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寄磯の味をよりいっそうおいしく
「よかったら食べてみてください」
お会いして早々、出していただいたワカメを口にすると、
そのシャキシャキとした食感に驚かされました。
「噛みごたえのある食感!おいしいですね!」
思わず感嘆の声を上げてしまいましたが、それもそのはず。
「市場の多くのワカメは、増量のために塩と水を入れて出荷されているんですよ。
だからどうしても、ふやけてしまっている」
マルキ遠藤商店の代表で、漁師の遠藤仁志さんが、
日焼けした笑顔で、そう教えてくれました。
遠藤さんの手掛けるワカメは伝統のしぼり製法。
できるだけワカメの色合い、食感、味わいを保つために
適量の水と塩をまぶす、実直なワカメづくりをされています。
三陸海岸の南端に位置する牡鹿(おしか)半島、
その東岸に位置する寄磯(よりいそ)浜に、マルキ遠藤商店はあります。
「この辺りは、陸の孤島なんて呼ばれているんですよ。
石巻で知らない人もいるぐらいですから」
遠藤仁志さんの奥様で、マルキ遠藤商店の総務統括部長の
遠藤由紀さんは、寄磯生まれの寄磯育ち。
仁志さんは、婿養子で迎えられた3代目。
黒潮と親潮がぶつかり、海流の激しい三陸は、
海藻類全般をはじめ、アワビやウニ、ホタテなど貝類の産地としても有名です。
なかでも三陸の名物としても知られているホヤは、
キムチにもよく合うことから、お隣韓国にも多く輸出されていたそうです。
「水が冷たくて波が荒いから、海藻も貝も必死に生きようとする。
それで身が引き締まるじゃないでしょうか」
仁志さんは、おいしさの秘訣をそう語ります。
しかし、そんな漁が復活できたのも、
ホタテは昨年、ホヤは今年の話。
「ここにも大きな津波が来ましてね。
今ここにいられるのも、ご先祖様が救ってくださったからだと思っています」
仁志さんと由紀さんは、壮絶な3.11の日のことを
ゆっくりと話し始めてくれました。
ヒジキの作業日だったその日。
たまたま従業員の一人が、
お彼岸が近いのでお墓の掃除をしたい、と言い出したことをきっかけに、
いつもより早めに作業を解散した後、東日本大震災が寄磯を襲いました。
大きな揺れから間もなくして、
「津波が来る」というアナウンスが入ります。
「早く避難しないと!」
急かす由紀さんに対し、
大切な資料などを避難させなくてはと、事務所内の整理を始めた仁志さん。
かつて襲った三陸地震の時の津波は20㎝ほどだったという記憶が
仁志さんの頭をよぎったそうなのです。
たまたま工場に居合わせた息子の身を守るため、
由紀さんは、先に息子を連れて小学校に避難します。
そして、その間に津波は工場を襲いました。
仁志さんは飲まれ、流されていきました。
津波に一面飲まれていく様子を、避難所から見ていた由紀さんは、
仁志さんの最悪の事態も覚悟したといいます。
「その時に、たまたま流れてきた船に乗っかることができたんです。
波が落ち着いた後、なんとか陸まで泳ぎ切りました」
そう話す仁志さんはその後、なんとか避難所までたどり着き、
由紀さんたちと奇跡の再会を果たしたといいます。
早めに解散していた工場の従業員も全員、無事でした。
以来、「神様に助けられた命、寄磯のために尽くそう」
と、決意された遠藤さんご家族。
仁志さんは、寄磯の復興の窓口として精力的に活動し、
震災から1年後には、新工場で操業の再開を実現します。
石巻でも1、2を争うほど、早い復興だったそうです。
同じ場所での工場の再建にためらいはなかったのかと聞くと、
「ここは自分たちの土地。
海のモノを扱うのに、海のそばにいるのは当たり前」
と、まったく迷いはなかったと話してくれました。
そんな父親の後ろ姿に、娘さんも心動かされます。
「ちまたでは漁業に興味を持っている人は皆無でした。
自分が関わることで、なんとか後につないでいければと思ったんです」
そう話す次女の遠藤裕子さんは、
震災時に通っていた一般大学を卒業後、美大への進学を決めました。
「デザインの力で、商品の魅力のみならず、
食べ方や地域の魅力まで発信していきたかったんです。
親が被災しているのに美大に進学したいって、
頭おかしくなったのか!って言われましたけどね(笑)」
裕子さんは、美大内でプロジェクトチームを発足し、
寄磯の海産物を使った、商品開発に乗り出します。
必要経費は、みやぎ産業振興機構が公募する
「宮城・仙台富県チャレンジ応援基金事業」から助成金を獲得。
現地に通うなかで、
チームメンバーからも寄磯の香りに感嘆の声が聞かれたことに、
裕子さんや地元は自信を深めていったといいます。
「それまで自分の地域の仕事や商品に、
自信を持っていない人が多かったんですよね。
漁師や水産業のイメージを変えていきたい」
こうして裕子さんたちによって生み出された、新しい商品がこちら。
寄磯を代表する5つの海藻が味わえる商品です。
光で中身が傷まないよう、箱で包まれ、
都会生活者でも気軽に食べられるよう、
2人前の分量で梱包されました。
その土地での食べ方をまとめたレシピも同梱。
パッケージには、
「寄磯をよりいっそうおいしく」
とシャレの利いたコピーも添えられました。
「少量でパッケージしていく方が、大変なんですけどね。
娘の想いに応えるために、がんばっています」
遠藤ご夫妻は、これまた娘さんがデザインされたロゴマークを手に、
満面の笑みで、そう話してくれました。
震災をきっかけに、それぞれが役割を果たしながら
動き始めた、マルキ遠藤商店。
寄磯の味が、よりいっそうおいしく感じられたのも、
彼らの想いが深まった証なのかもしれません。
[関連サイト]マルキ遠藤商店「YORIISO」リンク
よりいっそうおいしく YORIISO
OCICA
三陸海岸の最南端に位置する、宮城県石巻市・牡鹿半島(おしかはんとう)。
リアス式海岸に囲まれた半島全域が山地で、
その名の通り、鹿が多く生息しています。
「神聖な動物として崇められている金華山の鹿が、
泳いで牡鹿半島に渡ってきたといわれているのよ」
牡鹿半島の西岸、牧浜に住む阿部たい子さんが、
包み込むような笑顔で、私たちを迎えてくれました。
「牡の鹿にだけ生える角は、1年に1回生え変わるの。
そんな鹿の角は、昔から水難・海難のお守りだったんです」
阿部さんはそう話しながら、
輪切りにされた鹿の角を、入念に磨き始めました。
阿部さんが作っているのは、
「OCICA」と呼ばれるアクセサリー。
鹿の角をドリームキャッチャーに見立て、
良い夢を運んでくれるよう、復興への祈りが込められています。
「牡鹿半島」という名前を象徴するようなモノづくりが始まったのは、
2011年の東日本大震災がきっかけでした。
太平洋に面した東岸の、ホタテやホヤ漁などに対して、
石巻湾に面した西岸は、昔からカキの養殖業が盛んな地域。
しかし、震災の影響で漁はストップ。
養殖施設も加工施設も津波で壊滅し、再建の目処も立たないなか、
行く末が見えず、途方に暮れていた人も少なくなかったといいます。
そんな折、漁を支えてきた働き者のお母さんたちに、
少しでも仕事を創出したいという想いから立ち上がったのが、
「OCICAプロジェクト」でした。
ここにしかないモノを用いて、お母さんたちが手掛けられるもの、
ということで、最初に作ったのは「鹿の角のストラップ」。
「ただ、初めはどうしても"手作り品"の域から抜け出せなかった」
と、OCICAをプロデュースする一般社団法人つむぎやの
現地コーディネーター斉藤里菜さんは、当時を振り返ります。
「復興のためのモノづくりではなく、
本当に市場で受け入れられるものなのかが大切だと思っています。
そのためにイベント等で展示販売して、お客さんの反応を見ていきました」
そんななか出会ったのが、横浜のデザイン事務所「NOSIGNER」。
社会的意義を踏まえたデザイン活動を続ける彼らによって、
鹿の角に、細くて丈夫な漁網の補修糸を用いたアクセサリーが考案されたのです。
鹿角と漁網は、牡鹿半島では身近な素材。
できるだけシンプルな制作工程も、年齢幅の広い浜の女性たちに配慮されたものでした。
こうして生み出されたOCICAは、
1年間で2000個以上も販売されるほどの人気商品に。
漁網とは思えない鮮やかなカラーが、
耳元や胸元を華やかに彩ります。
最初からこのプロジェクトに参加していた阿部さんは、
「身近にある素材で素敵なものができてとてもうれしい」
と話します。
「糸ノコなんかも初めはうまくできなくてね。最初の頃できなかったことも、
だんだんとできるようになっていくのが楽しいです」
こうして牧浜のお母さんたち一人ひとりが、
使い手に「幸せになってほしい」と想いを込めながら、
作り上げられていくOCICA。
商品は一つひとつ、作り手さんの屋号の印が押され、
売れた分の一部がお母さんたちの収入に直接つながっています。
これも、カキ養殖の時に浮き輪に屋号を付けることから、
活かされた知恵でした。
「これを主な生業として暮らすのを目指しているのではなく、
公民館に集まってのOCICAの作業日の後、決まって催される、
お茶っこ(お茶会)が楽しいから続けてるのよね」
と話す阿部さん。
実際に、隣の浜の人とも仲良くなって、
道で会ったら挨拶したり、お茶を飲むようにもなったそうです。
OCICAは単なるモノづくりのみならず、
コミュニティを再興することにもつながっていました。
「多いときには12~13人ほどいた作り手さんも、
カキ養殖が再開した今は、4~5人になりました。
これも復興している証だから、寂しくはありませんよ」
震災前、カキ養殖が主要産業だった土地に、
地元の資源を使った新たな生業を生み出したOCICAプロジェクト。
震災というきっかけですが、
他の土地においても参考になる事例が、
東北では次々と生まれているように感じました。
石巻工房
「電気もガスも水道も止まって、何もなくなったとき、
生き延びていくために、どのように行動しますか?」
そう問いかけるのは、石巻工房の千葉隆博(ちばたかひろ)工房長です。
「ある居酒屋は、店主自らが店を直して、いち早く営業を再開していたんです。
結局、DIYできた人が一番、復興が早かったんですよね」
東日本大震災によって、未曽有の被害を受けた石巻市。
石巻工房は、そんな石巻市の商店街で、
東京のデザイナーを中心とした有志から提供された補修道具や木材を基に、
復旧・復興のための誰もが自由に使える公共的な施設としてスタートしました。
「当時、"待ち得"って言葉がありましてね。
待っていれば色々もらえるので、被災者は待ちの姿勢になっていたんです。
ただ、そうなると人間ダメになっていくんですよ」
そう当時の様子を振り返りながら、
いつまでも支援に頼りきりの状況に、危惧を覚えていたと話す千葉さん。
そんななか、当初から支援に入ってくれていたアメリカの家具メーカー、
ハーマン・ミラー社による支援の姿勢に、ヒントを得たといいます。
「魚を与えるんじゃなく、釣り方を教える」
その姿勢こそが自立を促す、と考えた石巻工房では、
当時、外でビールケースに座って話していた仮設住宅で、
ベンチづくりのワークショップを催します。
材は、レッドシダー協会より提供してもらった、カナダ産のレッドシダー材。
よくウッドデッキなどに用いられる木材です。
「レッドシダーは、耐久性が高く腐りにくい。
被災直後の現場では、外で使うケースが多く、
必然的に強度と耐久性のある材が求められたんです」
こうして、地元の人たちと需要や技法を検証しながら
生み出された数々の製品。
これらが、現在の石巻工房の製品のベースとなりました。
コンセプトは「スモール・アウトドア」、
シンプルで簡単ながら、頑丈で機能的なデザインです。
「外でも使い倒せる家具は、意外とありそうでなかった」
と千葉さんが話すように、
石巻工房の家具はコンパクトで、簡単に運べるように軽い。
仮設住宅では、自分たちで作ったベンチに座りながら、
街の未来を思い思いに語り合ったそうです。
また、「"考えるスキを残しておくモノづくり"も大切」と
千葉さんは語ります。
「すぐ使えるものばかりだと、ユーザーは何も考えなくなってしまう。
石巻に自衛隊が到着したのは震災から4日後でした。
自ら考えて行動しないと、サバイバルできないんです」
石巻工房で用いている木材が無垢なのも、
自分で塗装するもよし、傷ついたら削るもよしという意味からでした。
石巻工房のロゴマークが、途中で囲いが切れているのも、
そんな想いを象徴しているかのようです。
「これまで石巻は他の地方都市同様に、閉塞感に包まれた場所だったんです。
これからの石巻は開かれた場所でありたい。
そんなメッセージも込め、右上の枠に穴を開けています」
実際、石巻工房には、県内外からの雇用を受け入れ、
常時5人のスタッフが働いています。
最近、引っ越したばかりという工房は、以前の5倍の広さになり、
今後も「市民のDIY工房」としての機能を持ちつつ、
石巻に来たら、必ず立ち寄りたくなる場所にしたいと話します。
「被災地に来てもらったとき、(被災者のために)何かしてあげようというのではなく、
もし自分自身が被災したらどうするかをシミュレーションしてもらえる。
そんな場所として、石巻工房は機能していけたらと思っています」
自らの経験と教訓から生まれた石巻工房。
地元の人の自立のための工房としてはもとより、
地域を活性化する起爆剤として、歩み始めています。
FUNADE~結日丸~
石巻市街の中心に、一際目をひく一軒のお店があります。
「FUNADE studio」という名のそのお店に一歩足を踏み入れると、
そこには眩いばかりの世界が広がっていました。
「FUNADE studio」は、仲間から"テツ兄"と慕われる、
田中鉄太郎さんが手掛けるオリジナルブランドのお店。
京都で日本をテーマにした、グラフィックデザインの服づくりをしていた田中さんは、
震災後、居ても立ってもいられずに、石巻にボランティアに来ました。
瓦礫の処理が終わった頃、自然とものづくりを活かした支援をしたい
と思うようになったといいます。
「復興に甘えずに、ずっと続けていくためには、
この地にあるものを活かさないといけないと思って」
そう話す田中さんが素材を探すなかで出会ったのが、1枚の布でした。
泥まみれになりながらも存在感を放っていたのは、
色とりどりに美しく染め上げられた「大漁旗(たいりょうばた)」だったのです。
大漁旗とは、漁に出た漁船が大漁で帰港する際に船上に掲げる旗のこと。
また、新しい船の進水式で、ゆかりのある人たちから豊漁と海上安全を祈って
船主に贈られる「祝い旗」でもあります。
かつては大漁旗を揚げる様子をよく見ることができたそうですが、
昨今では進水式以外にはあまり使われず、
それでも捨てることはできずにしまっておく人が多いとか。
大漁旗を求めて沿岸部を走った田中さんは、
2日間で約300枚の大漁旗を漁師さんたちから譲り受けました。
「その時点でこっちに居続けることが決定しましたよね。
2011年の9月後半には京都の家を引き払って、
正式に石巻でものづくりを始めました」
大漁旗という伝統ある素材をいかに日常に取り入れるか。
田中さんは試行錯誤をくり返しながら、
大漁旗を使ったオリジナルブランド「FUNADE~結日丸~」を立ち上げました。
そして、自分だけでものづくりを進めるのではなく、
知り合った浜のお母さんたちに作業をお願いしながら、一緒に作り上げています。
「働くことは経済的にも精神的にも自立につながる大切なことです。
浜のお母さんたちはいつも手を動かしていて、
台風なんかで働けないことが耐えられない。
仕事をお願いすることで、お母さんたちは生き生きしています」
生地そのものに存在感がある大漁旗。
2つとして同じものがない貴重な素材を余すことなく使いたいと、
田中さんたちはこんな商品も企画していました。
布を裂いてブレスレットの材料を作る際に出る、
残糸を使ったピアスです。
「大漁旗は東北に限らず、日本全国にあるもの。
今後もこの伝統ある大漁旗という素材を
カタチを変えて色々なモノにしていきたいですね」
一時的な支援のためのものづくりではなく、
初めから未来を見据えてきた、田中さんのものづくり。
その地にある素材を活かして、
現代のくらしのなかに取り入れやすいプロダクトに変換するというプロセスは、
どこの土地においても参考になるものづくりではないでしょうか。
そのブランド名の通り、
田中船長が舵をとる「FUNADE~結日丸~」が、
石巻から全国と出帆していました。
石巻で働く
東日本大震災から3年と4ヵ月が過ぎました。
ほぼ全域が津波に襲われた石巻市は、
3000名以上の死者を出し、現在も400名以上の行方不明者がいる
という大きな被害を受けました。
仙台駅からおよそ55km、車で1~1.5時間で行けるという立地のため、
震災当時から数多くのボランティアの拠点となっていた石巻には、
今もなお、そこを拠点に活動する人たちがいます。
震災から3ヵ月後の2011年6月に個人ボランティアで石巻に入った
ヤフー株式会社の長谷川琢也さんは、
その年の夏頃から会社を巻き込んで復興に取り組んでいます。
2011年12月には、東北の産品を扱う「復興デパートメント」を開設し、
2012年7月末からは石巻市街地に、
復興支援の拠点となる現地事務所「ヤフー石巻復興ベース」を河北新報社と共同で設置。
"ITを駆使して地元の人と一緒に新しい石巻を創る"というコンセプトの下、
ボランティアではなくビジネスとしての支援活動を続けています。
そんな彼らが去年から手掛けている「ツール・ド・東北」(河北新報社と共催)は、
復興支援と震災の記憶を風化させないことを目的として、
「被災地にいかに人に来てもらうか」
「被災地の現状や東北の魅力を知ってもらうか」をテーマに、
10年間継続して開催するプロジェクト。
インターネット関係ではないけれど、
できることを模索しているなかで生まれたものです。
昨年度は約1300名が参加し、宮城・三陸を駆け抜けました。
参加者からは、
「これまで東北に来たくても来られなかったけど、いい機会になった」
「応援するつもりで来たら、逆に応援されてしまった」
そんな声が上がっていたといいます。
本年度の「ツール・ド・東北」は、2014年9月14日(日)開催されます。
気仙沼まで続く220kmのコースが新設されたほか、
昨年の倍となる3000人が参加する予定です。
また、長谷川さんが今力を入れているのが、若手漁師による新しい水産業づくり。
「水産業は漁師なくしては発展も存続もありません。
漁師が減少しているなかで、若い人に漁師に興味を持ってもらえる活動を始めています」
これまであまり実態が見えてこなかった水産業において、
横のつながりを活かした最強チームによる直販開拓に情報共有、
漁師にしかできない商品開発や、漁師と会えるイベントなどを行っています。
「僕は横浜出身でずっと都会にいたから、何も知らずに生きてきました。
ワカメに旬があるって知っていました?
採りたてワカメでする"ワカメしゃぶしゃぶ"ってめちゃくちゃおいしいんですよ!
自分が知った感動を知ったからには他の人にも届けたい、そう思ってやっています」
石巻で活動を始めて、まもなく3年を迎える長谷川さん。
移住してから2年経って、ようやく地元の人との人間関係が築けてきたといいます。
「仲良くなった奴らと一緒に何かしたいと思って。
東京にいた頃は俺なんて何もできないと思っていたけど、
こっちに来て、周りから『はせたくさんのおかげです』って言われると、
一人一人持っている能力が違って、それぞれにできることがあるって、
そう思うようになりました」
3年4ヵ月経った石巻の現状について尋ねると、
地元でも徐々に風化しつつある、という答えが返ってきました。
当初は新しいことを頑張ろうとする人も多かったようですが、
時が経つにつれ、普通の生活を望む人ももちろん出てきます。
「"復興"の意味もニーズも、人それぞれ違います。
この土地に残る何かを作りたい。
いいモノが廃れることを防げたら、それがゴールかもしれません」
実は、誕生日が3月11日だという、長谷川さん。
「東北には何らかの形で一生かかわっていくつもりです」
と最後に話してくれました。
祝うべき誕生日に起こってしまった大震災を自分事として捉え、
会社を巻き込んで活動する長谷川さんの姿に、
今一度、自分の出来ることが何かを考えさせられました。
顔晴れ!塩竈
宮城県、塩竈(しおがま)市。
日本三景の一つに数えられる松島湾岸に位置するこの地は、
その名の通り、古くから塩づくりの里として知られています。
全国にある塩竈神社の総本社がその象徴で、その末社である御釜神社には、
製塩法を伝えたといわれる鹽土老翁神(しおつちのおじのかみ)が祀られています。
これまでキャラバンでは、石川県・能登の「揚浜式製塩法」や、
高知県・黒潮町の「流下式製塩法」など、
各地の様々な製塩法について取り上げてきましたが、
塩竈の塩づくりは、これまた異なるものでした。
「藻塩(もしお)」
"ホンダワラ"と呼ばれる海藻でこした海水で作られる塩のことで、
日本の塩づくりの原点ともいわれています。
「松島の綺麗な海水のミネラルに加えて、
ホンダワラのうま味成分も溶け込んでいるから、まろやかな口当たりの塩ができる」
真っ黒に日焼けした「合同会社顔晴れ塩竈(がんばれしおがま)」の総括、
及川文男さんが、そう教えてくれました。
岩塩鉱や塩湖の存在しない日本では、
どんな塩づくりにおいても、いかに濃い海水を作り出すかが鍵だそう。
何度も砂地に海水をかけて濃い塩田をつくる「揚浜式製塩法」や、
流下盤に海水を流し、太陽熱で水分を蒸発させていく「流下式製塩法」に対し、
古来の藻塩は、幾度も海藻に海水を注ぎ塩分を多く含ませ、
これを焼いて水に溶かし、その上澄みを煮詰めて製していました。
ただ、効率が悪いとされた藻塩は、徐々に衰退していきます。
そうして、砂浜が少なく塩田の作れなかった塩竈では、
ほとんど塩づくりは行われなくなっていました。
そんな折、塩竈の若手たちのあいだで、
塩竈のこれからの町づくりを模索する動きが始まります。
塩づくりの聖地でありながら、塩づくりがないのはおかしい、と。
水産加工業を営む及川さんは、他産地の塩を使うことに疑問を感じており、
自身の工場の一角に、塩づくりのための竈(かまど)を設けることを決断します。
2008年、藻塩づくりを営む「合同会社 顔晴れ塩竈」が誕生するのです。
しかし、開竈から3年目の2011年3月11日、
未曾有の震災によって、塩竈は大津波の被害に見舞われました。
目の高さほどに掛けられたカレンダーにまで浸水した痕跡が、
その時の情景を物語っていました。
「大変な震災でしたが、3つの奇跡が起きたんです。
1つ目は、浸水した竈が無傷だったこと。
2つ目は、数cm下で津波はとどまり、事務所の神棚が残ったこと。
3つ目は、社名の"顔晴れ塩竈"の看板も残っていたこと。
これらを見たとき、我々がいち早く復興して乗り越えなければならない、
そう心に誓ったんです」
事務所内の神棚は、今も塩づくりを
しっかりと見守ってくれているかのように佇んでいました。
ちなみに、及川さんの塩づくりは、
奈良時代からの塩づくりを現代に伝えるための、藻塩焼神事にならって、
執り行われています。
樽の上に敷かれたホンダワラに、
松島湾から汲み上げられた海水を注ぎこみ、
アクを取りながら、竈でじっくりと煮詰めていく手法です。
「"手塩にかける"って言うじゃないですか。
ものづくり原点は塩づくりだったと思うんですよね。
点滴の成分に塩が含まれるように、塩は人間にとって欠かせないもの。
だから、古くから人間は塩を作り続けてきたのです」
及川さんが手塩にかけた塩は、
本当にまろやかで優しい味がしました。
今では、お寿司屋さんやお菓子屋さん、食堂など、
市内の様々な店舗で藻塩が用いられ、町興しの中核を担っていました。
なかでも、藻塩を使った塩焼きそばは絶品!
「どんな土地にも隠れた資源があります。
それを誰かが掘り起こしていくことが必要なんです。
塩竈ではも~しおがないから、俺がやっているんだよ(笑)」
冗談を交えながら話す及川さんの竈から立ち上る蒸気は、
まさに復興の狼煙のようでした。
[お知らせ]
2013年7月26日(金)~9月1日(日)まで、無印良品有楽町2F・ATELIER MUJIにて
「MUJIキャラバン展」を開催します。
初日7月26日(金)19:00~はMUJIキャラバン隊のトークイベントを予定。
その他、各地で出会った職人を招いたワークショップも行いますので、
ぜひ遊びに来てください!
ATELIER MUJI「MUJIキャラバン展」イベント情報はこちら
(各イベント要予約 ※申込は定員に達し次第終了致します)
七つの願い☆
東北3大祭りのひとつに数えられる、「仙台七夕まつり」
七夕といえば、織姫と彦星が年に1度だけ会うことを許された日
というのはよく知られたお話ですが、
ではなぜ年に1度しか会うことができないのか、
その理由を知っていますか?
これはもともと、中国で生まれ日本に語り伝えられた伝説なのだそう。
むかし、天に織女(しょくじょ)という、手芸にすぐれ、
機織(はたおり)が巧みな娘がいました。
ところが、牽牛(けんぎゅう)という青年と結婚してからは、
手芸をおろそかにし、機織も怠けだしたため、
父親の天帝(てんてい)は怒って、牽牛を銀河の対岸に別居させ、
年に1度、7月7日の夕べにだけ逢うことを許しました。
織女は牽牛と逢える七夕の日以外は、せっせと機織りしているため、
手芸の神様と考えられていました。
七夕まつりは本来、7月7日の2人が逢えるめでたい日に、
織女に対して手芸上達を願う祭なのです。
短冊に願い事を書いて笹に飾る風習は、日本ならではですが、
仙台においては、風流を好んだ伊達政宗が奨励したともいわれ、
藩政時代から各戸の軒先に笹飾りを出していたそうです。
そう、「仙台七夕まつり」の特徴といえば、やっぱり笹飾り!
商店街の各お店が数ヵ月間かけて毎年手づくりし、
その豪華さを競い合うのです。
飾りの内容は当日まで企業秘密だそうで、
蓋を開けてみると、それぞれの個性が際立ちます。
子供向けのかわいらしい動物柄のものもあれば、
涼しげな色だったり、ビビッドにまとめていたり。
どれも手づくりなので、ほのぼのとした温かみが感じられます。
これらの七夕飾りですが、実は「七つ飾り」と呼ばれる伝統の飾り物を守り、
それぞれに深い意味が込められていました。
まず、飾りつけの主役になっているのが「吹き流し」。
くす玉の下に垂れている部分のことで、これは織姫の織り糸を象徴し、
機織や手芸の上達を願います。
続いて、着物の形をした「紙衣(かみごろも)」。
これは病や災いの身代わり、または、裁縫の上達を願うもので、
七夕竹の一番上に吊るす習わしがあります。
「千羽鶴」は家の長老の年の数だけ折り、延命長寿を願います。
「投網」は昔から重要なたんぱく源としての魚介を欠かさないように
仙台近海の豊漁を祈願し、「短冊」は学問や書、手習いの上達を願います。
今年の短冊は、オリンピックへの願いが目立ちました★
また、「巾着」は富貴を願いながらも、無駄遣いを戒め、商売繁盛を願います。
「くずかご」は七つの飾り物をつくり終えた
裁ちくず、紙くずを拾い集めてくずかごの中にいれ、
ものを粗末にしないで役立て、清潔と倹約の心を育てます。
「七つ飾り」のそれぞれに込められた願いを感じながら笹飾りを見ていると、
この七夕まつりが仙台市民に愛され続け、
昔から変わらず今も続いている意味が少し分かる気がしました。
かつて、天明の大飢饉、第一次世界大戦後の不景気など、
数々の窮地を乗り越える力になってきた「仙台七夕まつり」。
今年、震災復興の大きな原動力となっていることは、
言うまでもありません。
もしもの備え
仙台市内ではお祭り期間中、駅前を中心に屋台が並んでいますが、
今年はここに無印良品 エスパル仙台店も参戦。
お祭りは見るのもいいですが、参加するのもまた盛り上がりますね!
さらに仙台駅前には、無印良品 仙台ロフト店もあり、お邪魔してきました。
仙台では昨年の震災を受けて、スタッフのみんなで
災害時のもしもの時に使える無印良品グッズについて話し合ったそうです。
例えば、この「柔らかい ランドリーボックス」
普段は通常通り、洗濯物入れもしくは収納BOXとして、
一方、もしもの時には「貯水のためのバケツ」として使えます。
続いて「キャリーバッグ」
普段はビジネスの出張や旅行時に、
一方、もしもの時には「食料ほか、避難グッズ入れ」に。
ほかにも、普段はキッチンや玄関などで使える「アミノ酸 無香消臭スプレー」は、
もしもの時、ニオイが気になる衣類にかけて消臭ができます。
それぞれが自分自身で考え、家族や友人と話し合うことが何よりも、
備えることで一番大切な事かもしれません。
新しいモノを買って備えるのもいいですが、
もしもの時を想定して今、身の回りにあるモノを再度考えてみませんか?
花火に込められた想い
仙台七夕まつりの前夜、
仙台の夜空は約1万6000発の花火で彩られました。
今では、夏の風物詩ともいえる日本の花火ですが、
かつては鎮魂のために打ち上げられた歴史もあります。
1733年、畿内が見舞われた飢饉と、
江戸が襲われたコレラによる多数の死者を弔うために、
将軍吉宗が催した水神祭りで大花火を打ち上げました。
今の隅田川花火大会の起源ともいわれている史実です。
将軍吉宗は、暗い世相が明るくなるようにと祈りを込めたようですが、
現在でも、その目的は変わっていないように思います。
夜空に咲く花を見ていると、
少し感傷的な気持ちにもなりますが、
同時に、その美しさに心が洗われ、元気が出ますよね。
思えば海外にも花火はありました。
一般に、欧米諸国など海外の花火は、
同心円状に広がらない円筒形のものが多く、
その分、火薬量も多く、華やかな光や色を出すことが可能だそうです。
一方、日本では、同心円状に広がる球型のものが多いです。
これは、欧米では貴族の館などの裏から打ち上げることが多く、
一定方向からしか見られなかったのに対し、
河川敷で打ち上げることの多かった日本では、
あらゆる方向から観賞可能にする必要があったことが、
球型の花火が発達した理由とされています。
かつて同心円状に広がる花火の製造は困難でしたが、
日本で最も古い花火業者「鍵屋」の十二代目が技術を習得し、
その後、多く作られるようになっていきました。
私が子供の頃、花火大会の掛け声といえば、
「たまや~、かぎや~」
でしたが、玉屋は鍵屋から暖簾分けした花火業者で、
江戸時代、両国の川開き(現 隅田川花火大会)の際には、
玉屋が上流、鍵屋が下流を担っていたんだそうです。
こうした両者の切磋琢磨や、大名からの命を受けた花火職人によって、
日本における花火製造は活発化。
特に、火薬製造が規制されていなかった、
尾張(現・愛知県)、紀州(現・和歌山県)、水戸(現・茨城県)の花火は、
御三家花火と呼ばれるほど、人気を博しました。
また、豪快で派手好きな伊達家の藩風を反映させた仙台河岸花火も、
江戸町人からの人気を得て、当時から大勢の見物客が訪れていたそうです。
こうした歴史を振り返っても、
花火は日本の古くからのものづくりの一つといえますね。
ところで、この仙台七夕花火大会には、
日本を代表する花火師が関わっているんです。
仙台市内で唯一の花火製造会社、(株)芳賀火工。
鉄砲や火薬の製造販売を営む(株)芳賀銃砲火薬店の花火部門です。
先祖は伊達家に砲術師として仕えており、
明治維新後、銃砲の製造と火薬類の取り扱いを始め、
昭和22年から本格的に花火の製造を始めました。
今では、仙台七夕花火祭をはじめ、
数々の花火大会の企画・運営を担うまでに。
そして、2000年のシドニーオリンピックの閉会式。
アメリカ、オーストラリア、スペイン、南アフリカと並んで、
(株)芳賀火工がアジア代表の花火師として参加し、
五輪のフィナーレを飾る花火を打ち上げたのです。
世界に対し、「仙台に芳賀あり」を知らしめた瞬間でした。
日本の夏の夜空を彩る花火の背景には、
こうした歴史と誇るべき日本の技術力がありました。
ちなみに、第43回仙台七夕花火祭のテーマは
「ありがとう~感謝の想いを胸に 新たな仙台(まち)の創造へ向かって」
でした。
参加した誰もが、仙台の空に大きく輝いた花火を見て、
今ここにいられることに感謝したのではないでしょうか。
女川町の現状と希望
宮城県の東、牡鹿半島の入り口に位置する女川町(おながわちょう)。
平安時代の武将、安倍貞任が源氏方との戦の際に、
一族の婦女子を安全地帯に避難させたことから、
そこから流れ出す渓流のことを「女川」と呼ぶようになり、
それが現在の地名の由来といわれています。
世界三大漁場の一つである金華山沖漁場に近く、
ホタテやカキ、銀鮭、ホヤの養殖も盛んなため、
年間通じて豊富な魚介類に囲まれていました。
しかし、そんな漁業の町にも、2011.3.11、
未曾有の大震災が襲いました。
女川湾の入り組んだ沿岸地帯は、津波により壊滅状態。
震災前1万人強いた人口も、
現在約8000人強にまで減少してしまいました。
7月末、私たちキャラバン隊が女川町を訪れた町の様子です。
ご覧の通り、鉄筋コンクリート製のビルも、
基礎部分ごと地面から抜けて横倒しになるほどの津波被害。
世界的にも稀な被害であるため、
町では被害資料として保存することを検討しているようです。
町中の瓦礫は片付けられている印象でしたが、
集められた瓦礫の処理場は、まだこの状況でした。
被害を受けた住民の方々は、
現在約30カ所の仮設住宅で避難生活を送っています。
その内の一つを訪ねました。
「町民野球場仮設住宅」
その名の通り、
野球場の敷地内に建てられた仮設住宅です。
2~3階建ての建物はまるでアパートのような外観ですが、
これらは実はコンテナを重ねた造りになっているんです。
高台に平地の少なかった女川町では、
従来の平屋型仮設住宅では戸数が確保しにくかったため、
前例になかった2階建て以上の仮設住宅の建設を決めました。
建築家の坂 茂(ばん・しげる)氏による提案で、
基礎を打たない海上輸送用のコンテナを市松模様に積み上げた建設ですが、
耐震性、耐火性、遮音性にも優れ、2~3階建てにしたことで、
この地に189戸の住居スペースを確保することができたのです。
特別に、何軒かのお宅にお邪魔させていただくと、
そこには、最低限の生活空間と生活用品がありました。
なかには、無印良品が提供した照明やカーテンも。
「住民の方々の生活は落ち着いてきていますが、
これからはボランティアや外部に頼るのではなく、
いかにして自立していくかが鍵です」
ここ町民野球場仮設住宅で働く、
女川町社会福祉協議会の伊藤さんはそう語ります。
今では少しずつですが、集会所で催されるイベントも、
町民の方が主体となって取り組んでいるものが増えてきているそうです。
その息吹は、女川町全体からも感じることができました。
お寿司屋さん兼海鮮を扱うお店も一部で復活。
女川高校のグラウンドには木造仮設商店街、
「きぼうのかね商店街」がオープンしていました。
「きぼうのかね」とは、女川町民だったら誰もが聞いたことのある
JR女川駅前にあった「からくり時計」の鐘のこと。
津波によって駅舎とともに流された4つの鐘のうち、
瓦礫の中から奇跡的に見つかった一つの鐘を復興のシンボルとして掲げ、
海外の支援団体からの資金援助を受け、今年の4月末に起ちあがったそうです。
八百屋や書店、カフェや銀行まで揃っていて、
なかには、こんなお店まで。
もともと陶芸クラブとして活動していた主婦グループが、
震災後、新たに始めたスペインタイルのお店です。
津波で窯も流され、存続も危ぶまれていた状況から、
各種からの支援により、なんとか継続。
「女川って、スペインの漁港の町ガリシア地方とよく似ているらしいんです。
スペインにはタイルで彩られた美しい街並みがあります。
女川もこれから復興していくにあたって、
街中にスペインタイルをちりばめられたら素敵だなって」
「みなとまちセラミカ工房」の代表阿部さんは、
今後の夢をそう語ってくださいました。
このように女川町では、
一人ひとりができることを模索しながら、
一歩ずつ歩み始めている様子がうかがえました。
ただ、まだまだ何もない状況からの一歩です。
完全に自立できる状態にはほど遠いことは言うまでもありません。
町の復興計画も8年スパンと聞いています。
その間、私たち一人ひとりも、
女川をはじめとした被災地のためにできることを考え、
実行に移していくことが必要なのではないでしょうか。
青いだるま
昨日に引き続き、こちらも来年の福缶に入る縁起物のひとつ。
各地にあるだるまの中でも個性際立つ、
「松川だるま」です。
言い伝えによると天保年間(1830~1844年)に、
伊達藩の武士である松川豊之進が創始したもので、
名前をとって「松川だるま」と呼ばれるようになったのだとか。
特徴的な群青色は、空と海の色で袈裟(けさ)を表し、
また、お腹の部分には宝船や大黒様、松竹梅が描かれ、
さらには金で装飾が施されており、めでたいづくしの縁起物といえますね。
以前、群馬の高崎だるまを取材しましたが、
その時見ただるまとはどうも形状が異なるような
。
左のだるまが「高崎だるま」で、右が「平塚だるま」
まゆ毛の形とひげの形は異なるものの、本体の形状はほぼ同じです。
というのも、だるまはもともと実在の人物、
達磨大師がモデルになっているから。
しかし、今回お目にかかった「松川だるま」はなんだかスリムな気がします。
「仙台のだるまは、伊達政宗公がスリムだったからスリムなんですよ。
あとは政宗公が片目を悪くしているので、
だるまには両目を入れて、四方八方まで見守ってもらおうと、
うちのだるまは最初から両目が入っているんです」
10代目として継承されている、本郷ご夫妻の奥様尚子さんが
そう、教えてくださいました。
同じようで違うもの。
こうなったら、全国のだるまさんを並べてみたいものです。
ちなみに、私たちが訪れたこの日は、だるまの底につける重りを作る日。
工房の前にはドーナツのようなものがたくさん乾かしてありました。
この重りをつけることで、
だるまは転がしても起き上がることができるのです。
庶民の心の拠り所として作り出されたという松川だるまは、
倒れても起き上がり、
昔も今も変わらず、両目でしっかりと見守っていてくれます。
何が入っているか開けてみるまで分からない、福缶。
いずれも職人さんたちが、ひとつひとつ心を込めて手づくりしている品々です。
みなさん、気になるものはありましたか?
写真だけだとその魅力はまだまだ伝わらない!
来年実物に会えるのをご期待ください。
仙台の縁起物
北海道編でセワポロロをご紹介しましたが、
仙台でも着々と準備が進んでいる、福缶に入る縁起物の製作現場を訪ねました。
まずはこちらの「堤人形(つつみ人形)」から。
ネコが鯛をネコババ
したわけではなく、
ネコが鯛を持ってきて"めでたい"縁起物なのです。
もともと焼き物の産地だった堤町において、
冬の間の手仕事として作られ始めたという堤人形は
300年以上の歴史を持ちます。
工房が奥州街道沿いにあり、
かつては商人や旅人のお土産ものとして、各地に広がっていったそう。
このような型を使い、
まず、土人形を作り、
素焼きしたものに彩色していきます。
下描きをするわけでもなく、スーッと筆を入れていく職人の佐藤さん。
職人歴60年以上の匠の技で、次々と人形に息吹を与えます。
じーっとこちらを見つめているようなネコの目。
「どうだ!鯛をとってきたぞ!!」と言わんばかりの表情に
「うんうん、ありがとう。君がいればなんだかいいコトがありそうだ★」
そんなことを感じさせてくれる置物です。
続いて、このなんともかわいらしい、「首振り仙台張子」
一枚一枚染められた手漉き和紙で
ひとつずつ手づくりされた、手のひらサイズの張子(十二支)です。
十二支すべての動物の首がゆらゆらと動くのが
たまらなくかわいく、癒やされます♪
これならお正月だけでなく、通年、
インテリアとして飾っておいてもいいですよね。
実際に目の前で作っていただくと、作業はとても細かく地道なものでした。
動物の顔と胴体を別々に作っていき、
頭が振れるように、粘土で作った重りを頭に糸でつけ
バランスをとります。
そして、細かくちぎった和紙を貼りつけていくのですが、
その仕上がりはまるで1枚の紙を貼ったように、全く継ぎ目が見えないのです。
これぞ職人業ですね!
一度お目にかかったら、忘れられないキュートな張子たちは、
笑い上戸のお父さんと優しさのにじみ出るお母さん、
高橋さんご夫妻によって生み出されています。
おもわず名前をつけたくなる、首振り仙台張子。
来年、誰の手元に届くでしょうか☆