女川町の現状と希望
宮城県の東、牡鹿半島の入り口に位置する女川町(おながわちょう)。
平安時代の武将、安倍貞任が源氏方との戦の際に、
一族の婦女子を安全地帯に避難させたことから、
そこから流れ出す渓流のことを「女川」と呼ぶようになり、
それが現在の地名の由来といわれています。
世界三大漁場の一つである金華山沖漁場に近く、
ホタテやカキ、銀鮭、ホヤの養殖も盛んなため、
年間通じて豊富な魚介類に囲まれていました。
しかし、そんな漁業の町にも、2011.3.11、
未曾有の大震災が襲いました。
女川湾の入り組んだ沿岸地帯は、津波により壊滅状態。
震災前1万人強いた人口も、
現在約8000人強にまで減少してしまいました。
7月末、私たちキャラバン隊が女川町を訪れた町の様子です。
ご覧の通り、鉄筋コンクリート製のビルも、
基礎部分ごと地面から抜けて横倒しになるほどの津波被害。
世界的にも稀な被害であるため、
町では被害資料として保存することを検討しているようです。
町中の瓦礫は片付けられている印象でしたが、
集められた瓦礫の処理場は、まだこの状況でした。
被害を受けた住民の方々は、
現在約30カ所の仮設住宅で避難生活を送っています。
その内の一つを訪ねました。
「町民野球場仮設住宅」
その名の通り、
野球場の敷地内に建てられた仮設住宅です。
2~3階建ての建物はまるでアパートのような外観ですが、
これらは実はコンテナを重ねた造りになっているんです。
高台に平地の少なかった女川町では、
従来の平屋型仮設住宅では戸数が確保しにくかったため、
前例になかった2階建て以上の仮設住宅の建設を決めました。
建築家の坂 茂(ばん・しげる)氏による提案で、
基礎を打たない海上輸送用のコンテナを市松模様に積み上げた建設ですが、
耐震性、耐火性、遮音性にも優れ、2~3階建てにしたことで、
この地に189戸の住居スペースを確保することができたのです。
特別に、何軒かのお宅にお邪魔させていただくと、
そこには、最低限の生活空間と生活用品がありました。
なかには、無印良品が提供した照明やカーテンも。
「住民の方々の生活は落ち着いてきていますが、
これからはボランティアや外部に頼るのではなく、
いかにして自立していくかが鍵です」
ここ町民野球場仮設住宅で働く、
女川町社会福祉協議会の伊藤さんはそう語ります。
今では少しずつですが、集会所で催されるイベントも、
町民の方が主体となって取り組んでいるものが増えてきているそうです。
その息吹は、女川町全体からも感じることができました。
お寿司屋さん兼海鮮を扱うお店も一部で復活。
女川高校のグラウンドには木造仮設商店街、
「きぼうのかね商店街」がオープンしていました。
「きぼうのかね」とは、女川町民だったら誰もが聞いたことのある
JR女川駅前にあった「からくり時計」の鐘のこと。
津波によって駅舎とともに流された4つの鐘のうち、
瓦礫の中から奇跡的に見つかった一つの鐘を復興のシンボルとして掲げ、
海外の支援団体からの資金援助を受け、今年の4月末に起ちあがったそうです。
八百屋や書店、カフェや銀行まで揃っていて、
なかには、こんなお店まで。
もともと陶芸クラブとして活動していた主婦グループが、
震災後、新たに始めたスペインタイルのお店です。
津波で窯も流され、存続も危ぶまれていた状況から、
各種からの支援により、なんとか継続。
「女川って、スペインの漁港の町ガリシア地方とよく似ているらしいんです。
スペインにはタイルで彩られた美しい街並みがあります。
女川もこれから復興していくにあたって、
街中にスペインタイルをちりばめられたら素敵だなって」
「みなとまちセラミカ工房」の代表阿部さんは、
今後の夢をそう語ってくださいました。
このように女川町では、
一人ひとりができることを模索しながら、
一歩ずつ歩み始めている様子がうかがえました。
ただ、まだまだ何もない状況からの一歩です。
完全に自立できる状態にはほど遠いことは言うまでもありません。
町の復興計画も8年スパンと聞いています。
その間、私たち一人ひとりも、
女川をはじめとした被災地のためにできることを考え、
実行に移していくことが必要なのではないでしょうか。