ただ、あくまでもこれらは茶筒を知ってもらうためのツール。
祖父の時代、機械化の波に押されながらも、京都のお茶屋さんが
"ワシが買うてやるから、お前のとこはいいものだけ作っておけばいい"
といって使い続けてくださったことを、忘れてはいけないと思っています」
隆裕さんは、開化堂のコンセプトは以下の3つだと話します。
*機能的
*シンプルなデザイン
*長く使える
機能的で、シンプルなデザインというのはいうまでもありませんが、
長く使ってもらえるように、修理までも受け付けているんです。
新しいものを買ってもらう方が、企業としては利益が上がるだろう所、
直せるものはできる限り直す、という姿勢には感銘を受けました。
使い込んでいくうちに変化する光沢と色は、
まさに「用の美」。
錻力(ブリキ)で30~40年、銅で1~2年、真鍮で3~4年ほど使うごとに、
徐々にその味わいを深めていくのです。
さらに、写真右下の真鍮は、使う人の食べているものによって、
右のような赤褐色か左のような黄金色か、どちらに変化するか分からないそう。
そのワクワク感と、いつまでも飽きのくることのない魅力に、
思わず真鍮の茶筒を一つ買わせていただきました。
現在、他の京都の伝統工芸4社とともに、
日本の伝統技術を海外へ打ち出す取り組みにも従事する隆裕さん。
「日本の伝統技術を分解して、海外のマーケットに合わせて展開する。
Made in Japanではなくて、Made by Japaneseが実現できれば、
日本の伝統産業は続いていけると思っています」
日本のものづくりの未来までをも見据え、
海外へも発信できる力を持った伝統工芸の職人は、
これからの時代における模範と呼べるかもしれません。
つくるビル
歴史と伝統が息づく町、京都。
近代的な街並みのなかにも、自然と古い町家が溶け込む風景からは、
京都らしい風情を感じます。
そんな京都の中心地に、
一風変わった特色のビルがありました。
外観は一見、古びた建物ですが、名前が「つくるビル」。
なんと、その名の通り、
ビル全体がつくり手たちの「ものづくり」の拠点となっているんです。
しかもこのビル、昨年の12月にオープンしたばかり。
今は入居したての作家や作り手たちが、
まさに自分たちの居場所(アトリエ)を作っている最中でした。
平面作品アーティスト向けの共同部屋(シェアアトリエ)も入居募集中で、
部屋によっては陶芸家向けの電気窯付きの部屋もあります。
中にはショップ機能を持つアトリエや、地元産の野菜を扱う八百屋、
古本から新刊までインスピレーションを与えられる本を取りそろえた
本屋も入居しており、
広々としたカフェも併設。
思わず何かを作りたくなってしまうような空間です。
噂を聞きつけフラリと訪れたのですが、幸運なことに、
この「つくるビル」の仕掛け人の方にお会いすることができました。
石川秀和さん、37歳。
内装デザインの会社で勤務した後、独立を果たしました。
「京都はその土地柄、伝統工芸にまつわる
作り手が制作・活動する場は多分にあるのですが、
現代でアナログ的なものづくりをされている
クリエイターたちが制作・活動する場は少ないんです。
また別の話ですが、町家や古い洋館などは、
京都市など行政から保護もあって残されているんですが、
60~80年代に多くに建てられた一般的な築30~50年程度の古いビルは、
景観保護や文化財等の保護計画から漏れてしまい、
取り壊されてしまったり、使われず廃墟になっていたりするんです。
つくるビルは、このふたつの異なる事情をつなぐアイデアがあり生まれました」
このビルも築50年を迎え、リノベーション前までは、
10年以上入居者がいない部屋がいくつもあるような廃墟的ビルだったとのこと。
石川さんいわく、60年代から80年代(高度経済成長期)に建てられ、
老朽化したことにより、人けのない廃墟となっているビルは多くあるようで、
そのビルの活用方法については、ビルオーナーも頭を悩ませているんだとか。
ビルオーナーにとってはビルを残しながらリニューアルでき、入居者から家賃が得られる、
クリエイターにとっては、古さを生かした自由で魅力的な空間が格安で借りられる。
そんな両者のニーズをマッチングすることで、
廃墟ビルが付加価値を得て蘇ったのです。
これまでの道中にも見つけてきた「今あるものをどう生かすか」の視点。
ただ、この角度でニーズを掘り起こしている方は初めてでした。
「京都には伝統という土台がある、だからこそ、
常に新しい多種多様なモノ・コトが生まれる」
と話す石川さん。
現代の作り手たちが「作る」場から、何が生まれるのか。
今後も目が離せません。
人気商品から見える京事情
京都駅南口近くに構える洗練されたモール。
なんと「イオンモール京都」でした。
こちらの無印良品も、基調をグレーにおいた風格ある門構え。
これまで訪ねてきた郊外型のイオンモールとは一風異なり、
さすがは京都といった洗練された雰囲気が漂っています。
さて、そんな京都らしい無印良品の人気の逸品とは!?
「スタッキングシェルフ」です♪
一体、なぜ?と感じる方も多いかもしれませんが、
京都の住まいは町家に代表されるように、
入り口が狭くて細長いつくりのものが多く、
その様は、「鰻(うなぎ)の寝床」とも呼ばれているそうです。
そのため、大きな家具は搬入不可となるケースがあり、
狭い入り口からでも搬入可能で、空間を最大限有効活用可能な
「スタッキングシェルフ」が支持されているというわけなんです。
組み合わせ自由だから、様々な間取りにも合わせられ、
和風にも洋風にも合うから不思議です。
各地の人気商品から、
地域ごとにその土地柄を把握することの大切さを痛感させられます。
変わる伝統、変わらない伝統
食べてしまうのがもったいない、
ずっと眺めていても飽きない和菓子たち。
これらは、京都を中心に活動する、創作和菓子ユニット
「日菓(にっか)」の二人が作ったものです。
三重県出身の杉山早陽子さんと、埼玉県出身の内田美奈子さんは
京都の同じ老舗和菓子屋で働いていて出会い、
和菓子に対する考えが同じであることから意気投合。
「日菓」を結成して今年で7年目になります。
実は二人が和菓子の世界に入ったのは、
一冊の同じ本に影響を受けてのことでした。
「これまでの和菓子の見せ方は、器と和菓子がセット。
それが私たち世代にはあまりピンと来ないと感じてしまって。
この本に出会った時に、新しい和菓子の見せ方を追求したいと思ったんです」
和菓子には、饅頭や羊羹(ようかん)という種類の名前のほかに
「菓銘」というタイトルのようなものが付けられていて、
菓銘の多くは、短歌や俳句、花鳥風月や地域の名所等に由来しているそう。
例えば、4月の和菓子に"花筏(はないかだ)"
という菓銘のものがありますが、どんなお菓子か想像がつきますか?
花筏とは、「桜の花が散って花びらが水面を流れていく様」を表しますが、
若い世代にはなかなか伝わりにくいのが正直なところです。
その点、日菓の和菓子はストレートに伝わりやすい
"情報の完結度"を大切にしているといいます。
「くす玉」
「気くばり美人」
「目ぢから」
「商品として食べてもらうよりも、その先の時間を共有したい」
と話す日菓の二人は、
展示会で、和菓子を視覚で楽しんでもらってから、味わってもらったり、
ギャラリーイベントのテーマに合わせて和菓子を発表したりと、
和菓子の魅力を自分たちのやり方で伝えていっています。
京都に移住して10年の杉山さんと、7年の内田さん。
二人にとって京都はどのような場所か尋ねてみると、
こんな答えが返ってきました。
「伝統文化とサブカルチャーが共存している街。
伝統の和菓子があるから、私たちのような新しい形の和菓子も
受け入れてもらえているのだと思います」
京都の伝統文化といえば、「舞妓・芸妓」があります。
海外においても和製英語の"GEISHA"として知られているほど。
しかし、言葉としては聞き慣れているものでも、
日本人である私たちでさえ、あまりなじみのない世界です。
舞妓・芸妓はもともと、神社仏閣へ参詣する人や街道を旅する人に
お茶をふるまった水茶屋で、お茶や団子を提供していたものに
お酒や料理が加わり、その店で働く茶汲女(ちゃくみおんな)が
唄を聞かせ舞を見せたのが始まり。
芸妓遊びのできる店を中心に形成される区域を「花街(かがい)」と呼び、
京都には上七軒(かみしちけん)、祇園甲部(ぎおんこうぶ)、祇園東、
先斗町(ぽんとちょう)、宮川町の5つの花街があります。
なかでも一番古い歴史を持つのが上七軒で、
室町時代に北野天満宮の再建の際に残った材木を使って
7軒の茶店を建てたのが発祥だとか。
この上七軒で元芸妓である勝ふみさんに、
舞妓・芸妓の話を聞かせてもらいながら、
私自身も舞妓体験をしてきました。
舞妓と芸妓の違いですが、舞妓は芸妓になる前の見習いで
身に付ける着物や髪型、かんざしの種類などが異なるそう。
舞妓は、肩と袖に縫い上げがあり、
だらりと垂れ下がる「だらり帯」に「裾引き」という、お引きずりの着物を着て
10cm以上ある「おこぼ」を履くのが特徴。
また、髪形は舞妓の場合、自毛で桃割れの髪を結い上げ、
経験年数や行事に応じて結い上げる髷(まげ)が決まっているといいます。
ちなみにかんざしは、2月は「梅」、4月は「桜」、10月は「菊」
というように四季折々の花があしらわれています。
舞妓になるためには、中学卒業後に
お茶屋(プロダクションのようなもの)に所属し、
唄や舞、三味線の稽古、京言葉や花街のしきたり、行儀作法などを学びます。
弱冠15歳にして、将来の職業を決めるというから驚きですが、
全国各地から舞妓希望者が集まるというからさらに驚かされます。
勝ふみさんいわく、舞妓・芸妓に大切なことは、
"お客様をもてなす心"だそう。
日菓の二人も「和菓子の根底にあるものを学びたい」
と、茶道を習っていて、
「お茶の世界では、何があっても落ち着いていて、
その場の時間の流れを止めない臨機応変さが必要で、
何よりお客様に楽しんでもらうことが第一」
と話していました。
和菓子も舞妓・芸妓も京都のお茶文化とともに栄えてきたもの。
季節のうつろいに敏感で、相手のことを思いやる心を持つ日本人の精神は
こうした古くからの文化の積み重ねによって、
自然と育まれてきたものなのでしょう。
伝統文化が一部形を変えながらも、色濃く残る京都だからこそ、
こうしたことを感じることができたに違いありません。