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美人になる野菜、ルバーブ
「ルバーブ」という野菜をご存じですか?
肉食中心の欧米では、食物繊維を摂取するために、
食卓に欠かせない野菜として好まれています。
野菜といっても、ジャムに多く用いられるなど、使われ方は果物のよう。
パイにするととてもおいしいことから、「pie plant」とも呼ばれているそうです。
そんなルバーブは、寒冷地に育つ作物で、
日本では長野や北海道で育てられています。
大正時代に、避暑地を求めて野尻湖(長野県信濃町)を訪れた
外国人宣教師によって伝えられ、栽培が始まったといわれています。
6月上旬に野尻湖を訪ねると、そこには
大きな葉っぱを一面に広げるルバーブ畑の光景が広がっていました。
「年に数回、追肥するだけで、春と秋の2回収穫できる多年草です。
冬の間は雪の下で眠っているのですが、雪が解けるとまた大きくなるんです。
ルバーブの生命力には驚かされますよ」
野尻湖畔でルバーブを育てる
信州黒姫高原ファミリーファームの農家さんが教えてくださいました。
かつて、株分けして各家に植えられたことにより、
今でもこの辺りのほとんどの農家で栽培されているそうです。
ただ、昔はその使い道が分からず、
ましてや名前すら定かではなかったんだとか。
そんな折、ブルーベリーに代わる信濃町の特産品を発信しようと、
注目を浴びたのがルバーブでした。
「昔、住んでいたオーストリアでは、当たり前のように食卓に並んでいたルバーブ。
信州にそんななじみある野菜があるのであれば、使わない手はないと思いました」
そう話すのは、野沢温泉村で
「ホテルハウスサンアントン」を営む、片桐逸子さんです。
風情ある温泉街に、良質な泉質の湯が湧く日本屈指のスキーリゾートには、
冬季には多くの観光客が訪れます。
ただ、どうしても来訪者が落ち込んでしまう夏季に、
なんとか雇用を生み出すことができないかと、片桐さんが考えたのが、
信州産の農産物を生かしたジャムやジュースなどの加工品でした。
「長野の夏には、たくさんのおいしいフルーツがあるんですよね。
一度にたくさんは作れないけど、
少しずつでも多品種のものを作っていけば、仕事もなくならない」
もともと山菜加工場として使用していた食品工場を使って、
職人たちとジャムづくりをスタートしました。
現在、ハウスサンアントンが手掛けるジャム・ジュースは50種類以上。
そのほとんどが、信州産の農産物を使ったものです。
なかでも上述のルバーブは、繊維質が豊富で、
ビタミンCやカリウム、カルシウムも多い健康野菜。
「食べるとお通じが良くなり、デトックスできる
"美人になる野菜"とも呼ばれているんですよ」
ハウスサンアントンでのジャムづくりは、
オーストリア仕込みの手づくり製法です。
ポイントは、高温で、短時間で仕上げること。
素材感とルバーブのみずみずしさを残すことができるそう。
実際に、できたてほやほやのジャムを
ヨーグルトに混ぜてコンポートとともにご賞味させていただくと、
さわやかな酸味と香りが口いっぱいに広がりました。
「どんなフルーツにも固定観念を持たずに、
その時の素材の味を引き出すよう心掛けているので、毎年味が違うんですよ。
ほら、ワインだってそうでしょ」
片桐さんは、ルバーブのジャムは
月日を置いた方が、味が丸くなると話します。
仕込んだ年ごとのジャムを味わわせてもらうと、
年を経るごとに、確かに味がまろやかに
。
ジャムを食べているというよりも、
果実をそのまま食べているような感覚です。
こうしてスキーのオフシーズンにも、野沢に雇用を生み出し、
信州産の農産物に光を当て続ける、ハウスサンアントンのジャム&ジュース。
ホテルのお客様の朝食にジャムを提供するほか、
夕食の料理やホテル併設のカフェで販売するジェラートにも使用されるなど、
うまく循環していっていました。
信州の自然と、オーストリア仕込みの技が生み出した味は、
Found MUJI取り扱い店舗および、
7月11日(金)~20日(日)の10日間限定で販売予定の、
「Found MUJI Market」でもお買い求めいただけます。
想いを結び込む、水引
結婚式のご祝儀や入学祝い、出産祝いなどのお祝い事の際に、
品物や封筒を結ぶ、「水引」。
この「水引」に関するとても興味深い話を
最盛期は全国の水引製品の約70%を生産し、
現在もなお高いシェアを誇っている、長野県飯田市で聞くことができました。
「飯田はキレイな水が流れる町で、江戸時代から紙漉きが盛んでした。
朝廷にも紙を納めていたのですが、
紙を整える際に切り落とした端紙を使って、"元結(もとゆい)"を作っていたんです」
そう飯田水引の歴史から教えてくださったのは、
明治元年創業、老舗の水引屋である
大橋丹治株式会社の専務、5代目大橋丹治さんです。
元結とは髪を結ぶ道具のことで、昔は生活必需品でした。
飯田で漉かれていた、薄くて丈夫な「ひさかた和紙」を使って、
美濃の国(現在の岐阜県)から和紙職人の桜井文七氏を招いて習った元結は、
その質の高さから、「文七元結」として全国にその名を知られるようになったそう。
しかし、明治維新の断髪令により、元結の消費は減少。
その後、元結の技術を生かした水引製品の生産へとシフトすることになりました。
ちなみに、水引という名の由来は、
長くしつらえた紙縒(こより)に、水のりを引いて作ることからだそう。
大橋さんの家業も、元結製造に始まり、水引製造へと移り、
現在は水引の加工を中心に行っています。
以前は結納のための水引セットが主力商品だったそうですが、
最近は、結婚式を挙げるカップルが減ってきており、
ましてや結納をするカップルはさらに減ってしまっています。
「残念ですが、時代の流れは変えられない。
何か別の切り口で、現代のニーズにあったものを作らないと」
4年前に帰郷して家業に入った大橋さんは、
販路開拓のために、新商品の開発に奮闘。
水引のピアスや、ラッピング用資材としての水引を生み出しました。
以来、ありそうでなかった新しい水引は、様々なメーカーのラッピングや、
結婚式の引き出物に招待状、個人のプレゼントと幅広い反響を得ています。
もともとこの水引の由来は、飛鳥時代に遣隋使である小野妹子が帰朝の際、
隋国より日本の朝廷に贈られた贈り物に、
紅白で染め分けた麻ひもが結んであったことが始まりだそう。
「帰途海路の平穏無事を祈願してのことで、
そこから何か贈り物をする時には、想いを一緒に結び込んで贈る習慣ができたようです」
戦時中にも、出兵兵士の無事を願って、
金封を水引で結んで渡していたといいます。
そんなお守りの代わりともいえそうな意味を持つ水引。
実は、現在も結び方に意味が込められているということを知りました。
ご祝儀袋でよく見るこちらの結びは「あわじ結び」というもの。
結び目がアワビの形に似ていることからついた名ともいわれていますが、
一度ほどいてしまうと二度と結べないことから、「結び切り」と呼ばれています。
「一度きりで繰り返さない」という意味が込められており、
結婚式や快気祝い、お葬式などに用いられる結び方なのです。
これをアレンジしたのが「梅結び」。
目の前で職人さんに結んでいただくと、ものの1分ほどで完成。
手の感覚で順序を覚えているといいます。
一方、こちらは「蝶結び(花結び)」と呼ばれるもの。
簡単に結びなおすことができるので、「何度あってもよい」という意味から、
出産祝いや入学祝いなどに使われます。
このように、水引は時代を超えて、
贈り物をする際に自分の想いも結び込んで贈るという、
日本独特の文化として受け継がれてきました。
「今後は、世界を舞台にラッピングという分野で
水引を広めていきたいですね」
最後にそう野望を語った、大橋さん。
素材や形状などが時代とともに変わっていったとしても、
「気持ちを込めて贈り物を結ぶ」という水引の考え方は、
日本人として、未来に残していきたい大切な文化ではないでしょうか。
Found MUJI 信州 夏 〜森へ行こう〜
今回の舞台は、「神の降り立つ地(神降地)」とも称される、
日本屈指の山岳景勝地である上高地。
長野県松本市の無印良品松本パルコ店で行われている、
ワークショップに参加してきました。
その名も「Found MUJI 信州 夏 〜森へ行こう〜」という企画。
無印良品松本パルコ店では、今春から
「食」をテーマに春・夏・秋・冬と季節ごとのワークショップを開催し、
信州の文化やものづくりを見つめる活動をはじめていて、
去る7月27日(土)に夏の企画が実施されました。
※「Found MUJI 信州 春」のレポートはこちら
朝、参加者の皆さんが松本市内に集合し、バスに乗って上高地へと向かいます。
日本の貴重な"風景の財産"として、国内でも希有の、
特別名勝・特別天然記念物の2つの称号をもつ上高地では、
環境保護のためにマイカー規制がされており、
途中で専用のマイクロタクシーに乗り換えです。
しかし、ここで早速ハプニング。
いきなりの大雨
。
「女心と同じで、山の天気は変わりやすいですから(笑)」
なんてスタッフが冗談を飛ばしながら、
上高地バスターミナルに到着すると、見事に雨は止んでいました。
さぁ、いよいよ大人のピクニックへと出発です!
雨が上がったばかりの森はとても生き生きとしていて、
なんだか緑に吸い込まれそうな感覚に陥ります。
木漏れ日や霧が私たちを包み込み、
上高地への来訪を歓迎してくれているよう。
ワークショップへの参加者は約半数が県内からでしたが、
地元の方でも上高地は初めて、という人も多くいました。
参加の動機を伺ってみると、
「"森へ行こう"というフレーズを見て、そういえば前回森に行ったのは
いつだったっけと思って
」
「地元なのに上高地へ行ったことがなかったので、
地元を知るいい機会かなぁと思いました」
という声が聞こえてきました。
"灯台もと暗し"ということわざがある通り、
私たちの身の回りには、近いからこそ気付いていなかったり、
そもそも知らなかったりすることがたくさんあるものですよね。
森の中を歩くだけでも、単純に「気持ちがいい」と感じましたが、
今回は、森のプロである山岳ガイドさんにご案内いただき、
"視る、聴く、触る、嗅ぐ"といった
体全体を使って森を感じることができました。
なかでも好評だったのが、音を表現する"サウンドスケッチ"という遊び。
「花や植物の名前を伝えるのもいいんですが、
頭で覚えたものはすぐに忘れてしまうと思うんですよね。
今から目をつぶって音を聴いてみてください」
そうガイドさんにいわれて耳を澄ましてみると、
それまで聞き逃していた、風の音、鳥の声、土を踏む音などが
不思議なほど、鮮明に耳に入ってくるのです。
「音を描くって初めてやりましたが、こんなに楽しいんですね!」
「サウンドスケッチをやる前とやった後だと、
明らかに五感の使い方が変わりました」
よくクリエーターやアーティストがアイデアを練る際に、
土に触れたり、自然の中に身を置いたりするといい、
ということを聞きますが、まさにそれを実感しました。
森の中で、紙とペンさえあれば、
いや、もしかすると自然と触れ合うだけで、
誰もがクリエーターになり得るのかもしれません。
そして、忘れてはならないのが、五感のひとつである"味覚"です。
途中の休憩スポットで配られた手作りブラウニーは、
それまでの疲れが一気に吹き飛ぶおいしさ♪
じわりと広がる甘さが体を癒やしてくれました。
この頃には、朝の大雨がウソのように青空が広がっていました。
およそ2時間半のトレッキングを終え、最終地点の徳澤ロッヂに到着すると、
そこには「楡(ニレ)の木料理店」と彫られたひとつの看板が。
続いて、蝶ネクタイと白シャツの似合うウェイターさんたちが
笑顔で出迎えてくれました。
「いらっしゃいませ」
そう、ここは楡の木々に囲まれた、この日限りの森のレストランだったのです。
このワークショップのオーガナイザーである、木工作家の三谷龍二さんと、
「楡の木料理店」の料理長、坂田阿希子さんからご挨拶。
その後は、巨峰のサングリアで乾杯です!
「実は私、このお料理が目当てだったんです」
「私も!ご褒美がないと山歩きもなかなかね(笑)」
そんな会話のなか、運ばれてきたのは、
旬の地野菜を使ったスープやサラダにテリーヌ、デザートまで。
野菜のビビッドな色がとても映え、軽いのに温かみのある木の器は、
三谷さんや、地元の作家さんが作ったものでした。
素材の味が生かされた絶品料理の数々は、筆舌に尽くし難いものでしたが、
あの食事の時間が、かけがえのないものだったのは、
その場所が2時間半自分たちの足を使ってたどり着いた、
大自然の中だったからかもしれません。
雲の流れや雨足に不安を抱きながら、
上高地という自然を舞台に行われた、今回の「Found MUJI 信州 夏」。
雨も、風も、木も、葉も、そして私たち人間も、
自然の中で生きている。
そんなことを感じたワークショップでした。
次に上高地へ出掛けたとしても、
そこにあるはずの森のレストランは存在しない。
ひょっとすると私たちは幻の時間を満喫していたのでしょうか 。
※なお、ワークショップの様子は、
下記より、YouTubeの動画をご覧いただくことができます。
また、無印良品松本パルコ店では、同動画とともに、
当日使用したFound MUJIアイテムの展示と一部販売が行われています。
小さな蔵の"信"のある味噌造り
日本人の食卓に欠かせない食品のひとつ、味噌。
これまでのキャラバンでも米味噌、麦味噌、豆味噌、合わせ味噌など、
全国各地、その気候風土に合った原料で造られる味噌に出会ってきました。
なかでも全国に広く普及しているのは、日本人の主食の米を使った米味噌で、
実にその4割を長野県で造られる信州味噌が占めています。
かつての信濃国で、味噌づくりが普及したのは、
武田信玄が兵糧として「川中島溜」を造らせた戦国時代以降。
関東大震災や第二次世界大戦で被害を受けた東京に、
信州産の味噌を救援物資として送り、好評を得たことが、
信州味噌が普及していった理由といわれています。
そんな味噌の産地・長野県に、国産原料だけを使用し続ける
こだわりの味噌蔵があると聞いて訪れました。
松本市郊外に、ひっそりと佇む醸造蔵、大久保醸造店。
本物を求める全国の顧客からの注文で飽和状態のため、
地元でも知る人ぞ知る、醸造蔵です。
蔵内には所狭しと、国内産の等級の記載された
大豆・小麦・食塩・米が山積みにされていました。
「味噌、醤油、酒、納豆
、昔はそこで採れる物を使って造ったから、
国産原料なんていうのは当たり前でした。
今も当たり前のことをやっているだけで、
それを実現している人が少なくなったから珍しいだけ。
うちみたいに小さい蔵ならそれができますから」
そのように、あくまでも謙虚に話されるのは、
3代目を担う、大久保文靖さん。
快活な話しぶりとは裏腹に、その謙虚さは、
自身の写真撮影は遠慮してほしいという点にも表れていました。
そして、大久保さんらしさは、蔵の随所からも感じ取ることができました。
蔵内は驚くほどキレイに管理されており、
木桶には漆が塗られているのです。
「かっこいいでしょう。漆を塗ることで長持ちするし、何より美しい。
環境をキレイにしないと、味もキレイなものはできませんから」
大久保さんの衛生管理は、蔵の見えない部分にも行き届いていました。
蔵の壁や地下には、何トンもの炭が敷き詰められているんだとか。
「この炭によってカビくさくならないのです。
江戸城の石垣の土台にも炭化させた木材が敷かれているとか
。
敷地内にそれを施工すれば、自然の力で環境をキレイに保ってくれる効果があります」
また、蔵内でまかなう電灯用電力は、すべて太陽光発電。
蔵に換気扇はなく、自然対流を利用した開閉式天窓から抜ける風が
空気の循環を促します。
そして、地下に構えられた収納庫は、天然のクーラーボックスのようで、
初夏の暑い日に訪れたにもかかわらず、半袖では肌寒いほどです。
「うちの冷却用エネルギーはただですよ」
さらに、全国へ出荷している一升瓶は、すべて回収しているといい、
そこにはすべて、"ゴミ化しない"という
大久保さんの理念が行き届いていました。
「日本は、原発のすぐ隣近所に人が住んでいるような環境。
一升瓶3本のうち1本は原発のエネルギーという計算上、
容器としての瓶は大切に取り扱わなくてはなりません。
外国のような広大な大地じゃないから、ゴミを埋める土地もないでしょ。
環境を保つことが、日本にとってはとても大切なことだと思っているんです」
その環境に対する畏敬の念に感銘を受けましたが、
「自然の力を駆使した醸造蔵にとっては、当たり前のこと」
と大久保さんはサラリと言い切ります。
醸造においても一切、化学的な工程を用いずに、
微生物の力を使って発酵熟成させていました。
こうしてこだわり抜かれた原料で、
長い期間かけて造られた各玄米味噌・米味噌・麦味噌からは、
甘さ控えめながら、濃厚な旨みを感じました。
「人間も自然の一員なんだから、食品も自然が一番。
今、食べている物が、直接血となり肉となるのですから、
人が健康に生きていくための食品づくりが重要です。
生産者の顔の見える原料しか使いたくないから、量はたくさん造れないんですよ」
そう話す大久保さんは、「大豆100粒運動を支える会」の幹事も務め、
全国の小学生と一緒に、大豆を植える運動にも精を出しています。
「私がやっていることはどれも素朴なことですよ。
日本の食文化において大豆は大切な存在。
自国の食文化を大切にしないと、他国からも尊敬されませんからね」
無理をしない範囲で、当たり前に国産原料を使い、
環境と文化を大切にしながら味噌を造り続ける大久保さん。
全国からの引き合いが強いのも、
そんな信念を貫き通しているからに違いありません。
民芸運動と松本家具
国宝・松本城を中心に広がる旧城下町、長野県松本市。
ここもまた、キャラバンの旅中に何度も触れてきた、
柳宗悦氏を中心とした「民芸運動」とゆかりの深い土地柄です。
今回はそんな松本市で、
長野県の伝統的工芸品の指定も受けている、松本家具を作る
「松本民芸家具」を訪ねました。
松本は、日本で3番目の高さを誇る穂高岳や上高地に囲まれ、
とても乾燥しており、木材を乾かすのに適している気候のため、
昔から木工業が盛んでした。
さらに、松本城建造にあたって優秀な職人たちが全国から集結したので、
安土桃山時代を起源として、日本で3本の指に入る和家具の産地へと発展。
しかし、太平洋戦争と時代の変化にともない、和家具の生産は衰退していきます。
「戦後、将来に対して空虚感に襲われていた私の祖父が、
何か人の役に立てることはできないかと、
民芸運動の柳先生に相談して始めたのが、洋家具づくりでした」
松本民芸家具の創設者・池田三四郎氏の孫で、
現在、常務取締役を務める池田素民さんはそう話します。
これまで民芸運動について私は、
"日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に
「用の美」を見いだし、活用する運動"と理解していましたが、
戦後のタイミングにおいては、
"日本人の心を取り戻す運動"でもあったことを池田さんのお話から知りました。
池田三四郎氏は、友人に誘われて参加した民芸運動の勉強会で、
そこに集まる人々の真剣さに心を奪われ、
「戦争で生き残ったからには何かしなければいけない」
と民芸運動の創始者・柳宗悦氏の門を叩いたそう。
そして、「松本の木工業を再度立て直してみたらどうか」
という柳氏の助言に従い、
生活が西洋化してきていた時代に合わせて、
洋家具を手掛けるようになったといいます。
こちらは、ショールームで見かけた、松本民芸家具の代表作のひとつで、
柳氏の愛用の椅子を基に習作された、「ウインザーチェア」。
背もたれの材が一本柱のチェア(写真左下)に対して、
すべての材がバラバラで角度がついているのが特徴のウインザーチェア(写真右下)は、
椅子としての力学構造が成立していて、踏ん張りが利きます。
他にも、重厚感あふれるこれらの家具は、
そのほとんどが職人による手作業で作られていました。
「うちは図面もCADではなく、手で描くんですよ。
手描きはニュアンスが出せて、そうすると見る角度によって見え方が異なる。
つまり"味"が出せるんですよね」
と池田さん。
作業は分業制で、設計、木材の管理・木取り、組み立て、塗装と
大きく4つのパートに分かれています。
「分業制にすることで、職人の個性を消しています。
また、餅は餅屋に任せた方が合理的。
例えば、作り手が材料を選ぶと、使いやすいものを選んでしまうため、
材料の無駄遣いになってしまう」
そして、手作業でありながら、量産してきた工夫も
工房内に見つけることができました。
天井からズラリと吊るされているのは、木型の数々です。
親方・子方制度で技を身に付けていき、
あとは型さえあれば、
いつでも同じ家具を再現できるようにしているといいます。
「材料、環境に合わせた変化は日々していますが、
基本的に作ってきたものは今も昔も変わりません。
普遍的なものは変える必要がないですから」
もともと伝統を守るために始まったわけではなく、
時代に合わせたものづくりとして始まった、松本民芸家具。
「戦後のものづくりの方向性としては珍しかったかもしれませんね。
それしか道がなかっただけですが」
そう話す池田さんに、伝統とは何かを聞いてみたくなりました。
「伝統とは、技術だけでなく、人の心だと思うんです。
すべて"○○するため"という思いやりから来ているんですよね。
例えば、材料を無駄遣いしないため、
使いやすいため、後で直せるようにするため
」
松本民芸家具では、永く使い続けてもらうために、
修理を受け付けていますが、
修理品である過去の商品から、構造など学ぶことが多いそうです。
そしてまた、池田さん自身も、池田三四郎氏の存命中には、
ほとんど教わった記憶はなく、
亡くなった後に出てきた同氏の写真日記からいろいろと学んだとか。
「日記を読み返して分かったのは、難しい哲学ではなく、
祖父がやってきたことは、人と人のつながりだったということ。
『民芸運動ってすごく人間臭かったんだ』って、
その時すごく腹に落ちたのを覚えています」
さらに、こう続けられました。
「気候、風土と昔の人たちの知恵の積み重ねがあってこそ、今の仕事がある。
これらを次の時代につなげていかないと
。
そのためにも、ものづくりが何かをもう一度考えてみたいですね。
"人の意識"が今後の生命線ではないかと思っているので」
職人の手によって紡ぎ出される、松本民芸家具の使い心地は
説明されて理解するよりも、
使っていく中で自然と伝わってくるものだといいます。
そして、その手仕事の裏には、
未来の日本人に対する先人たちの思いやりが
たくさん詰まっていたことを知りました。
[お知らせ]
2013年7月26日(金)~9月1日(日)まで、
無印良品有楽町2F・ATELIER MUJIにて『MUJIキャラバン展』を開催中。
各地で出会った職人をお招きし、各種ワークショップも実施しております。
夏休み中のお子さんとご一緒にいかがですか?
- 「ギザギザはさみで切り絵を作ろう」
8月4日(日) 11時~(満員御礼)、14時~、16時~ - 「"もくもく絵本"で物語を作ろう」
8月24日(土)11:00~、13:30~、15:00~、16:30~
ATELIER MUJI「MUJIキャラバン展」イベント情報はこちら
(各イベント要予約 ※申込は定員に達し次第終了致します)
美味しい食づくりを通じて伝える心
長野県下高井郡、野沢温泉村。
日本屈指の標高差を誇るスキー場を有する温泉街には、
冬になると世界中からスキーヤーたちが集まります。
この地を初夏に訪れた私たち。
そこには、熱い温泉と熱い想いを持った人たちによる、
オフシーズンでも楽しめる、様々な取り組みが待ち受けていました。
まず訪れた先が、村のホテル「住吉屋」さん。
風情ある旅館といった雰囲気ですが、
前社長がホテルのプライベート性と旅館のサービスの良いところを目指して
「村のホテル」と命名したそう。
また、贅を尽くしたサービスよりも、
普段着の心でのお出迎えをモットーに、
料理も、野沢で昔ながらに食されているおかずを提供しています。
その代表格が"取り回し鉢"と呼ばれる、
野沢に江戸時代から伝わる祝い膳料理。
特別な材料を使ったものではなく、
地元の野菜や山菜を使った田舎料理で、
夕飯時に2〜3品選ぶことができるそう。
素材の持ち味を生かした素朴な味付けで、
都会ではなかなか巡り合えない味わいです。
それもキチンとした説明と共に提供してくれるのが、うれしいところ。
こうした昔ながらに食べられている味覚こそが、
本当に旅人が求める味なのではないでしょうか?
過剰なサービスはありませんが、十分に心のこもった住吉屋さんのお出迎えは、
無印良品的な宿とでも言いたくなるほど心地の良いものでした。
続いて訪れたのは、ハウスサンアントンジャム工房。
オーストリアで学ばれたというジャムづくりを手掛けるのは、
なんと過去2回もスキーの日本代表としてオリンピックに出場したことのある、
片桐幹雄さんと奥様の逸子さん。
主に長野で採れる厳選した果実と、
腕自慢のシェフの力を使って、
「素材に新しい命を吹き込むようなピュアで素材感たっぷりのジャムを作ろう!」
という想いから、ジャム作りをスタートされたようです。
「同じフルーツでも、その年の気候で味も香りも異なるんです。
素材そのものの味を引き出すよう心掛けているので、
毎年、味が違うんですよ。ほら、ワインだってそうでしょ」
そう話す片桐さんご夫妻のジャム&ジュースは、
常に最高の出来を追求した逸品です。
そのお味は、口の中いっぱいに自然の甘みが広がりました。
Found MUJIを扱う一部の無印良品の店舗でも、
お買い求め頂けます。
こうしてジャムの製造販売を始めたことによって、
スキーのオフシーズンでも、
この地に雇用を生み出していくことができるようになったと言います。
そんなハウスサンアントンさんのジャムがよく合うパン工房があると紹介され、
伺ったのは、長野市にある「ベッカライ麦星」。
偶然にも前述の片桐さんと同様、
オーストリアでパンづくりを学ばれてきたという鈴木さんご夫婦が営む、
ライ麦パンを主としたパン屋さんです。
薪で焼き上げる理由は、
間伐材を燃料にすることで少しでも森の循環を取り戻したかったから。
ライ麦というのも、雪国でも育つ農作物として、
追々は近隣の休耕畑を生かしたいと考えているからだそう。
一つひとつに想いのある工程から作られたライ麦パンは、
想像していたような酸味は少なく、まろやかな甘みすら感じる味でした。
「ライ麦パンというのは、正しく発酵させてあげれば、
酸味を抑えることができるんです。
今はまだまだですが、美味しいライ麦パンづくりを通じて、地域に貢献したい」
ここにも一つ、これからの時代における、
ものづくりのヒントが眠っていました。
美味しい食づくりを通じて心を伝え、
それが新たな需要を生み出すことに繋がる。
長野で出会った取り組みは、着実に実を結び始めています。
原点回帰
長野県に入り、信州蕎麦でも食べたいなと、
ふらっとお蕎麦屋さんに入りました。
時を忘れるようなひと時を過ごしてほしい、
と、名付けられたお店の名前は「時香忘(じこうぼう)」。
木の廊下を曲がった先には、
確かに現実を忘れるような空間が広がっていました。
「昔は、小麦粉なんてなかったから、
蕎麦粉十割で打つのが当たり前だったんです」
元商社マンだったという亭主が、
そう話しかけてきてくれました。
原点に立ち返り十割で打たれた蕎麦はみずみずしく、
蕎麦の味が口いっぱいに広がる美味しさでした。
「原点に立ち返ることの大切さは、
この会社に教わったともいえます」
そう亭主に強くお薦めされ、ご紹介頂いたのが、
長野県伊那市にある「伊那食品工業株式会社」。
敷地に入った瞬間から、
なんて素敵な会社なんだろう、と感じるほどの雰囲気が漂っています。
一見、どこかの公園の写真のようにも見えますが、
れっきとした伊那食品工業の会社の敷地の一角です。
歩いている方々は、地元か観光客の人たち。
そう、敷地内は誰もが出入り自由なんです。
「敷地内の緑は、すべて社員たちの手によって整備しているんですよ」
突然の訪問にもかかわらず、快く迎えてくださったのは、
営業推進部の太田課長。
「もともとは社員の憩いの場の整備のつもりだったのですが、
それが自然と社外の人たちにも受け入れられるようになりましてね」
太田課長がそう話すように、
地元の人たちの憩いの場になっている敷地内には、
中央アルプスからの伏流水を汲み上げた水汲み場があったり、
レストランやショップがあったり、
さらには、無料で身体測定をしてもらえる施設まで。
標榜していないものの、会社の発展は地域の人たちの健康と共に、
といった会社のスタンスを表しているかのようです。
会社の一角には、こんな社是が掲げられていました。
「いい会社をつくりましょう。」
この社是の補足文章には、こう続きます。
「いい会社とは、単に経営上の数字ではなく、会社を取り巻くすべての人々が
『いい会社だね』と言ってくださる会社のこと」
この文章を読んだとき、上記のような施設があるのも納得させられました。
100年先の会社の維持発展を目指して掲示されている「100年カレンダー」は、
現場では当たり前のように、顧客先や関連企業の機械のメンテナンスや
入れ替え時期を明示するためのツールとして活用されているそうです。
自社のみならず顧客先や関連企業の維持発展も、
重要な仕事と考えているのです。
そんな伊那食品工業では、
創業以来、一度もリストラを行ったことがありません。
さらに、寒天という斜陽産業のなか、
ブームの到来する平成18年までのあいだ、
48年間増収増益を果たしてきたといいます。
経営理念には、
「企業は社員の幸せを通して社会に貢献すること」
と明記してある通り、
社員には家族や趣味を大切にするように促しているそうです。
そして、例えば社員の釣り好きから発展して、
釣りで使用するワームを寒天で開発したりなど、
社員の趣味から仕事に展開されることも多々あるんだそう。
社員も草木も生き生きしているように見えたのは、
こうしたブレない経営理念から来ているものなのでしょう。
塚越寛代表取締役会長の言葉を紹介します。
「日本社会には今、『改革』という言葉が満ち溢れています。
真の改革とは、本来あるべき姿に帰ること、つまり『原点回帰』にほかなりません」
原点を見つめ直すことの大切さは、
これまでのキャラバンでも多々、感じてきたことでした。
この原点こそが、伊那食品工業にとっては"寒天"であり、
経営視点では"社員の幸せ"なんだろうと思いました。
伝統産業に新しい付加価値を与えながら発展し、
社員とその周囲の幸せの波紋を広げていく姿は、
これからの企業が目指すべきモデルといえるのではないでしょうか。
飲む野菜の酢「SURARA」
浅間山の山懐に抱かれた佐久(さく)市は、長野県屈指の米どころ。
この地では、八ヶ岳の伏流水とその冷涼な気候を利用した酒造りが
昔から盛んに行われてきたそうです。
今回は、1887年創業の「芙蓉酒造」さんを訪ねてきました。
酒蔵ではお酒造りの真っ最中ですが、
お酒造りは寒い冬に行うものだったはず。
伺ったところ、
「日本酒は低い温度でゆっくりと発酵させていくものですが、
焼酎は暖かい中でも造れるんですよ」
と教えてくださいました。
確かに東北地方では日本酒が多く、九州地方では焼酎が
多く造られていますものね。
蔵を見せていただくと、長いも、ねずみ大根、
レタス、かぼちゃ、えのきだけ
などと書かれた樽がたくさん。
お芋以外の「野菜焼酎」って、
ありそうでこれまでに出会ってこなかったものです。
お酒造りは、原料によって必要な免許が違ってくるようで、
野菜を使った焼酎を造れる酒蔵は数少ないんだそう。
その情報は口コミで広がり、芙蓉酒造さんでは、
信州で採れた地の野菜を使った焼酎造りをはじめ、
全国の特産物を使った焼酎も委託製造されているそうです。
さて、これまでにも何軒か酒蔵さんにお邪魔してきた私たちですが、
やはりまだまだ分からないことが多いお酒造り。
すると、
「僕ももともと素人でしたから。そもそも飲料には
」
と、黒板を使って丁寧に説明くださりました。
教えてくださった、企画開発部部長の依田さんは、
もともと東京で音楽業界の仕事をしていたそうですが、
4年前に実家に戻り、お酒造りを始められたそう。
そして、彼が1人で企画・開発・製造を手がけるのが、
Found MUJIを扱う店舗で販売中の
「飲む野菜の酢SURARA」なんです。
レタスは清涼感があり、かぼちゃはほっこりと甘く、
えのき茸はまろやかな味わいが魅力です。
いろいろな種類の焼酎が増えてきて、
それを何かに活かせないか
というところから
考案されたのがお酢造りだったといいます。
「負けん気が強いんで、手ぶらで実家に帰るのは嫌だったんです」
と依田さん。
東京で働きながらも、週末に情報収集を重ね、
3年間の研究を経て、2011年7月に発売したのがこの飲む酢でした。
お酢造りの工程は、途中までお酒造りのそれと同じだそうですが、
全国的に見ても、酒蔵がお酢を造るのは珍しいのだそう。
それよりも、むしろタブーとされてきたんだとか。
「初め、お酢造りの構想を父親に話したら、猛反対を受けました。
他の周りの人からもバカか
と言われましたね」
さらに、お酒業界は情報流通があるようなのですが、
お酢業界には情報の流通があまりないのだそう。
「お酢造りについて、聞く相手がいなかったのが一番大変でした」
業界の常識を打ち破ってまでSURARAを生み出した依田さんには、
並々ならない信念を感じました。
"お酢を楽しく飲んで、健康で軽やかな人生を過ごして欲しい"
というコンセプトのSURARAは、
ドリンクとして飲むほかに、料理の調味料としても、
もちろんお酒と合わせても相性バツグンだそう♪
永年培われてきた技術を活かして、新たなコトに取り組む姿勢。
モノづくりだけでなく何事にも、参考にできるヒントではないでしょうか。
ほお葉祭り
「木曽谷では昔から"朴(ほお)の葉"を様々な形で生活に使ってきました。
6月に行われる『ほお葉祭り』に向けて準備中です。
よかったら遊びに来てください」
Twitterでキャラクターのほおちゃんからこんなメッセージをもらい、
ちょうど近くを通った私たちは、ほお葉祭り実行委員会を
訪ねることにしました。
これが朴の葉。
もともと、「ほお」は「ほう」(包)の意で、
大きな葉に食べ物を盛ったことからの命名だそう。
昔は葉っぱがアルミホイルの代わりでした。
長野県木曽地方と岐阜県飛騨地方周辺の郷土料理のひとつ、
「ほお葉寿司」もそうです。
昔から農業・林業を生業とする家庭が多く、
昼食を畑や山で採ることが多かった為、
携帯性が良く、殺菌効果で日持ちし、
さらに近隣との作業の助け合いで、お裾分けにも便利な
このほお葉寿司が広まったといいます。
また、柏の木が育たないこの地域では端午の節句に、かしわ餅の代わりに
「ほお葉巻き」(米の粉を練った餅にあんこを包んだ和菓子)
を食べてきたんだそう。
葉の香りで、中のお寿司も一段と味わい深くなるのも
先人の知恵ですよね。
「ほお葉巻きはたくさん作って、ご近所に配っていましたよ」
と実行委員の丸山さん。
ほお葉巻きが地域のコミュニケーションの
きっかけになっていたのかもしれませんね。
当時は、各家庭の庭に必ず朴の木が生えていたほど、
朴の葉は人々の生活に欠かせないものだったようです。
しかし、時代の移り変わりと共に、朴の葉の活用が減ってきており、
この文化を絶やしたくないと10年ほど前から、
上松(あげまつ)町を中心に始めたのが「ほお葉祭り」だそうです。
「ほお葉寿司」や「ほお葉巻き」の調理体験コーナーや、
ほおの葉を使ったグッズなどが販売されているようですよ。
「先人の知恵を絶やすことなく、私たちも学びながら
次の世代にも伝えていきたいと思います」
木曽の恵みを"ほおば"る、「ほお葉祭り」は
6月初旬〜7月頭まで、木曽町・上松町・大桑村・南木曽町・木祖村・王滝村の
道の駅他の会場で開催されているそうです。
ちなみに、この時期がちょうど朴の葉が採れる季節なのだそうですが、
これは毎年端午の節句に合わせての開催なんだとか。
そう聞いて、頭に「?」マークがつきました。
だって、5月5日はもう既に過ぎていますから
。
聞いてみると、この地域では昔から端午の節句は
6月5日に祝うんだそうです!
そういえば、道中、鯉のぼりが空を泳いでいるのを見て、
てっきりまだ片付けていないだけかと思っていたのですが、
そういうことだったのですね。
森の木々がより緑深くなる旧暦に合わせているのでしょうか。
どちらにしても、季節を味わう行事が根付いていることは
本当にステキなことだと再認識できました。
夏を楽しむコツ
無印良品では、元気に心地よく夏を過ごすために、
「夏コツ100選」と題した、夏のコツをご紹介しています。
私たちが長野市で訪れた、無印良品MIDORI長野店では
こんな夏の人気商品を教えていただきました。
水の中にポンッと入れるだけで、
アイスティーやジュースが簡単に作れるティーバッグです。
夏の暑さ対策のひとつは、水分補給にあるっていいますものね!
またその種類が多いのがうれしいところ☆
スタッフさんのお薦めはそれぞれ、
「水出し ブルーベリー&クランベリー」と「水出し 茉莉花茶」
だそうです。
家庭で作る際には、私たちも自宅で愛用していた
「アクリル冷水筒」を使うととっても簡単。
横に寝かせて冷蔵庫に収納できるのが便利なんです。
また、外出時にいいのが「組合せできる ステンレス保温保冷携帯マグ」。
キャラバン隊の旅のお供として大活躍中です!
運転中に片手でふたを開けられるのがいいんです。
この夏の私たちの目標のひとつは、水出し飲料シリーズを全制覇すること!
ちょっとした工夫で夏の暑さもワクワクに変わるかもしれませんね!?
気持ちいい街づくり
東西に約128km、南北に約220kmと広い長野県。
各地域の異なる気候風土により、北信、東信、中信、南信と4エリアに分けられるほど、
なかなか一括りにまとめて表すことのできない県です。
そんな中に、興味深い発展を遂げている街が2つありました。
1つは中信の松本市。
かつて、松本城を中心とした城下町として栄え、
いまだ街並みはその時の風情を残しています。
その多くは、民芸品・工芸品を扱うお店が占めているんです。
手仕事の日用品の中にこそ「用の美」があると、
20世紀初頭、柳宗悦を中心に始まった民芸運動に、
松本出身の池田三四郎が加わり、
その運動を広げていったことに由来するそうです。
そんな歴史がある町ゆえに、街の人の懐も深く、
全国から工芸師が集まる町として発展しました。
一方、善光寺の門前町としての風情が残るのが、長野市。
松本市の城下町の雰囲気とはまた異なり、
善光寺参拝の宿場町として栄えていた雰囲気が漂っています。
ただ、昨今では、古くなった空き家が取り壊されるなど、
徐々にその風情も薄れつつあったそうです。
そんななか、古き街並みを活用しながら、
新しい試みを始める方々にお会いすることができました。
まずは、無印良品のスタッフの方にご紹介頂いた、
「ch.books(チャンネルブックス)」という長野市にある本屋さん。
もともと、同じ出版社に勤めていたという共同経営者のお二人。
青木さん(男性)は、東京のデザイン会社からのUターン組で、
島田さん(女性)は、2年に及ぶ世界一周を経て、今に至ります。
「チャンネルというネーミングは、
ちゃんとアイディアを練る、ちゃんと寝る、といったあたりからきてるんです。
前職ではあまり寝ることができなかったので、
ちゃんと人間らしい生活を送ろうという想いも込めて(笑)」
そう話してくれたお二人のアジトは、
写真では伝わりにくいと思いますが、
なんと築80年ともいわれる建屋を改築したもの。
風情ある佇まいの中では、時間もゆったりと流れている感じがして、
まさに、お二人がいう「人間らしい生活」が送れる空間なような気がしました。
続いて、青木さん島田さんも親しいという
BOOK&CAFE「ひふみよ」さん。
大好きな本とコーヒーに囲まれながら、
おばあちゃんの家のような懐かしい空間をつくりたいと、
古い建屋を改装して、この店を始められたのが今井さんです。
結婚を機に、好きなことを仕事にしようと決め、
奥さまの実家のある長野へとIターンで移り住み、このお店をスタートされました。
お店のコンセプト通り、古い建屋を改装した2階のカフェは、
何とも懐かしい雰囲気が漂っていました。
経営は大変ですが、大好きなことに携われているから幸せ、という今井さん。
「このご縁があったのも、門前暮らし相談所の開催する
"空き屋巡り"に参加したからなんです」
そう今井さんにお聞きし、
"空き家巡り"を主催する「ナノグラフィカ」の清水さんにお会いできました。
ここ門前で20年ほど前から活動している方です。
地元雑誌用の写真を撮ったり、記事を書いたりする仕事の傍ら、
善光寺のそばにある古い民家を利用した喫茶室や空き家巡りなどを
企画・運営されています。
清水さんによると、門前地区が今のような形に発展していったのは、
ここ2~3年ぐらいの話なんだそう。
「自分たちが慣れ親しんでいた古い街並みが
次々と壊されていくのを、見ていられなかったんです。
最初は単純にそんな想いからでした」
事実、昭和30年代には約1万8000人いた門前町の人口は、
平成20年に約6000人にまで減少。
増え続ける空き家が次々と壊され、新しい建物が立ち並ぶ様に
我慢できなくなった清水さんは、まずは空き家の現状から調査しました。
そして、貸出可能な空き家を洗い出し、大家さんと交渉。
そこへ移り住みたい人を募集し、"空き家巡り"のツアーを開催しました。
平成21年から始めたこのツアーは今年の5月で既に16回を数え、
結果、30軒ほど空家への入居が決まったそうです。
驚いたのは、清水さんはそれをすべて無償でやっているということ。
「街づくりをやろう、ではなく、好きでやっていることなんで。
今あるものをうまく使って、違う形で街が進化していければいいなと。
昔を取り戻すのではなく、未来は新しく変化していっていいと思ってます」
そう話す清水さんのスタンスは、あくまでもニュートラル。
「こうしなければいけない」ではなく、「こうなればいいな」
という、自分の中から自然に湧き起こる想いを行動に結び付け、
それに賛同する人たちが、全国から集まりだしているわけです。
その後、行政も巻き込んで、
「門前暮らしのすすめ」という冊子も発行されています。
人々の想いに、行政が後から付いてきているのです。
こうして、若い人々を中心に歴史ある街においても
新しい取り組みが育っていることを知りました。
街の人々の魅力とエネルギーに、奮い立たされるキャラバン隊でした。