MUJIキャラバン

花火に込められた想い

2012年08月16日

仙台七夕まつりの前夜、
仙台の夜空は約1万6000発の花火で彩られました。

今では、夏の風物詩ともいえる日本の花火ですが、
かつては鎮魂のために打ち上げられた歴史もあります。

1733年、畿内が見舞われた飢饉と、
江戸が襲われたコレラによる多数の死者を弔うために、
将軍吉宗が催した水神祭りで大花火を打ち上げました。
今の隅田川花火大会の起源ともいわれている史実です。

将軍吉宗は、暗い世相が明るくなるようにと祈りを込めたようですが、
現在でも、その目的は変わっていないように思います。

夜空に咲く花を見ていると、
少し感傷的な気持ちにもなりますが、
同時に、その美しさに心が洗われ、元気が出ますよね。

思えば海外にも花火はありました。

※写真はベルギー、ブリュッセルの花火

一般に、欧米諸国など海外の花火は、
同心円状に広がらない円筒形のものが多く、
その分、火薬量も多く、華やかな光や色を出すことが可能だそうです。

一方、日本では、同心円状に広がる球型のものが多いです。

これは、欧米では貴族の館などの裏から打ち上げることが多く、
一定方向からしか見られなかったのに対し、
河川敷で打ち上げることの多かった日本では、
あらゆる方向から観賞可能にする必要があったことが、
球型の花火が発達した理由とされています。

かつて同心円状に広がる花火の製造は困難でしたが、
日本で最も古い花火業者「鍵屋」の十二代目が技術を習得し、
その後、多く作られるようになっていきました。

私が子供の頃、花火大会の掛け声といえば、
「たまや~、かぎや~」
でしたが、玉屋は鍵屋から暖簾分けした花火業者で、
江戸時代、両国の川開き(現 隅田川花火大会)の際には、
玉屋が上流、鍵屋が下流を担っていたんだそうです。

こうした両者の切磋琢磨や、大名からの命を受けた花火職人によって、
日本における花火製造は活発化。

特に、火薬製造が規制されていなかった、
尾張(現・愛知県)、紀州(現・和歌山県)、水戸(現・茨城県)の花火は、
御三家花火と呼ばれるほど、人気を博しました。

また、豪快で派手好きな伊達家の藩風を反映させた仙台河岸花火も、
江戸町人からの人気を得て、当時から大勢の見物客が訪れていたそうです。

こうした歴史を振り返っても、
花火は日本の古くからのものづくりの一つといえますね。

ところで、この仙台七夕花火大会には、
日本を代表する花火師が関わっているんです。

仙台市内で唯一の花火製造会社、(株)芳賀火工。

鉄砲や火薬の製造販売を営む(株)芳賀銃砲火薬店の花火部門です。

先祖は伊達家に砲術師として仕えており、
明治維新後、銃砲の製造と火薬類の取り扱いを始め、
昭和22年から本格的に花火の製造を始めました。

今では、仙台七夕花火祭をはじめ、
数々の花火大会の企画・運営を担うまでに。

そして、2000年のシドニーオリンピックの閉会式。

アメリカ、オーストラリア、スペイン、南アフリカと並んで、
(株)芳賀火工がアジア代表の花火師として参加し、
五輪のフィナーレを飾る花火を打ち上げたのです。

世界に対し、「仙台に芳賀あり」を知らしめた瞬間でした。

日本の夏の夜空を彩る花火の背景には、
こうした歴史と誇るべき日本の技術力がありました。

ちなみに、第43回仙台七夕花火祭のテーマは
「ありがとう~感謝の想いを胸に 新たな仙台(まち)の創造へ向かって」
でした。

参加した誰もが、仙台の空に大きく輝いた花火を見て、
今ここにいられることに感謝したのではないでしょうか。

  • プロフィール MUJIキャラバン隊
    長谷川浩史・梨紗
    世界一周の旅をした経験をもつ夫婦が、今度は日本一周の旅に出ました。
    www.cool-boom.jp
    kurashisa.co.jp

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