花火に込められた想い
仙台七夕まつりの前夜、
仙台の夜空は約1万6000発の花火で彩られました。
今では、夏の風物詩ともいえる日本の花火ですが、
かつては鎮魂のために打ち上げられた歴史もあります。
1733年、畿内が見舞われた飢饉と、
江戸が襲われたコレラによる多数の死者を弔うために、
将軍吉宗が催した水神祭りで大花火を打ち上げました。
今の隅田川花火大会の起源ともいわれている史実です。
将軍吉宗は、暗い世相が明るくなるようにと祈りを込めたようですが、
現在でも、その目的は変わっていないように思います。
夜空に咲く花を見ていると、
少し感傷的な気持ちにもなりますが、
同時に、その美しさに心が洗われ、元気が出ますよね。
思えば海外にも花火はありました。
一般に、欧米諸国など海外の花火は、
同心円状に広がらない円筒形のものが多く、
その分、火薬量も多く、華やかな光や色を出すことが可能だそうです。
一方、日本では、同心円状に広がる球型のものが多いです。
これは、欧米では貴族の館などの裏から打ち上げることが多く、
一定方向からしか見られなかったのに対し、
河川敷で打ち上げることの多かった日本では、
あらゆる方向から観賞可能にする必要があったことが、
球型の花火が発達した理由とされています。
かつて同心円状に広がる花火の製造は困難でしたが、
日本で最も古い花火業者「鍵屋」の十二代目が技術を習得し、
その後、多く作られるようになっていきました。
私が子供の頃、花火大会の掛け声といえば、
「たまや~、かぎや~」
でしたが、玉屋は鍵屋から暖簾分けした花火業者で、
江戸時代、両国の川開き(現 隅田川花火大会)の際には、
玉屋が上流、鍵屋が下流を担っていたんだそうです。
こうした両者の切磋琢磨や、大名からの命を受けた花火職人によって、
日本における花火製造は活発化。
特に、火薬製造が規制されていなかった、
尾張(現・愛知県)、紀州(現・和歌山県)、水戸(現・茨城県)の花火は、
御三家花火と呼ばれるほど、人気を博しました。
また、豪快で派手好きな伊達家の藩風を反映させた仙台河岸花火も、
江戸町人からの人気を得て、当時から大勢の見物客が訪れていたそうです。
こうした歴史を振り返っても、
花火は日本の古くからのものづくりの一つといえますね。
ところで、この仙台七夕花火大会には、
日本を代表する花火師が関わっているんです。
仙台市内で唯一の花火製造会社、(株)芳賀火工。
鉄砲や火薬の製造販売を営む(株)芳賀銃砲火薬店の花火部門です。
先祖は伊達家に砲術師として仕えており、
明治維新後、銃砲の製造と火薬類の取り扱いを始め、
昭和22年から本格的に花火の製造を始めました。
今では、仙台七夕花火祭をはじめ、
数々の花火大会の企画・運営を担うまでに。
そして、2000年のシドニーオリンピックの閉会式。
アメリカ、オーストラリア、スペイン、南アフリカと並んで、
(株)芳賀火工がアジア代表の花火師として参加し、
五輪のフィナーレを飾る花火を打ち上げたのです。
世界に対し、「仙台に芳賀あり」を知らしめた瞬間でした。
日本の夏の夜空を彩る花火の背景には、
こうした歴史と誇るべき日本の技術力がありました。
ちなみに、第43回仙台七夕花火祭のテーマは
「ありがとう~感謝の想いを胸に 新たな仙台(まち)の創造へ向かって」
でした。
参加した誰もが、仙台の空に大きく輝いた花火を見て、
今ここにいられることに感謝したのではないでしょうか。