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神話の里
神話の里といわれる宮崎県といえば、
高千穂を思い出す方も多いのではないでしょうか。
高千穂町にある高千穂峡は、
なんと約12万年前と約9万年前の2回の阿蘇火山活動の時に
噴出した溶岩流(火砕流)を五ヶ瀬川が浸食した侵食谷。
上流の窓ノ瀬から下流の吐合間が中心で、1934年11月10日に
五ヶ瀬渓谷(ごかせがわきょうこく)として、
名勝及び天然記念物に指定されています。
この日の高千穂峡は残念ながら、台風のため、濁流でした。
ボートから望む滝を楽しみにしていたのですが、ボートは中止
。
でもこの景色だけでも圧巻でしたよ!
この七ッヶ池(ななつがいけ)は、まるで時が止まっているような場所。
この高千穂峡だけでも、神話があちこちに書いてありました。
この土地に神話がたくさん残っているのも納得です。
傘も飛ばされる嵐のなかでしたが、
景色とともに神話を想像しながら時間を過ごしました。
特別な何かがありそうな高千穂エリアには、神社もたくさんあります。
まずは、高千穂神社へ。
創建は1900年前にさかのぼるという高千穂神社は、
「高千穂皇神社」として「続日本紀」にもその名が見られる歴史ある神社です。
天孫降臨の地と神話がある高千穂の八十八社の総鎮守。
夫婦が手をつないで周囲を3度回ると
夫婦円満・家内安全・子孫繁栄の願いが叶うという
樹齢800年以上の「夫婦杉」がどどーんとお出迎えしてくれました。
2本の大木が、根元で一つにつながっていることから、この名がつけられたそう。
私たちキャラバン隊も2人で回ってきました。
それから、天岩戸神社へも行きました。
相変わらずの土砂降りで、しばし雨宿り。
雨が落ち着いてから、神社からさらに奥へ10分ほど進むと、
天の安河原と呼ばれる場所があります。
ここは、神話に登場する天照大神の岩戸隠れの際に、
八百万の神々が策を練るため集ったとされる場所だそうです。
鳥居の周りで石を積んで願い事をすると叶うというのですが、
残念ながら、濁流のためこれ以上は近づけず
。
いつかまた出直したいです。
さて、高千穂町では毎年11月中旬から2月上旬にかけて、
町内のおよそ20の集落でそれぞれ氏神を民家等に迎えて奉納する
「夜神楽(よかぐら)」が行われています。
天照大神が天岩戸に隠れた際に、岩戸の前で、
あめのうずめのみことが舞ったのが始まりと伝えられるもので、
古くからこの地方に伝承され、秋の実りへの感謝と翌年の豊穣を祈願するのです。
夜神楽には33の番付があり、夕方から始まり翌日の昼前まで
舞い続けられるそうですよ。
世界を見ても、こんなにも長時間にわたって演ずる舞台はないんだとか。
高千穂神社の神楽殿では年間を通じて、
毎晩代表的な4番を観ることができるというので行ってきました。
写真からも伝わるでしょうか? 勢いのある舞いです。
後半は、舞台を降りて観客を巻き込むシーンも。
神聖なものとわかっていながらも、笑いも起こる、そんな舞台でした。
昔から、この神楽で、自然に感謝しながら豊作を祈り、
自然とともに生きてきた文化があり、
それが今も伝承されているところに、人々の願いの強さを感じます。
そして、それこそがこの土地のパワーになっているのではないのでしょうか。
女川町の現状と希望
宮城県の東、牡鹿半島の入り口に位置する女川町(おながわちょう)。
平安時代の武将、安倍貞任が源氏方との戦の際に、
一族の婦女子を安全地帯に避難させたことから、
そこから流れ出す渓流のことを「女川」と呼ぶようになり、
それが現在の地名の由来といわれています。
世界三大漁場の一つである金華山沖漁場に近く、
ホタテやカキ、銀鮭、ホヤの養殖も盛んなため、
年間通じて豊富な魚介類に囲まれていました。
しかし、そんな漁業の町にも、2011.3.11、
未曾有の大震災が襲いました。
女川湾の入り組んだ沿岸地帯は、津波により壊滅状態。
震災前1万人強いた人口も、
現在約8000人強にまで減少してしまいました。
7月末、私たちキャラバン隊が女川町を訪れた町の様子です。
ご覧の通り、鉄筋コンクリート製のビルも、
基礎部分ごと地面から抜けて横倒しになるほどの津波被害。
世界的にも稀な被害であるため、
町では被害資料として保存することを検討しているようです。
町中の瓦礫は片付けられている印象でしたが、
集められた瓦礫の処理場は、まだこの状況でした。
被害を受けた住民の方々は、
現在約30カ所の仮設住宅で避難生活を送っています。
その内の一つを訪ねました。
「町民野球場仮設住宅」
その名の通り、
野球場の敷地内に建てられた仮設住宅です。
2~3階建ての建物はまるでアパートのような外観ですが、
これらは実はコンテナを重ねた造りになっているんです。
高台に平地の少なかった女川町では、
従来の平屋型仮設住宅では戸数が確保しにくかったため、
前例になかった2階建て以上の仮設住宅の建設を決めました。
建築家の坂 茂(ばん・しげる)氏による提案で、
基礎を打たない海上輸送用のコンテナを市松模様に積み上げた建設ですが、
耐震性、耐火性、遮音性にも優れ、2~3階建てにしたことで、
この地に189戸の住居スペースを確保することができたのです。
特別に、何軒かのお宅にお邪魔させていただくと、
そこには、最低限の生活空間と生活用品がありました。
なかには、無印良品が提供した照明やカーテンも。
「住民の方々の生活は落ち着いてきていますが、
これからはボランティアや外部に頼るのではなく、
いかにして自立していくかが鍵です」
ここ町民野球場仮設住宅で働く、
女川町社会福祉協議会の伊藤さんはそう語ります。
今では少しずつですが、集会所で催されるイベントも、
町民の方が主体となって取り組んでいるものが増えてきているそうです。
その息吹は、女川町全体からも感じることができました。
お寿司屋さん兼海鮮を扱うお店も一部で復活。
女川高校のグラウンドには木造仮設商店街、
「きぼうのかね商店街」がオープンしていました。
「きぼうのかね」とは、女川町民だったら誰もが聞いたことのある
JR女川駅前にあった「からくり時計」の鐘のこと。
津波によって駅舎とともに流された4つの鐘のうち、
瓦礫の中から奇跡的に見つかった一つの鐘を復興のシンボルとして掲げ、
海外の支援団体からの資金援助を受け、今年の4月末に起ちあがったそうです。
八百屋や書店、カフェや銀行まで揃っていて、
なかには、こんなお店まで。
もともと陶芸クラブとして活動していた主婦グループが、
震災後、新たに始めたスペインタイルのお店です。
津波で窯も流され、存続も危ぶまれていた状況から、
各種からの支援により、なんとか継続。
「女川って、スペインの漁港の町ガリシア地方とよく似ているらしいんです。
スペインにはタイルで彩られた美しい街並みがあります。
女川もこれから復興していくにあたって、
街中にスペインタイルをちりばめられたら素敵だなって」
「みなとまちセラミカ工房」の代表阿部さんは、
今後の夢をそう語ってくださいました。
このように女川町では、
一人ひとりができることを模索しながら、
一歩ずつ歩み始めている様子がうかがえました。
ただ、まだまだ何もない状況からの一歩です。
完全に自立できる状態にはほど遠いことは言うまでもありません。
町の復興計画も8年スパンと聞いています。
その間、私たち一人ひとりも、
女川をはじめとした被災地のためにできることを考え、
実行に移していくことが必要なのではないでしょうか。
オケクラフトセンターと秋岡芳夫さんのこと
2011年に目黒区美術館(東京)で開催され、
多くの来館者を呼び話題となった「DOMA秋岡芳夫展」。
その巡回展が、8月11日(土)から9月9日(日)まで、
北海道常呂郡置戸町(おけとちょう)の中央公民館で開催されます。
(一部の内容は変更されます。)
[Facebookページ]DOMA 秋岡芳夫 北海道置戸展
置戸町は、女満別空港から北見経由に車で約1.5時間のところにある
針葉樹に囲まれた人口3400人の小さな町。
かつてはその豊かな森林資源により建築材の産地として栄えたところです。
当時は馬が曳いていた丸太のソリを、今では力自慢の男たちが500kgの丸太を曳いて競い合う
"人間ばん馬"という夏祭りの競技でも知られます。
1983年、町の人々の呼びかけによって、工業デザイナーでありながら
地域コミュニティーで木工や手仕事の生産者教育を実践していた
秋岡芳夫さんは講演のため、この地を初めて訪れました。
その日から置戸町と秋岡さんの交流は、氏の亡くなる1997年まで続き、
裏作工芸としての木工クラフトだけでなく、
"モノ・人・暮らし"の関係を説いた暮らしの思想を
この地に根付かせることになりました。
「消費者から愛用者へ」「手の復権」といった氏の有名な言葉は
今も多くのファンの間に引き継がれています。
さて、少々前置きが長くなってしまいましたが、
これが今回私たちキャラバン隊が訪れた「オケクラフトセンター森林工芸館」。
ここは、秋岡さんが命名して始まった木工"オケクラフト"を紹介するだけでなく、
生産者を育てながら販売の拠点となっている場所。
木のぬくもりに心も安らぎます。
館長の北山雅俊さんが、展覧会の準備の忙しい中、その吸い込まれるような笑顔で
オケクラフトの歴史をとても丁寧に説明してくださいました。
お話を聞いていると、今もそこに秋岡さんがいらっしゃるよう。
まず秋岡さんは、年輪が均等に刻まれず建築材には使えない
アテ材と言われる偏芯材を使って、
この土地の人々が冬の間に裏作として従事できる木工を勧め、
エゾマツ・トド松の白い木肌と美しい木目を生かした
器や家具を生み出されていきました。
そして「都会の人が羨むような北国文化をここから発信しなさい」
という言葉の通り、瞬く間にその美しい木目と生産者の情熱によって、
オケクラフトの名は地域ブランドとして広まっていったのです。
館内にはその歴史を辿るアーカイブが数多く保管展示されています。
さまざまな素材や形状の美しい椀・皿・桶などが展示されており、
時間を忘れて、じっと見とれてしまいました。
秋岡さんの撒いた種が、たくさんの"実用の美"として育っているんですね。
これは、"ガッポ材"と言われる中が空洞になった木材を利用したチェア。
どっしりしていて、ぬくもりと味わいが何とも言えません。
また、秋岡さんは多くある著作の中で、
"暮らしの中のデザイン"についてのメッセージと多くの知恵を残しています。
たとえば、先人から引継ぎ残されている日本の寸法。
私たちが一番使いやすい箸の長さは、広げた親指と人差し指の幅の1.5倍なんだそう。
ちなみに私は21cm、夫は23cmでした!
著作の中では、人間の身体をモノサシにしてモノの長さを計る身度尺や、
日本の暮らしに根付くモジュールや黄金比についての記述が多く残されています。
「手で考えよ」とは秋岡さんがよく言われた言葉だそうですが、
手が握るものの寸法を決めるという考えから、
"椀の径は両の手にちょうどいい120ミリに"、
"ビール瓶や徳利は大人の片手に合わせて75ミリに"
といった具合に、人間がちょうどいいと感じるサイズを残してくれています。
センター内の工房では、実際に白木が美しい器に変わっていく様子を拝見。
また、じーっと見てしまいました
。
モノが生まれる現場を見ることは、生活者がモノを大事に使いたくなる原点ですね。
私たちの暮らしの周りにモノが生まれる場所があることそれ自体が、
とても大事なことであることを教わりました。
置戸で活躍する19の工房の皆さんによる作品をここで購入することができます。
中には左利き用のヘラもあり、さすがは生活者の視点。
それから北山さんに、隣にある"どま工房"という施設を案内していただきました。
ワークショップや語らいの場として、秋岡さんがデザインして作られた
"土間"のようなコミュニケーションスペースです。
なんと、北山さんから秋岡さん直筆の貴重なノートを見せていただきました。
幾つもある言葉の中に、「"ふだん"を討論しよう」というメッセージを発見!
"良いくらしを探す旅"を目指す私たち無印良品キャラバン隊にとって、
この言葉は特別なものになるような気がします。
中に入ると、秋岡さんが全国から集めた18000点もの手仕事道具や生活用具、
関連資料が保管されています。
企画展やワークショップの場として、今も利用されているとのこと。
秋岡さん愛用の"日本人の体格と暮らしに合う椅子"。
座面が38cmで、3つ合わせると長椅子になります。
椅子の上であぐらをかいてもゆったり。
そのほかにも、先人が暮らしの中で愛用した数々のモノが展示されています。
私たちはこれまで多くの土地を訪ね、
その風土に根付いた暮らしやモノづくりを取材させていただきました。
今回の訪問を通して学んだことは、その"暮らし"と"モノづくり"は
別々ではなく一体として考えなければならないということです。
これは私たちにとって、とても大きな気付きです。
身体性の復権と言われますが、手でモノを作るということを経験できているか否かで、
社会にある諸問題についても捉え方や感じ方が異なるのかもしれません。
この旅で出会った人達に共通する何かを、またひとつ探り当てることが出来ました。
(私たちはこれらを"違うようで同じもの"と呼んでいます)
帰路、北山さんに薦められて町の自慢の図書館に立ち寄りました。
置戸町生涯学習情報センターが正式名称のこの図書館には、
薪ストーブの暖炉風コーナーや、置戸町のクラフトマン達によるインテリアがいっぱい。
ここで一日中、好きな本を読んでいたい。
そう思うのは私達だけでしょうか?
"都会の人こそが羨むような文化"が、確かにこの町にありました。
大鰐温泉もやし
公衆浴場の数が人口比で全国一多い、青森県。
寒い冬には体を温めるため、家のお風呂ではなく、
近所の温泉に毎日のように通うそうです。
私たちが訪れた、南津軽郡にある大鰐(おおわに)温泉郷の公衆浴場にも、
この季節でも、近所の方が次から次へと入っていました。
宿泊した宿のお母さん(推定70代)のお肌がスベスベで驚いたのですが、
きっと温泉のおかげなんでしょうね。
毎日温泉に入れるなんて、なんともうらやましい限りです。
さて、この大鰐温泉を使って、
私たちのよく知る野菜が育てられていると聞いて、現場に行ってきました。
小屋の中に入ると、薄暗い室内に、
長細い溝が数列並んでいるのを目にします。
この溝は何のため? 気になります。
冬の野菜で本格的な生産はまだ始まっていないそうですが、
一部作っているものを見せてもらうことができました。
大鰐町で350年以上も前から栽培されている、
「大鰐温泉もやし」です。
町内に豊富にある温泉を利用して、もやしを栽培すれば、
少ない経費で熱源が手に入れられるほか、
冬期の産業になるため、昔から生産が続けられています。
また、流通の発達により、現代では冬でも豊富な野菜が手に入りますが、
1年の半分近くを雪で覆われる大鰐町では、冬場の野菜確保は困難で、
かつて人々にとってこの温泉もやしが何よりの栄養源だったといいます。
これがそのもやし。
手前のボールペンと比べると、とーっても長いのが分かります。
その長さはおよそ40センチメートル。
味が気になって食べてみると、シャキシャキした食感と歯ごたえが抜群!
もやしをメインに使ったこの丼もの、満足感たっぷりの味でした。
また、このもやしは味がおいしいだけでなく、
カルシウム・リン・鉄分等のミネラルやビタミンが、
普通のもやしより豊富なんだそうです。
もやしは水耕栽培が主流ですが、大鰐温泉もやしの場合は土栽培で、
これは全国でも珍しい栽培方法だとか。
光が直接原料の豆に当たってしまうと、発芽する前に光合成をしてしまうため、
栽培小屋の中を薄暗く保ち、深い溝を掘ってそこに豆を植えます。
植えてから収穫まで1週間、湯温を数段階に分けた温泉だけで育てます。
使うのは温泉と土のみ。
本当に無化学肥料・無農薬の食品なんですね。
こうして聞いていると、いいことづくしの「大鰐温泉もやし」ですが、
もやし=安いものという概念や、その割に大変な生産内容から
生産農家が年々減ってきてしまっていたそう。
そこで、有志の町興し団体が町と連携して、
8年前から後継者の育成を始めました。
今回お話を伺った山崎さんは、最初の後継者に認定された方。
「もともと農家だったんで、冬の間にできるもやしづくりを
やってみたいと思って、応募したんです」
応募の基準は夫婦でできること。
このもやしづくりは、昔から、土の入れ替えなどの力仕事を旦那さんが、
収穫後の洗浄、仕上げを奥さんが担当して進めるのです。
今では山崎さん夫妻のもとで2人の若い男性が修業中です。
男性2人が結婚したら、2組の農家が増えるという見込みのよう。
その土地の恵みを使って、そこに生きる人が
家族で協力しながら作っていく伝統もやし。
大鰐町の人々が守り続けてきた変わらない味がそこにありました。
青森県民のお気に入り
青森市の無印良品青森ラビナ店では、
こんなものが大人気だそうです。
「するめシート」
その名の通り、シートのように薄くて一口サイズのするめ。
噛めば噛むほど、味わい深い一品です。
青森県民はこれをお酒のつまみにしているのかな
と思って聞いてみると、大人だけでなく、
小学生がなけなしのお小遣いで購入していったりもするそう!
なかなかシブイですね!?
他に、上記のように温泉好きな青森県民には
無印良品のお風呂グッズも注目されています☆
青森では出かけた先でいつでも温泉に行けるように、
ほとんどの人がお風呂グッズを車に常備しているんだそう。
店長から聞いたお話によると、
無印良品のお買い物かごの小さいものを
「これ買えますか?」と尋ねられることがけっこうあるんだそうですよ!
旅のお供にも欠かせないお風呂グッズは、
私たちにとっても必需品で、いつもお世話になっています。
そうそう、「移動」をテーマに無印良品を編集した商品群
「MUJI to GO」のキャンペーンも始まってますね!
スゴロクゲームで楽しみながら景品が当たるようなので、皆さんもぜひ♪
仕事は創りだすもの
秋田県南部に、「日本一美しい星空」の村があると聞いて、訪れました。
栗駒山系の山々に抱かれた東成瀬村には、
豊かな森林と水環境に恵まれた生活空間が残っています。
あてもなく、たまたま見付けた宿へ入ると、
陽気なお母さんと、優しいお父さんが迎えてくれました。
残念ながら、夜空は雲に覆われてしまい、
星空を拝むことはできませんでしたが、
代わりにご夫婦に様々なことを教えていただけることに。
実はこの宿、「わらび園」も営んでおり、
家の裏には、広大なわらび畑が広がっていました。
山菜前線を追いかけるように北上している私たち。
もちろん、わらびも一緒に収穫させていただきました。
手で簡単に折れるため、素人の私たちも簡単に収穫でき、
この時期でも、この通り豊作です。
その食感は本当に柔らかく、絶妙の粘り気がありました。
今ではその噂が広まり、観光バスも停まるほどの
有名わらび園となっているようです。
さらに、このわらび園では、雪解けからお盆の時期までのあいだ、
同じ畑から4~5回は収穫できるんだそう。
その美味しさと、発育の良さの秘訣は一体?
お父さんに伺うと、
「この木酢液がええんと思うんじゃ」
と教えてくれました。
木酢液とは、
木炭を生産する際に生じる煙を空冷し、その水滴を採取したもの。
赤褐色の液体で、独特の燻臭があります。
植物の生長促進をはじめ、土壌の消毒・殺菌、防虫、防腐、除草、脱臭など、
様々な効果を持つ木の恵みです。
しかし、現在は限られた炭窯でしか生産されておらず、
大変、貴重なものになっています。
その流通量の少なさから、
一般に農業用に利用するには、費用が高すぎるようです。
ただ、このわらび園で、その心配は無用でした。
冬場に炭づくりを仕事にされており、
自前の木酢液を持ち合わせているため、
それをわらび園にも利用しているというわけです。
裏庭には、炭を焼く窯小屋がありました。
こちらの炭小屋では、白炭を作っており、
その炭は、競馬場の蹄鉄づくりのために納めています。
冬の炭づくりでできた「木酢液」を、春~夏のわらび園で活かし、
収穫したわらびは、一年通じて運営する民宿で提供する。
全てが理に適っており、充実した生活を送っているように見えるご夫妻ですが、
これらは全て、自分たちの代で始められた事業のようです。
元々は農業をされていたようですが、
人と違うことをやらなくては未来は拓けない、と、
与えられた環境を活かし、これらの事業を始められました。
何を始めるにも、初めは周囲から笑われたそうですが、
今では、周りから羨まれるほどだそう。
「仕事は創りだすもの。黙ってても何も始まらんよ。
今の若者にもそう訴えたい」
額に深く刻まれた皺をくしゃくしゃにしながら語るお父さんの言葉には、
とても説得力がありました。
今ある環境を活かしながらも、それに甘んじることなく、
自分の信じた道を貫き、実践する。
ここにも一つ、これからの時代へのヒントが眠っていました。
トキのくらす島
トキが生息する島として知られている「佐渡島」。
離島への訪問は、このキャラバンで初めてのことです。
訪れた6月頭は、ちょうど「カンゾウ」と呼ばれる
佐渡島と飛島(山形)にしか咲かない花の季節で、
北端の大野亀(おおのがめ)では
辺り一面に咲き誇る光景を見ることができました。
寒い冬を乗り越え、初夏を迎えた頃に花を咲かすため、
佐渡ではこの花の開花が、漁を始める合図となっていたそうです。
豊富な海産物を誇る漁業のスタイルも様々。
南部の小木半島では、岩礁と小規模な入り江が多いことから、
安定感と操作性の高い舟として、江戸時代より「たらい舟」が用いられています。
現地では、桶を半分に切って海で使いだしたことから、
「はんぎり」と呼ばれているそう。
漕ぐのにさほど力を必要としないため、
現在でも採貝や採藻のために、女性も海に出ているんです。
実際、佐渡では、
新鮮な魚をはじめワカメや岩のりといった様々な海藻が食卓を彩ります。
新潟県は全国一、海藻などの消費量が多いようです。
そのお味はどれも新鮮そのもので、
口の中いっぱいに海の香りが広がりました。
そんな佐渡の歴史を語るうえで欠かせないのが「佐渡金山」。
かつて国内一の金産出量を誇り、
江戸時代には、徳川幕府の重要な財源となっていたようです。
算出し鍛錬された筋金(すじきん)は、貨幣に鋳造されていました。
この頃、鉱山で働いていた坑夫たちの間で生まれた文化が、
今でも、伝統芸能として色濃く残っています。
その一つが、「鬼太鼓」。
坑夫たちが、タガネ(鉱石を掘り出す道具)を持って
舞ったのが始まりといわれています。
島内では親しみを込めて「おんでこ」と呼ばれ、
お祭りには欠かせない存在です。
私たちが訪れた時も、たまたま一つの町で、
お祭りが行われていました。
厄を払うために鬼の面を付けながら、家々の前で太鼓を乱れ打ち、
年の豊作や大量、家内安全を祈願します。
その、時を切り裂くような太鼓の音色は、
ゆったりとした島の空間に、突如として活気をもたらすようでした。
もう一つ、島民の間で親しまれてきている伝統芸能が「能」。
国内にある能舞台の約3分の1が集中する佐渡は、
日本では他に類を見ないほど能が盛んなお土地柄。
都から能の大成者といわれる世阿弥をはじめとして、
流されてきた貴族や武士によって広まっていったようです。
毎年、初夏には各地の能舞台で薪能が奉納されます。
日も沈み、辺りが薄暗くなってきた頃から、
神社に併設された能舞台に、近隣の人々が集まりだし、
みるみるうちに、会場は人で埋め尽くされました。
佐渡での演目の多くは成仏できない魂を浄化するためのもの。
多くは武士の間で愛好されてきた能でしたが、
武士階級の少なかった佐渡では、人々の趣味として演じられてきました。
演じているのは当然、地元の方々です。
そのほとんどが観賞料が掛からないといいますから、
人々に心から愛され、守られてきているものなのですね。
薪が照らすなか演じられる能は、神秘的でありながら、
出演者の親類や友人が、観客として観に来ている様子は、
とても心温まる光景でした。
こうして佐渡では自然な形で、
島の伝統文化・芸能が脈々と引き継がれています。
文化を引き継ぐというのは、実際に身体で感じとり
触れることが大事なのだと学びました。
刺し子の美しさ
「刺し子(さしこ)」は、手芸のひとつで、
布地に糸で幾何学模様などの図柄を縫いこんでいった、伝統的な刺繍です。
これらの小物はすべて刺し子。
なかでも、岐阜県高山市で出会った、飛騨の刺し子は
糸を玉どめしないため、裏の模様も綺麗に出て、
リバーシブルで楽しめるんだそう。
「刺し子は布を丈夫にするので、何十年も使えるんですよ。
傷んだところは、そこだけまた布を変えて刺していけば直せますしね」
そう教えてくださったのは、職人歴30年の池田さん。
模様を楽しむためのものかと思っていましたが、
昔は質のよい布が簡単に手に入らなかったために、
木綿や麻の布に補強をしたのが始まりなんだとか。
そうすることで、当時貴重品だった布を長く使い続けることができ、
また布を重ねて刺していくので、保温性もあるといいます。
橋がなかったその昔、荷物や人を運ぶ仕事をしていた人の足袋は、
川の中ですべらないように、刺し子が使われたそう。
また、こたつの下掛けとしても使われました。
熱を逃がさず、焦げに耐え、
こたつ布団がすべり落ちるのを防いだそうです。
私たちの身近なところだと、柔道着や剣道着にも
使われているそうですよ。
それから、気になったのが幾何学模様。
これには何かの意味があるのでしょうか?
池田さんに尋ねてみると、面白いお話を聞くことができました!
模様には、各々意味があるそうなのです。
〈麻の葉:あさのは〉
この基本模様は麻の葉をデザインしたもので、
着物や和小物などにもよく使われています。
麻の葉はもともと魔よけの効果があり、
すくすくと真っ直ぐに、さらには強く丈夫に成長する特徴があることから、
親が子に「早く元気に育ってほしい」と
赤ちゃんのための肌着や産着などに用いられました。
〈青海波:せいがいは〉
これは、どこまでも広がる大海原に
いつまでもくり返される穏やかな波のごとく、平穏なくらしが続くように
という願いが込められているといいます。
そういえば、この模様は端午の節句の鯉のぼりにも見ることができますね!
〈七宝:しっぽう〉
こちらは、無限に連鎖する輪が、平和や豊かさと円満を象徴しているそう。
池田さんの言葉を借りると、
刺し子は、"生活の中に存在する美術"だそうです。
取材後にそうTwitterでつぶやくとこんな感想をいただきました。
「刺し子って、長く連れ添う伴侶のようですね」
とてもしっくりくる表現でした。
現代の私たちの周りには、モノがあふれていて
さらにそれが低価格で手に入る環境があり、
ひとつのモノを長く使い続けるより、
ダメになったら新しいモノを買う
そんなサイクルになっているかもしれません。
刺し子は、使っていくほどに風合いが出てきて、
傷んだらまた直して使い続けられる。
まさに生涯の付き合いになる、伴侶のようですね。
エコの語源は、ギリシャ語の家族にあることを思い出しました。
日本の食卓に欠かせない「箸」
日本の食卓になくてはならないモノと言われたら、
「箸」と答えて、まず否定する人はいないでしょう。
そのぐらい、日本人の食生活を支えてきた箸。
世界でも東アジアを中心に約3割の人が箸を使い、
約3割の人がナイフ・フォーク・スプーン、
残りの約4割の人が手を使って食事をしているといわれています。
これは米や麺を食する地域では箸を使い、
肉を食する地域ではナイフ・フォークを使うなど、
地域ごとの食生活に起因しているようです。
思えば、箸を使う東アジアの中でも、
国によって使用している箸に違いがありますよね。
中国では木や竹、プラスチック、高級なものでは象牙を使った、
日本のものよりも長く、先端が丸くとがっていないものが使われています。
中華料理が取り分けるスタイルであることから、
遠くのものでも取りやすいように、長く太めの形になっているようです。
お隣、韓国では金属製のものを使います。
こちらは、王族を初めとした支配階級が、
銀などの金属製の食器を使っていたことの名残だそう。
一方、日本の箸は、漆や合成樹脂を塗った木製の塗り箸が主流で、
先が細くとがっています。
これは、骨のある魚を分けやすくするためなんだとか。
ちなみに、
日本の家庭では個人ごとに箸が使い分けられていることが多いですが、
中国・韓国では、家族みんなで共有し、男女や親子の区別はないようです。
また、日本では箸を横に置きますが、中国・韓国では箸を縦に置く。
そして、汁物を食べるとき、器を手に持って食べるのは日本だけで、
中国・韓国では手で持たずにレンゲやスプーンを使うんです。
こうして見ていくと、同じ箸であっても、
国や文化によって、少しずつ違いがあるんですね。
「日本でも、地域によって好まれる箸は違うんですよ。
手が大きい人が多いといわれる東北では太めの箸、
京都では上品な細めの箸、とかね」
そう教えてくださったのは、若狭塗の伝統工芸師、古川光作さん。
たまたま、小浜市の料理教室で出会った方が、
3代目古川勝彦さんの奥様で、
「是非、工房へ遊びに来てください」
とお誘いいただき、図々しくもお邪魔したわけです。
若狭塗の箸は、国内の塗り箸のシェア約80%以上だそうです。
現在では安価な箸が作れるよう、多くが機械化されているようですが、
この古川さんのところでは、すべての工程が今でも手づくりで行われています。
塗りだけでも工程はなんと15~20工程もある若狭塗。
1つの商品を作るのにおよそ1年の月日を要するといいます。
また、その特徴は、貝殻と卵の殻を砕いたものを装飾に使うことにあるそう。
そして、デザインや長さ、形などの違いは、
若狭塗だけでもなんと3000種類もあるんだとか。
「日本は男性用、女性用、子供用とそれぞれ違いますからね。
これからも箸は日本の食文化に欠かせない存在だと思います」
思えば、日本では「食い初め」に始まり、お葬式の際の「箸渡し」まで、
日本人の一生は箸に始まり、箸に終わると言っても過言ではないほど、
箸と私たちの生活とは深い結びつきがありますよね。
「同じようで違うもの」をまた発見しました。
このわずかな違いが、永く残るといいですね。
「あかり」のある、くらし
先日、世界各地で観測された「スーパームーン」
みなさんはご覧になりましたか?
月が地球に最も接近する時と満月が重なった日、
私たちにとって驚きの出来事が起こりました。
ブログを書くために、偶然入ったカフェでのこと。
旅人が好きそうなカフェだなぁ 。
そう思っていると、そのお店のオーナーから驚きの一言が飛び出しました。
「僕、お2人にインドで会いましたよ!」
なんと!!!
2年前の世界一周の旅の途中に、インドの宿ですれ違った人だったのです。
こうした出会い、再会があるから旅はやめられません。
いつもよりも明るい、月のあかりに照らされながら、
「人と人との出会いは必然なのかもしれない
」
そんなことを感じました。
奇跡的な再会を果たした石川県七尾(ななお)市では、
もうひとつの「あかり」との出会いがありました。
明治25年から、七尾で"和ろうそく"をつくり続けている
「高澤ろうそく」さん。
七尾は信仰心のあつい土地柄であることと、
七尾港が栄えていたために、原料や和ろうそくの運搬が可能であったことから
ろうそく生産が古くから盛んだったそう。
ところで、"和ろうそく"ってどんなものかご存じですか?
もともと仏事での利用がメインの和ろうそくは
もしかするとあまり身近ではないかもしれません。
私たちが普段バースデーケーキの上に使ったり、
アロマキャンドルとして使ったりしているのは、西洋ろうそくです。
ろうそくには"和ろうそく"と"西洋ろうそく"があり、
それぞれ原料が違うんです。
石油を分留して作られるパラフィンロウを主な原料にするのが、西洋ろうそく。
一方の和ろうそくは、ハゼノキの果実からとった植物性のロウを原料にしています。
それから、西洋ろうそくは木綿糸製の灯芯を使うのに対して、
和ろうそくは、棒状にまるめた和紙にイ草を巻き付けた灯芯を使います。
和ろうそくの灯芯は太く、また芯の中心が空洞なので、
和ろうそくが燃えている間も、常に灯芯から酸素が供給され、
最後まで大きな炎で燃え続けるのが特徴なんだとか。
また、油煙(すす)の出が少ないのも良いところだそうです。
この和ろうそくをもっと身近に、
仏事以外にも"あかり"として使ってもらうために、
「高澤ろうそく」では様々なろうそくを展開されています。
5年以上の月日をかけてようやく開発した、モダンなろうそく「ななお」や、
菜種油のロウからできた「菜の花ろうそく」に、
米ぬかを主原料にしている「米のめぐみろうそく」など。
「うちでは、ごはんの時にろうそくを灯すんですよ。
子供が100点とったら、朱色のろうそくを使ったり。
ろうそくのあかりの方が人との距離が縮まるんですよね」
と若女将は話してくれました。
確かに、ろうそくのあかりは心を和ませてくれたり、
人の距離をグッと近づけてくれたりする力があるように感じます。
その昔、親友が失恋をした時に我が家に集まって、
ろうそくを灯して話をしたことがあり、
心が落ち着けたと同時に、私たちの絆もより深まったことを思い出しました。
花嫁のれん
さて、この高澤ろうそくの店内を見ていると、女将さんが一言。
「今、花嫁のれん展もやっているから、見てってくださいね」
え? 花嫁のれんって何ですか??
加賀・能登の庶民生活の風習の中に生まれた独自ののれんで、
幕末から明治時代初期より、花嫁が嫁入りの時に「花嫁のれん」を持参し、
花婿の家の仏間の入り口に掛け、花嫁がのれんをくぐって、
ご先祖様の仏前に挨拶をしてから結婚式が始まったんだそう。
今の60代くらいの世代まで、この風習は残っていたそうなのですが、
一生に1回しか使う機会のなかったこののれんは、
各家庭でたんすの肥やしになっていたといいます。
そこで、町興しの一環として、花嫁のれんを商店街の店舗内に飾ろう
と発案したのが、高澤ろうそくの女将さんをはじめとした、女将会だったのです。
今年で9回目となった花嫁のれん展ですが、
七尾市の一本杉通り商店街の各店舗に、
合計100枚以上ののれんが展示されていました。
(※花嫁のれん展は4/29〜5/13で終了)
「こんにちは〜!のれん見せてください」
「ようこそ! ゆっくり見て行ってくださいね。
よかったらお茶も飲んでってください」
私たちが店内にいる間に、何度となくこのような会話を耳にしました。
1枚ののれんを通して生まれるコミュニケーション、素敵です。
また、のれん展を通じて、自分の両親や祖父母、親族などの
結婚当初の話などに花が咲くそう。
そういえば、祖父母の馴れ初めって聞いたことがないような
。
自分の先祖やルーツを知ることは、自分自身を知るためにも
必要なことかもしれないなと感じました。
バタバタ茶
各地を旅していると、ご当地食材に出会いますが、
なかでも、必ず各地で見かけるのが「お茶」。
千葉では「びわ茶」、茨城で「そば茶」、
栃木で「はと麦茶」、群馬では「桑茶」というように。
ふと考えてみると、お茶は日本国内だけならず、
世界中で様々に飲まれていますね。
私たちが以前世界を回った時には、中国はもちろんのこと、
イギリスのイングリッシュティーをはじめ、
インドのチャイ(ミルクティー)、トルコのアップルティー、
チベットではバター茶なんていうのもありました。
現地では、(特にインドやトルコでは)お茶そのものを楽しむというよりも、
お茶を飲む時間を使って、コミュニケーションを楽しんでいるという印象で、
朝から夜まで、至る所でお茶をしている人々をよく見かけました。
さて、新潟県との県境に程近い、富山県朝日町蛭谷(びるだん)の集落には
今でも独自のお茶文化が残っていると聞いて、行ってきました。
向かった先は「バタバタ茶伝承館」。
公民館のようなその施設の扉を開くと、
「いらっしゃい〜」とおばさまたち。
ちょうどお休みの日で、近くに住むお孫さんたちも遊びに来ていました。
「まぁ、飲んでいってちょうだいよ」
と、グツグツと煮え立つお鍋の中から器にお茶を注ぎ、
慣れた手つきでお茶を点て始めます。
カタカタカタ
2本連なった珍しい茶せん(夫婦茶せん)を使って
左右にお茶を泡立てて飲む。
そう、これこそが蛭谷で飲まれている「バタバタ茶」です。
バタバタというより、カタカタ音がするから、
カタカタ茶の方が合っているかも?
そんなことを思っていると、このバタバタとはお茶を点てる音ではなく、
あわただしくバタバタと茶せんを左右に振る動作を指している
と教えてくれました。
この地域では、ご先祖様の命日や、その他結婚式や入学式などの行事の際に
お茶会を開くんだそうです。
もともとは浄土真宗の儀式のひとつで、
自分たちがお茶をいただく前に、まずは仏様に供えるんだとか。
また、2009年からはこの伝承館において、
近所のおばさま方が交代制で番を務め、近所の人をはじめ、
私たちのような訪問者を温かく迎え入れ、お茶会を開いているのです。
お茶会と聞くと、なんだか難しい礼儀作法とかいろいろとありそう
。
そう伝えると、バタバタ茶においては、決まり事はほとんどなく、
自由に、何杯でもお茶を飲んでいいといいます。
早速、私たちもバタバタ茶を点ててみました!
手首の力を抜いて、左右にカタカタ、カタカタ。
徐々に泡立っていくのが面白い!
こうして、泡を立てることでマイルドな味になるんだそうですよ。
ちなみに、小学校低学年のお孫さんも上手にお茶を点てていて驚くと、
以前までこの地域にあった幼稚園では、
子供たちにもバタバタ茶の文化を伝承していたそう。
そんなバタバタ茶の原料は、「朝日黒茶」というもの。
お茶は製造方法によって基本的に、
不発酵茶・半発酵茶・発酵茶・後発酵茶の4つに大きく分けられるといいます。
それぞれ代表的なものに、不発酵茶は「緑茶」、
半発酵茶は「ウーロン茶」、発酵茶は「紅茶」があり、
「黒茶」は後発酵茶に該当します。
紅茶・ウーロン茶が茶の葉に含まれる酵素の働きで発酵して作られるのに対し、
黒茶は酵素の働きをいったん止めた後、こうじ菌の働きで発酵させるのだそう。
また出てきましたね、"発酵"に"こうじ菌"というキーワード。
これまでも、お醤油や日本酒、納豆づくりに欠かせないものとして
登場してきましたが、お茶にまでこれらがかかわっているとは!
バタバタ茶のお茶請けには、地元で採れた山菜や野菜の煮付け、
漬け物などがつくのが一般的。
お茶請けというと、和菓子のイメージを持ってしまっていましたが、
そういえば、これも各地で違うかもしれませんね。
茨城や栃木では、お茶と一緒に"おせんべい"が出てくることが多かった気がします。
月・水・金・土の10:00~15:00に開館している伝承館は、
その名の通り、バタバタ茶の文化を後世に伝承していく場でもあり、
地元の人の大切なコミュニケーションの場でもあります。
知らない人が来たからといって、嫌な顔をせず笑顔で迎え入れてくれる。
そして、お茶を飲みながら世間話をして、ゆっくりと時間が過ぎていく。
なんだか、海外を旅した時に味わったような感覚を思い出しました。
水と共に生きる
水を飲みたい時には水道の蛇口をひねる。
そんな生活が当たり前の私たちにとって、
富山県黒部市生地(いくじ)の人たちの生活は驚きでした。
この地区では、飲み水は汲みに行くものなんです。
かつて暴れ川と称された黒部川の扇状地に位置するこの地区は、
昔から、洪水などに見舞われながらも、
こんこんと湧き出る清らかな水を、生活に利用してきました。
黒部ダムの建設によって、黒部川の氾濫は抑えられるようになりましたが、
今でもその大量の伏流水が湧き出ており、町の至る所に水場が存在しているんです。
この湧水は「清水(しょうず)」と呼ばれ、
今でも飲み水、炊事用などに利用されており、
タンクに水を汲みに遠方からも人が来るほどです。
生地にはこうした水場が11ヵ所も残っており、
「共同洗い場」と呼ばれ、一昔前まではここで野菜を洗ったり、洗濯をしたりと、
地域の人たちのコミュニケーションの場ともなっていたんだそう。
今でも、こうした洗い場は、地域ごとに地元の方々によって管理され、
みんな自分のところの水が一番!と信じて疑わないため、
町のボランティアガイドは、どこの水が美味しいとは、案内できないそうですよ。
実際に、その内の一つで水を口にすると、
水温が低い軟水で、とっても爽やか!
しかも、これが水場によって、汲み上げている深さが違うようで、
100mのところと70mのところで、また味が変わるんです。
多くの家庭にも湧水が出るようで、
町の酒蔵は清酒に合う水を利用したり、
住人はご飯を炊くのに適した水を利用したりと、
用途ごとに水を使い分けているんだとか。
なんと贅沢な水の遣い方でしょう。
水場の近くでは、おばあちゃんたちが井戸端会議をしていました。
話しかけてみると、とても元気で肌艶もこの通り。
「これも清水のおかげだよ」
と、笑顔で答えてくれました。
翌日、この清水の源流を見てみたくなり、
黒部峡谷、立山へと足を運んでみました。
その渓谷は険しく、流れ込む雪解け水は確かに豊富。
そして、その源が、
この立山をはじめとした北アルプスに降り積もった雪です。
GW時で、この積雪量(17m)ですから、
真冬時の豪雪ぶりは相当なものでしょう。
そりゃ、この雪解け水が流れ込めば、川も氾濫するわけです。
豪雪と、黒部川の氾濫に見舞われ続けたこの地のくらしは、
その環境を受け入れ、共存しているものでした。
その地で生活する人たちは、
水の脅威とありがたみを誰よりも知っている気がしました。
里山のくらし
つくばエクスプレスの開通によって、
秋葉原から45分で県南のつくば市には着けてしまう茨城県。
農業産出額は北海道に次ぐ日本第2位を誇り、
豊かな自然が残るこの地では、様々なライフスタイルを知ることができました。
まずは、セカンドライフの地として、
筑波山麓の石岡市八郷地区へ移住されてきた、
「cottage wood castle」のオーナー永田さん。
1000坪の敷地にオーダーメイドの輸入住宅を建て、
今はそれをコテージとして貸し出していらっしゃいます。
吹き抜けの木の家は、雰囲気から温かみがあり素敵です。
寒い季節には、裏山から雑木を拾ってきて、暖炉に薪をくべれば、
家全体が温まる仕組み。
火で暖をとると、なぜか心まで和らぎます。
裏の竹林へ行くと、
春の息吹を見付けることができました。
その正体は
筍です!
さらにこちらは、シメたばかりの新鮮な軍鶏肉。
これらをさばいて、調理します。
筍は生で刺身とホイル焼き、それからすき焼きにも加え、
軍鶏は、すき焼きとグリルで頂きました。
どれも自然の恵みそのままの味で絶品!
都会ではなかなか味わうことのできない、贅沢すぎる味でした。
「僕も以前は都会ぐらしだったんです。
でも、密集した住宅事情のなか、隣人を気にしながらの生活から脱却し、
もっと人間らしく生きたいと思うようになりましてね。
満天の星空の下、自然の恵みの食材を食べる生活は豊かですよ」
永田さんは、薪をくべながらそう言いました。
新鮮な烏骨鶏の生卵と、八郷地区の納豆を朝ごはんに頂いた時には、
この味を毎日味わえる地元の人を、心底うらやましく思いました。
「都会じゃこんなに新鮮なモノは滅多に食べられない。
さらに空気まで美味しいのは、田舎の特権です」
都会のくらししか経験したことのない私たちでしたが、
永田さんの言葉によって、豊かさとは何だろうと考えさせられました。
確かに都会は便利かもしれませんが、
自然や自然の恵みを味わえることは多くありません。
豊かさの基準は人それぞれでしょうが、
私たちにとっては、こうした里山ぐらしの価値を感じるきっかけになりました。
「安いから、効率が良いから、ブランド名があるからという基準で選ぶのではなく、
自分や環境にとって、良いか否かを判断基準に生活する。
いわゆるLOHASな生活を追求した結果、ここに辿り着いたんです。
ただ、生涯ここで生活するつもりじゃない。そこは気楽に考えていいと思っています」
自らの道を自らで選んでいる永田さんは、
人生そのものを楽しんでいるように見えました。
豊かなくらしとは?
茨城県北部では、常陸大宮市で「響」という名の農家民泊を営む、
堀江さんご夫妻にお世話になりました。
こちらの農園では、あらゆる野菜を栽培なさっていて、
もぎたてのネギから、
アスパラガスまで
新鮮な採れたて野菜を頂きました。
やっぱり自然の恵みは味わい深いです。
また、驚きだったのが、お風呂です。
木の家らしい、木でできたお風呂だったのですが、
なんとその沸かし方は
薪をくべる形の五右衛門風呂だったのです。
「薪は炭となって、温度が長持ちするから、次の日の朝までお湯は温かいよ」
事実、次の日の朝までお風呂の湯は温かいままでした。
これも、自然エネルギーを使った、生活の知恵ですね。
さらに驚いたのが、お風呂場が木造だと、壁に結露しないこと。
木が呼吸してくれるため、湿気は吸い込まれ、
乾燥してる時は、逆に湿気を吐き出してくれるんだそう。
木の家の力を目の当たりにしました。
堀江さんになぜこの民泊を始められたのかを尋ねてみると、
「都会の人に、豊かさとは何なのかを知ってもらいたい」
という答えが返ってきました。
確かに、このような自然の恵みに囲まれたくらしを体験してみると、
豊かさとは何なのか
と考えさせられます。
銚子のくらし
千葉県銚子市にある犬吠埼。
ここは関東最東端に位置し、山頂・離島を除くと
日本で一番早く初日の出を見ることができる場所だそうです。
初日の出ではありませんが、私たちも早起きして朝日を拝んで参りました。
夏には海水浴場として賑わう浜辺ですが、普段は地元の人のお散歩コースのようですね。
そんな銚子でお話を伺ったのは、漁港の近くで40年民宿を営む田原さん。
毎晩、新鮮な魚を中心とした豪華な食事が並びますが、
「魚はほとんどお客さんが持ってきてくれるんですよ」と田原さん。
全国屈指の銚子漁港の近くとあって、漁師のお客様が多く、
今も銚子漁港からロシアへ鮭を穫りに行く漁師さんが長期滞在中だそうです。
また、魚以外の卵や野菜も自宅の畑で穫れたものを使っています。
畑を案内してもらい、恥ずかしながら、アスパラガスが
このように育つのを初めて知りました。
昔からこの辺りには八百屋さんがなく、野菜は畑で穫れるものか、
もしくは近所で交換し合うのだとか。
「お米は買っているんですか?」と尋ねると、
「お米は青森から送ってもらうんだよ」という答えが返ってきました。
なんでも2年前に沖縄旅行に行った時に、青森出身の人と仲良くなり、
田原さんは魚を送り、青森からはりんごやお米が届くようになったのだそう。
物々交換に距離は関係ないのですね!
最後に田原さんに"くらしの知恵"と"大切なもの"を伺いました。
「自分の要望を普段から何でも口に出すことでしょうか。
そうすると、不思議なことに何でもそろってしまうのよ」
飼っている鶏や七面鳥もお客様からの貰いものというから驚きです。
「大切なのは、やっぱり"友人"かな。友達がいたらお互い助け合えるからね」
田原さんが周囲からよくしてもらえるのは、
田原さんご自身が普段から周りに働きかけているからなんだと感じました。
自分たちが周りに与えられるもの、それが何なのか自問自答していこうと思います。
鴨川のくらし
千葉県鴨川市は千葉の南東部に位置し、東京都心部からアクアラインを利用すると
2時間もかからずに来られてしまう場所です。
そんな鴨川には、東京から一番近い棚田があります。
「大山千枚田」
面積約4ヘクタールの急傾斜地に、階段のように連なる大小375枚の田んぼは
日本で唯一雨水のみで耕作を行っている天水田だそう。
また、平野の田んぼと違って耕地整理が遅れたことが、
逆にこの美しい棚田を現代に残すことになったのだといいます。
そんな大山千枚田の近くに、農家体験をできる場所があると聞いて行ってきました。
家の裏には広大な畑や山が広がっていて、お米に野菜、果物など何でも作っています。
贅沢なお庭を案内してもらいながら、今回はしいたけの栽培を体験させてもらいました!
ドリルで穴をあけた原木に、キノコの菌を植え付けていきます。
キノコ菌は銃弾のような形をした木片についていて、
穴に差し込みやすいようになっていました。
穴に入れると、今度はひとつひとつの木片をトンカチで植え付けていきます。
そうして、風通し、雨透しのよい場所に置いておくと
見覚えのあるしいたけが生えてくるのです。
1年前の同じ時期に植えたしいたけを収穫することもできました。
さて、お世話になった農家民泊五郎兵ヱのオーナーは、笑いの絶えない柴崎さんご夫妻。
もともと共働きをしてバラバラの生活をしていたお2人が、
定年後何か一緒にできる仕事をしたいと、3年前にこちらの民泊を始めたそうです。
ちなみに民泊とは、民宿などの宿泊施設とは違い、
ありのままの民家に泊まるスタイルのものです。
同じ食卓を囲み、同じお風呂に入り、
なんだか田舎のおばあちゃん家に来たような気分になります。
1年前にここを訪れ、すっかり虜になって別宅を借りて住み込み、
横浜の自宅と行き来する方にもお会いしました。
そんな五郎兵ヱさんの家ではたくさんの"くらしの知恵"を垣間見ることができました。
これは冷凍みかんならぬ、冷凍柿。
もぎたての柿をそのまんま凍らせておくことで、
いつでも新鮮なかきを味わうことができるそうです。
一方のこちらは、干し柿ならぬ、干しかぼちゃ。
収穫したかぼちゃを乾燥させることで、半年ほど持つんだとか。
それから、家の中のあちこちで見かけたこのかわいいタオル☆
かけてあるタオルが左右に動いてしまうことがなく、拭きやすいのです!
また、お風呂に入ると・・・
お庭で穫れたレモンがお風呂にたくさん浮いていました♪
このレモン風呂に毎日入っているお母さんは、ほとんど化粧水を使う必要がないんだとか。
短い期間でしたが、別れ難い出会いとなった柴崎さんご夫妻に"大切なもの"を伺うと、
「やっぱりコイツかな」とお母さんの肩をたたくお父さんに、
「友達のようなお父さん!」と答えてくれたお母さん。
「ケンカをして嫌なことがあった時は、よそのおとっちゃんと思うのよ」
くらしの知恵のみならず、夫婦円満の秘訣も教えてくれました。
また、キャラバン隊が全国を旅していく話を伝えると、
「私たちも明日はお米の配達がてら、ドライブすることにしたよ。
2人で車の中で将来の話をしてくるよ。
若い人たちからパワーをもらったから、私たちも頑張らないとね!」と。
自分たちの知らない世界に興味を持ち、フットワーク軽く活動しているのが
柴崎ご夫妻の元気の源なんだろうなぁと感じました。
美しい自然に、大地の恵みの農産物、そして、最愛の伴侶。
幸せな2人の生活には、それ以外のものは必要なさそうです。