履き心地の良い靴下
普段は当たり前だと思っていることでも、
よくよく考えてみると不思議なことってありますよね。
「なぜりんごは落ちるのか?」の疑問から
ニュートンが万有引力を発見した話はあまりにも有名ですが、
まだまだ日常に疑問は眠っています。
例えば、「なぜ日本車は右ハンドルなのだろう?」とか、
「なぜバレンタインは女性から男性にチョコレートを渡すのだろう?」
「なぜテレビは長方形になったのだろう?」などなど
。
そこには様々な背景が隠されているのですが、
得てして、外からの目線で気付くことが多いものです。
無印良品の足なり直角靴下も、こうした疑問から生まれたそう。
「なぜ人のかかとは90度なのに、靴下は120度なのか?」
そんな疑問を抱いたのも、無印良品の開発担当者が、
チェコのおばあちゃんが編んだ90度の靴下に出会ったことからでした。
疑問を解消すべく、靴下の歴史について調べていくと、
1560年頃、エリザベス女王1世に贈られたという手編みの靴下が、
直角だったことが分かります。
120度の靴下が一般的になったのは、工業化以降のことで、
機械で量産できる角度が120度だったというわけなのです。
さらに、靴下をお店に並べる際、かかとから半分に折り畳むため、
キレイな形に畳めるように、角度が決められていたんだとか。
つまり、生産効率や店頭での見た目の美しさが重視され、
形による履き心地については注目されないまま、現在に至っていたわけです。
チェコのおばあちゃんの手編みの直角靴下は、
かかと部分がすっぽりと収まって余ることなく、ズレ落ちにくく、
とても履き心地の良いものだったそう。
そんな直角靴下の履き心地の良さを、
もっと多くの人に手軽に味わってほしい。
無印良品の開発担当の想いから、編み機の改造を加えるなど試行錯誤を重ね、
2006年11月、満を持して3種類の「足なり直角靴下」が誕生します。
大ヒット商品となり、2010年2月にすべての靴下が直角となり、
2012年10月には、さらなる履き心地の良さを追求してリニューアルを果たしました。
そんな無印良品の「足なり直角靴下」を作る現場を訪ねました。
実は、奈良県は靴下の国産生産約6割を占める一大産地。
1910年代に、とある農家が農業の閑散期における副業として、
アメリカから靴下製造の機械を導入したことがきっかけで、
今も納屋に機械設備を構える家内工業の生産者が多いそう。
ただ、最盛期には920社あったといわれる生産者も、
2000年以降、安価な海外産の靴下に押され、現在では150社ほどに減少。
それでも、これだけの生産者が残っているのは、
国産の品質の良さが評価されてのことです。
驚いたのが、その糸の種類の多さ。
昨今、様々なデザインの靴下があるので、
糸の色の種類が豊富なのは分かるのですが、
なんと1足の靴下に表糸、裏糸、ゴム糸に加え、柄糸と、
3種類以上の糸が使われているのです。
これも足によりフィットさせるための工夫で、履き心地を追求した結果です。
工場内は、リーズナブルな価格で提供できるようにと、
驚くほどの機械化が進められていました。
編み方を指示すると、自動で刺繍の様な織柄も含め編み上げてくれるという優れた機械。
5分ともしないうちに、1本の靴下が編み上がっていきました。
この時点ではつま先部分は縫合されておらず、なかには連なっているものも。
「この機械を使いこなせるか。ここがメーカーの腕の見せ所」
その道47年の生産革新部の向井部長はそう語ります。
この工場では右足用と左足用とで編み分けており、
こうした技術が培えたのも、普通なら機械を調整する会社しか触らないところも
積極的に自分たちでいじって、改良を加えていったからだそう。
右足用と左足用とで作り変えている箇所も、
かかとの内側と外側のアーチの角度だとか。
ここまで細部にこだわった靴下ですから、履き心地が悪いわけがありません。
左右によって違う靴下は「R」と「L」の刺繍の様な織柄が目印です。
実は、向井部長は、過去に健康を害し入院生活を送ったことがありました。
そんな寝たきり状態では、それまで履いていた靴下がとてもキツく感じたそうで、
より履き心地の良い靴下を開発しようという想いが巡ったんだとか。
靴下って健康と同じで、不快に感じると気になるものですよね。
私たちもこの旅でずっとこの足なり直角靴下のお世話になっていますが、
今まで一度も不快に感じることも、買い換えることもありません。
それだけ足になじんでいて、さらに丈夫なのです。
最後に吉谷社長は、靴下生産にかける想いをこう語ってくれました。
「一度、技術を途切れさせてしまったら、復活させるのは難しいことです。
この技術を途絶えさせないように、雇用を大事にしながら、
常に新しい技術革新を起こしていきたいです」
無印良品の足なり直角靴下は、
こうした様々な方たちの「想い」が結晶となったものでした。