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日田の理想的なものづくり
大分県日田市大山町。
筑後川の本流にあたる大山川が流れ、四方を緑に囲まれた山深い場所です。
ここは「梅の里」としても知られ、毎年3月上旬から一斉に花が咲き始め、
辺りは梅の花の良い香りに囲まれるそうです。
大山町では、当時政府が米の増産を推進していた1961年に、
米作には不適な山地の地理的特性を生かして、
作業負担が軽く、収益性の高い梅や栗を栽培する
「NPC(New Plum and Chestnut)運動」を開始。
「梅栗植えてハワイに行こう!」というキャッチフレーズを掲げて推進し、
その結果、実際に全国でも住民のパスポート所持率が高い町になったとか。
「平成8(1996)年に特産品である梅の古木を活用した
ものづくりをしようという話がありまして」
そう話す矢羽田匡裕(やはたまさひろ)さんは、
26歳でサラリーマンを辞めて、農協主体の「梅の木工房」に参加。
もともと好きだったものづくりの分野で、
地元でできることを探していた時に、木工の世界に入りました。
矢羽田さんはその後独立し、
現在は大山町で工房「ウッドアート楽」を営んでいます。
「前職は金型設計の仕事でした。
自分の作ったものがどう役立っているのかが見えにくかった。
今は自分がゼロから作ったものに対するお客様の反応が明らかで、
うまくできたら売れるというのが面白いですね」
そんな矢羽田さんの工房の入り口で目に留まったのが、
成人の背丈よりも高い枝の束。
これは剪定した梅の枝でした。
枝の形状をそのまま生かし、矢羽田さんが手掛けたのがお箸。
梅の木独特の赤茶色の木肌がそのまま残された、
シンプルながら存在感のある逸品です。
それまで剪定された枝は、燃料になる他は廃棄されていたそうですが、
矢羽田さんは木と向き合う際に次のように考えると話します。
「木工の師匠から2つのことを教わったんです。
1つには、育つのに100年かかった木だから100年使えるものづくりをすること。
2つには、限りある資源だから無駄なく使うということ」
矢羽田さんはその考えのもと、梅のほかに、桜や杉などの地元材も使いながら
オリジナル商品の開発やOEM生産も行っています。
「日田には"絞り丸太"という、幹の表面に
天然の凹凸模様を持つ杉があり、昔は床柱に重宝されていました。
山主から『せっかくいい木があるんだから、何かに使えないか』
という話があって」
"九州の小京都"と呼ばれる日田市豆田町にある、
日田産の家具や雑貨を取り扱うセレクトショップ「Areas(エリアス)」
のオーナー兼デザイナーの仙崎雅彦さんは、お店を始めた当初から
矢羽田さんにものづくりをお願いしてきました。
通常、木材は芯(年輪の中心)を残したままだと
後から割れてしまうという課題があります。
それでも、独特の美しい波状模様を持つ、絞り丸太の年輪に惚れた仙崎さんは、
どうにかできないかと矢羽田さんに相談。
すると、木を切ってすぐの生木の状態で特殊加工を施すことで、
割れを解決することができると分かりました。
「これは山と加工場が近くないと実現できないものづくりですよね」
と、仙崎さん。
特殊加工された日田杉の絞り丸太は、
矢羽田さんの手によってひとつひとつ削られ、カップへと形を変えていきました。
この絞り丸太のカップは内側の年輪ももちろんですが、
カップの外側には、樹の表面の出絞(でしぼ)模様が現れ、
天然木ならではの、自然が生み出す意匠を楽しむことができます。
「日本は世界から"森林破壊のテロリスト"と呼ばれているんです。
日本は森林保有率を豪語しながら、
一方で海外の木材を使って、海外の森に影響を与えている。
森を守るためには木を使うことが必要なので、
もっと自国の木を使えば、みんながwin-winになれるんですよ」
森林に苗木を植えてから15~20年ほど経った後に
一部の木々を間引く"間伐"という作業がありますが、
どうせ後から間引くのなら最初から少なく植えればいいと思うかもしれません。
しかし、仙崎さんの話によると、
最初から少なく植えてしまうと、後から使うのが難しい木が育つんだとか。
「通常の木も間伐材も、それぞれにメリット・デメリットがあり、
その両方を伝えていかないといけない。
日本の森林を活用していくためには、
1次・2次・3次産業が三位一体でやっていく必要があると思っています」
消費者の声を聞き、山主さんとも直接つながる仙崎さんが商品を企画し、
地元の木材を活用して、木工のプロである矢羽田さんがそれを形にする。
理想的なものづくりが日田では行われていました。
長期熟成麦味噌
おふくろの味の代表格ともいえる「みそ汁」。
出汁、味噌に加え、具材も各家庭によって千差万別であるため、そう称されています。
このキャラバンでは各地の味噌に出会ってきましたが、
毎回新たな発見があるのが、味噌の面白いところ。
実は、味噌とルーツを同じくするといわれる醤油には
JAS(農林水産省)による規格が設定されているのに、味噌には設定されていません。
というのも、味噌はあまりにも種類が多く、
グループに分けて規格を規定するのが難しいということと、
味噌の多くが加熱殺菌をしない、いわば"生き物"であることが主な理由とか。
そんな数ある味噌のなかで、今回は大分県臼杵市で製造されている、
「蔵づくり長期熟成 麦味噌」の現場にお邪魔してきました。
麦味噌は、かつては農家の自家用として造られたものが多く、
別名「田舎味噌」とも呼ばれており、全国に分布しています。
なかでも、私たちが全国を回った感覚からすると、
九州地方には麦味噌が多いイメージがあり、
そして、"麦味噌=甘い"という印象が脳裏に刻まれています。
しかし、なぜ九州は麦味噌が多いのでしょうか?
そしてまた、なぜ麦味噌は甘いのでしょうか?
「この辺りでは、もともとお米づくりの裏作として麦を育てていたから
麦味噌を造るようになったのだと思います。
ちなみに麦味噌が甘いのは麹歩合が高いからですよ」
そう教えてくださったのは、製造元の二豊味噌協業組合の専務理事、
渡邊郁(かおる)さんです。
「パッケージの裏を見てみてください。
原材料名のところに、原料の多い順に表示がされていますが、
麦味噌の場合、大豆よりも麦が先に書いてあるでしょ」
渡邊さんいわく、米味噌の場合、大豆10に対して米麹の分量が7〜8のところ、
麦味噌の場合、大豆10に対して麦麹の分量がおよそ25。
米や麦に含まれるデンプンが麹によって糖化するので、
麹に使う原料(米や麦)の量が多ければ、その分甘くなるということなのです。
さらに、一般的に米味噌の塩分が約12%なのに対して、
麦味噌の塩分は約10.5%といわれており、
麦味噌は塩分が低い分、みそ汁に入れる味噌の量が多くなり、
その分甘くなるんだとか。
では、同じ麦味噌のなかでの味の違いは何でしょう?
「『蔵づくり長期熟成 麦味噌』には、大分県産の裸麦を使用しています。
裸麦は殻がない大麦の一種なのですが、これをさらに25%削って使っています。
お酒でいう吟醸ですよね」
写真下左が削る前の裸麦で、右が削った後の裸麦。
削ることで、体積に対して麹がすみ着く表面積が大きくなるため、
麹の働きがより活発になるそう。
また、味噌になった時のくすみをなくすことも目的だといいます。
「大豆の表面の皮も取ってから使っています。
仕上がりが鮮やかな色になるのと、のどごしが滑らかになりますからね」
続いて、こだわりの原料から実際どのように味噌が造られているかを
工場長の上野康成さんにご案内いただきました。
「味噌の品質は7割が麹づくりによって決まるといっても過言ではありません。
ある程度の量を仕込むため、機械の力を借りていますが、
良い麹が仕上がるタイミングを見極めるのは、職人にしかできません」
また、良い麹づくりのポイントは適度な水分を裸麦に吸わせること。
天候など日によって、水に浸ける時間は異なるといいます。
「私たちは味噌を造っているとは思っていません。
麹菌などの菌が主役ですから、その支援をしているだけなんです」
ちなみに、味噌の味は熟成期間によっても異なります。
一般的な麦味噌は1.5〜2ヵ月熟成させるところ、
「蔵づくり長期熟成 麦味噌」の熟成期間は6ヵ月。
味噌づくりには、麹菌の他に酵母菌の活躍も外せないというのですが、
熟成期間が長いと、酵母菌が麹菌の造った糖分を餌にするため、
甘みが抑えられ、辛口の味噌ができるそう。
「口あたりがとてもまろやかな麦味噌です。
『蔵づくり長期熟成 麦味噌』は地元向けのつもりでおりましたが、
おいしいと感じた味がその人にとってのおいしい味。
ご自身に合う味を見つけてもらいたいですね」
最後に、「蔵づくり長期熟成 麦味噌」の販売元である、
二反田醤油店の二反田新一さんがそうおっしゃいました。
知れば知るほど、奥が深い味噌の世界。
パッケージ裏の原料や熟成期間などを意識して、
自分好みの味噌を探してみてはいかがでしょうか?
毎日のみそ汁がもっと楽しみになるかもしれません。
【お知らせ】
MUJIキャラバンで取材、発信して参りました生産者の一部商品が
ご購入いただけるようになりました!
その地の文化や習慣、そして生産者の想いとともに
産地から直接、皆様へお届けする毎月、期間限定、数量限定のマーケットです。
[特設サイト]Found MUJI Market
ようこそ、大分へ!!!
大分市の無印良品トキハわさだタウン店へ。
すると、「ようこそ、大分へ!!!」の旗を掲げて
スタッフさんが迎えてくださいました。
とってもうれしかったです♪
早速、こちらのお店の人気商品を伺いました。
「大分って30代前半で家を建てる人が多いんですよ!
それもあってか家具や収納用品の人気が高いですね」
以前、福島県でその工場を訪ねた「ポリプロピレン収納用品」は
その代表格だそう。
そういえば、この収納用品は日本だけならず、
ヨーロッパのMUJIでも大人気なんだそうです。
"この隙間を利用して物を収納したい"という要望に
幅広いサイズで応えてくれます。
それから、オーダー家具も注目度が高いそう!
新築のお宅に合わせて家具をオーダー
憧れます☆
続いて、スタッフさんお手製の旗に描かれていた
大分のおすすめグルメ情報をお裾分けします。
水産品の高級ブランドとして知られる「関サバと関あじ」は
大分市の佐賀関で水揚げされるもの。
関サバ・関あじが漁獲される豊予海峡は、
波が高く、海底の起伏が複雑で漁網を使った漁が難しいため、
伝統的に「一本釣り」が行われているんだそうです。
どちらも身がギュッと締まっていてすごい弾力でした!
こちらは大分県の郷土料理「とり天」
大分県の鶏肉消費量は全国でも上位にランクインしていますが、
その理由がこの「とり天」にあると言われるほど、
県民にとっては極めて一般的な料理なんだとか。
唐揚げ粉ではなく天ぷら衣を用いる点や、
ポン酢醤油などのつゆにつけて食べる点が特徴です。
最後に「だんご汁」と「やせうま」
これらも大分県の郷土料理で、
県内の飲食店でよく見かけたメニューです。
「だんご汁」を食べてみて最初の感想は、
「あれ? だんごじゃない!」ということ。
そして、「やせうま」を食べてみて気づいたことは、
「あれ? だんご汁と一緒だ!」
この2つに共通しているのが、小麦粉で作った平たい麺。
「だんご汁」は味噌仕立ての汁に、ごぼうや人参、しめじ、白菜
などの野菜と平たい麺が入った家庭料理で、ほっとする味でした。
「やせうま」は同じ麺を使っていますが、
それにきな粉と砂糖をまぶしたもので、
おやつ感覚で小腹が空いた時に食べるんだそうです。
それを知らなかった私たちは、両方を同時に頼んでしまったのでした 。
小鹿田焼
日田市内から車で20〜30分の山間にひとつの集落があります。
小鹿田(おんた)地区。
集落にある家は全部で14軒。
そのうち10軒が小鹿田焼(おんたやき)の窯元で、
そのすべてが開窯時から続く柳瀬家、黒木家、坂本家の子孫にあたるそう。
現地に着いて車を降りると、水のせせらぎとともに
重く、木の軋む轟音が耳にとび込んできました。
「ギーッ、ゴトン ギーッ、ゴトン 」
音のする方を見に行くと、そこには水の力で動く杵のようなものが。
これは「唐臼(からうす)」といって、
臼を地面に埋めて、てこの原理で杵を動かす仕組み。
昔は人が足で杵を踏む「足踏み臼」が精米などに使われていたそうですが、
ここでは水流を受けて、陶土を粉砕するのに現役で使われています。
静かでゆったりとした時間が流れる空間に響きわたる、唐臼の音。
なんだか別世界に来たような気分にさせられます。
10窯のうちのひとつを訪ねました。
工房の中を覗くと、ちょうどろくろを回して成形中でした。
今から約300年前、福岡県朝倉郡小石原村にある
小石原焼(こいしわらやき)から分窯したと伝えられる小鹿田焼。
江戸中期、天領であった日田の代官により
日田の生活雑器の需要を賄うために興されましたが、
この地が選ばれたのは、何といっても、登り窯を作るのに適した斜面があったこと、
豊富な陶土や薪、そして水力の利用に便利な自然環境であったから、と考えられています。
使用している原土はもちろん昔も今も地元のもの。
小鹿田焼同業組合で山を所有しているのだそうです。
また、驚いたのが、現在も薪を使い、登り窯でのみ焼いているということ。
これまでいくつかの地域で窯元を訪れましたが、
登り窯は多くても年に1〜2回使用するかしないか。
それは、登り窯で焼く器を一定量準備することが難しいことと、
仕上がりの均一性が保証されないためでした。
では、なぜ小鹿田焼では登り窯を使うことができているのでしょうか?
小鹿田焼の窯元は開窯以来、その数が変わっていません。
というのも、一子相伝を守り、弟子を取らずに
伝統的技法を脈々と守り続けているのです。
つまり、登り窯を使うことも「できている」というより
「使うことを決めてやっている」というのが正しいのかもしれません。
登り窯の容量に合わせて、成形した器を作り込んでいくのです。
黙々と山の中で作られていた焼き物。
小鹿田の窯が一躍脚光を浴びるようになったのは、1931(昭和6)年。
民芸運動の創始者、柳宗悦氏がこの地を訪れたことが、キッカケでした。
『どんな窯でも多少の醜いものが交じるが、この窯ばかりは濁ったものを見かけない』
と驚いた柳氏は、後に「日田の皿山」という紀行文の中で、称賛しました。
さらには、1954(昭和29)年に日本の陶芸界に大きく名を残した
イギリスの陶芸家、バーナード・リーチも陶芸研究のために3週間滞在し、
小鹿田焼は日本はもとより、海外にまで広く知られるようになりました。
それまで半農半陶でやってきた窯元の人たちが
焼き物一本になったのは、割と最近のことだといいます。
さて、これまで見てきた焼き物は、その陶土や釉薬の色が特徴的でも
デザインはシンプルなものが多かったように思いますが、
小鹿田焼には美しい装飾が施されているものが多く目につきました。
ろくろを回転させながら、L字型の金具を当てて表面に刻みを入れていく
「飛び鉋(とびかんな)」や、
ろくろを回転させながら、化粧土を塗った刷毛を打ちつけていく
「打ち刷毛目(うちはけめ)」など、
手仕事の温かさが伝わってきます。
見かけは厚く、どっしりと重そうですが、
実際に持ってみるとそうでもありません。
原料の採取から、唐臼による土作り、蹴ろくろの成形、
そして薪窯による焼成まで、
正真正銘、最初から最後まで手作りの小鹿田焼。
作品に銘(作家名)を入れることを慎み、あくまでも日用品に徹する小鹿田焼は、
今日では雑貨店やデパートなど、あちこちで目にすることができます。
私たちのくらしにも取り入れやすく、
すぐに馴染んでいくのが小鹿田焼の魅力ではないでしょうか。
別府のいいものみつけた
大分県別府市。
市内各地で温泉が湧出し、源泉数は2800ヵ所以上。
日本の総源泉数の約10分の1を占めるんだそうです!
別府では、温泉に浸かるのはもちろんのこと、
温泉から噴出する蒸気熱を利用した「地獄蒸し料理」を
楽しめる場所もあります。
温泉地だからこそのアクティビティですね。
でも、この「地獄蒸し」は観光目的に作られたわけではなく、
昔から湯治目的で温泉に長期滞在している宿泊客が自炊に使っているものだそう。
別府は明治から昭和の初期にかけて、観光地として栄えました。
しかし、その後、観光客の数は伸び悩み、
新しい観光振興のあり方が課題となっていました。
そんななか、16年ほど前から民間と市が一緒になり
地域を見つめ直していく動きが始まりました。
今回私たちが取材したのは、2005年に発足し、
町とアートのつなぎ手として活動を続ける「BEPPU PROJECT」。
2009年に別府現代芸術フェスティバル「混浴温泉世界」を実施し、
現在は同フェスティバル2012の開催準備の真っ最中です。
他にも、中心市街地の活性化を目的に
空き家をリノベーションして、様々な取り組みがなされています。
駅のプラットフォームのように、多くの人が集い交流し、
別府のまちがいきいきとした活動の場となることを目指して作られた
8ヵ所の「platform」があり、そのうちの4スペースの運営を担っているそう。
例えば、築100年のこの長屋はplatform04。
別府の工芸品やアート作品を扱うセレクトショップとして営業しています。
店内にはおもわず手に取ってしまいたくなる、
洗練されたグッズの数々が並んでいました。
この「SELECT BEPPU」店主の宮川さんは、東京都出身。
学生時代に参加した都市デザインプロジェクトをきっかけに別府を訪れ、
大学卒業後、別府に移り住んだといいます。
「別府には面白い人がたくさんいて、
東京ではお金を払って会うようなアーティストさんが
ふらっとお店に来たりするんです」
興奮気味に話す彼女に勧められて、商品の制作現場を訪れました。
商店街の一角にある、platform07「別府竹細工職人工房」では
竹細工職人さんたちが実際に作業している様子を
目の前で見ることができました。
別府竹細工の歴史もやはり温泉とともに歩んできました。
湯治客が滞在中の自炊のために使用するザルなどの竹製生活用品から始まり、
その後お土産品としての市場が拡大し、地場産業として定着したのです。
別府市には全国で唯一の竹細工の訓練学校があり、
全国から竹細工を学びたい人が集まってきているそう。
大阪府出身の竹職人の清水さんもその一人。
大学卒業後、訓練学校で竹細工を学び、そのまま別府の町に住み着いています。
関西弁で冗談まじりにおしゃべりしながら
竹を1mmよりも薄くして、器用に編んでいきます。
話しているうちにいつの間にかこの通り、箸置きを作ってくれました。
まるでリボンを編むかのような早業でした。
もともと東南アジアを旅するうちに竹細工に興味を持ち、
竹細工職人になったという清水さんに
ちょっと意地悪な質問をしてみました。
"海外の竹細工と日本の竹細工の違いってなんでしょうか ?"
「海外にも竹細工の技術が高い人はたくさんいますよ。
王様に献上するモノとか作っていますから。
ただ彼らの作るモノは中国雑技団のように、超人芸というか
。
日本人の作るモノは美しいんです。
そのモノだけではなく、周りの空間も含めて美しくしている気がします」
なるほど。清水さんの言わんとすることが妙に腹に落ちました。
確かに、「SELECT BEPPU」に置かれていた竹細工の商品は
どれも使うシーンの想像を掻き立てられるモノばかりでした。
続いて、伺ったのは「別府つげ工芸」。
昭和5年に建てられた長屋を守り、昔も今もこの地で
つげの木を使った工芸品を作り続けています。
もともとは、3代目の現社長のおじいさんが
くし職人としてスタート。
印鑑や将棋の駒に主に使われるつげの木は、
非常に堅く、細かい細工が可能なんだそうです。
おじいさんが若い頃に作ったというこのブローチ、
その細かいデザインと艶が木材とは思えませんでした。
観光地として別府が賑わっていた頃には、
50人の職人をかかえ、細工品を作っていました。
しかし、お客様が増えれば増えるほど、粗製濫造になり、
ついにはつげの木ではない木材を使ったりもしていたんだとか。
「今は原点を見直している時期なんです。
いいモノを作って、後継者を育てたい。
商品はマネできても、この場所での歴史はマネできないですから」
そう話す安藤社長は、時代に合わせた商品づくりにも余念がありません。
くしの需要が減っていくなか、つげを使ったブラシも作るようになりました。
つげの堅さとブラシの形状が頭皮にマッサージ効果を与え、
またあらかじめブラシに染み込ませてあるツバキ油が
髪に艶を出し、まとまりやすくしてくれるんだそう。
もちろんそれらはすべて手づくりです。
折りたたみブラシのちょうつがい部分にも
つげの木を利用しているのには驚きました。
工房には近所の方たちが集まってきて作業されていました。
「これをきちんとした産業として育てていきたいんです。
職人さんが食べられなくて、商品ができるわけはないからね」
社長の力強いお言葉に、つげ工芸のさらなる可能性を感じながら
工房を後にしました。
ちなみに、「SELECT BEPPU」に置かれていたこれらの商品が
9月末から福岡のMUJIキャナルシティ博多で販売されるそうです!
※詳細はこちら
実物を手に取って見られるチャンスです♪
別府のいいもの、みつけてみませんか?
天領、日田のものづくり
日田の市街地に、古民家を利用した形の、
ひと際洗練されたショップがありました。
Areas(エリアス)。
既にそこから地域密着型を感じるネーミングです。
店内は、日田の家具・雑貨を中心に、
国内外よりセレクトされたグッズであふれていました。
一品一品が何か語りかけてくるような、
そんな雰囲気すら感じます。
ショップを運営するのは(株)hi-countの仙崎さん。
大学卒業後、デザインをする仕事をしたいと、地元の北九州を離れ、
恩師に薦められた日田の家具メーカーへと就職。
かつて幕府の天領として治められていた
日田のものづくりの魅力の虜になった仙崎さんは、
2006年、日田でデザイナーとして独立します。
その後、日田の職人たちと、家具や小物を創作していき、
2009年、念願のショップをオープンさせました。
ゆえに、ショップで扱うものは、
すべて想いを込めて作られたものばかり。
各種家具をはじめ、
日田産の杉を使った「杉玉ペンダント」(ライト)や、
同じく日田産の檜を使ったアロマの香る
「てる坊のおにいちゃん」まで。
「日田には家具から木工細工、畳、焼物
と、
ここまで職人がいる町も珍しいんじゃないですかね。
彼らと日田産の素材を使ったものづくりをすれば、
自ずとそれが個性・ブランドにつながっていくと思います」
仙崎さんがこう考えるようになったのは、
北欧家具に出会ってからだったといいます。
寒い北欧で、家の中を快適な空間にするために追求された結果が、
世界で人気を誇る北欧家具なんだとか。
「北欧家具はあくまでも一例ですが、
その土地の風土や歴史に必ずものづくりのルーツがあるわけで、
各地でこうした動きが活発化していけば、
各地の個性が表れたものづくりができると思うんです」
そう話す仙崎さんの店内には、約300年続く窯元、
小鹿田焼とのコラボ商品もありました。
これぞまさに、ここでしか作れない商品の一例です。
なかには、こんなに器用な商品もありました。
ステンレス製の指輪のなかに、曲げ木が施されているんです。
これを作るのも、日田市内に工房を構える「ウッドクラフト かづ」さん。
特別に工房へお邪魔すると、そこには
良いものづくりに対する飽くなき探求心を持った職人たちの姿がありました。
どれも寸分のズレも許さない丁寧なものづくり。
また、ここは他社が面倒と感じる曲げ木にも積極的に取り組み、
今や卓越した木を曲げる技術を習得しています。
代表の宮原さんいわく、管理せずとも
職人たちは自らの意思で追求・改善を求めるようです。
「この、より良いものづくりに対する姿勢こそが、
日本と他国とのものづくりの違いではないかと感じます」
最後に、仙崎さんはこう話してくれました。
「伝統は守るものではなく、進化するもの。
日田の伝統技術を活かしながら、
現代の生活様式に合わせたものづくりをしていきたいですね」
その力強い視線の先には、
日田のものづくりの未来が見えているような感じさえ受けました。
ここにもまた、その地に根ざして生きる人たちの姿がありました。
土の魅力
地元に帰ると、心が落ち着く。ほっとする。
お盆に一時帰郷した際にも、なぜかそんな気分になりました。
幼い頃、多くの時間を過ごしてきたその場所には、いつ帰ろうとも、
まるでタイムスリップしたかのように、
昔と変わらない光景、味、やり取りが残っています。
故郷に帰る時に襲われるこの感覚は、
多くの方が感じるものではないでしょうか。
「その土地によって違うものに土があります。
人は、自分の故郷の土に囲まれると落ち着くというか、
土には、なぜかそういったことをもたらす効果があるんですよ」
日田市でお会いした左官(さかん)職人の原田さんは、
長い髭をまとった優しい笑顔でそう教えてくださいました。
左官とは、建物の壁や床、土塀などを、
こてを使って塗り仕上げる職種のことで、
日本のみならず、海外でも多くの従事者がいます。
近年、壁の仕上げには塗装やクロスが利用されるなど、
建築物の工期の短縮化の波に押され、左官仕事の需要が減りつつありましたが、
最近になって、味わいのある手仕事の仕上げが見直されつつあるようです。
原田さんのオフィスは、もちろん土壁に囲まれた空間。
確かにそこには、落ち着いた心地の良い空気が流れている気がしました。
左官によって、使う素材もやり方も様々なようですが、
原田さんが主に使用するのは、昔ながらの自然素材の土と漆喰(しっくい)。
それぞれ別に使うケースもあれば、2つを混ぜて使うこともあるそう。
土は、九州の中でも日田から約1時間圏内で採取可能な
地元産のものを使い、
漆喰には、有明海で採れる貝殻を使用しています。
つなぎとして使うワカメは北海道産、
壁割れを防ぐために加える藁は、なんと自前で生産し、
強度を高めるための本麻は、
以前私たちが取材した栃木の野州麻のものでした。
こうしてすべて自然素材から生み出された土壁には、
丈夫で一つとして同じところのない自然模様ができあがります。
驚いたのが、土の産地によって、
ここまで色合いが違うものが出せること。
これはあくまでも一部分にすぎませんが、
原田さんいわく、その土地によって土の色は異なるそうです。
思えば、土地とは"土"の地と書くぐらいですしね。
「お客さんに色を選んでもらうと、
自ずとその人の土地の土色を選ぶ方が多いんです。
であれば、せっかくなのでその方の地元の土を使ったらどうですか?
と提案するんです。
やっぱり地元の土に囲まれて生活すると、安心しますからね」
かつて日本ではよく蔵に使われた土壁は、
そもそも火に強く、中は外気の影響を受けにくいという特徴があります。
さらに調湿効果にも優れており、
内部は快適な空間を通年保てるんです。
傷ついても何度でも再生可能、というのも、ならではですね。
「ふわっと仕上げる。ザラっと仕上げる。
土の肌をどう仕上げるか、それができるのが日本の左官の特徴です。
それによって中の雰囲気が変わるんですよね。
僕らの仕事は、壁を塗っているんですが
実は、空間を作っている仕事なんです」
とても印象的な原田さんの言葉でしたが、
その後、訪れた原田さんの手掛けた喫茶店で、その意味を体感しました。
その落ち着いた空気と、
どこかモダンさも感じさせる空間。
現代の生活様式のなかにも、自然と土を溶け込ませる。
左官の職人技を感じずにはいられませんでした。
豆田町の酒造
実は上にあげた写真は、日田市街で
酒蔵が運営しているカフェ&パン工房「KOGURA」の店内。
一瞬、聞いて耳を疑いましたが、
日田には酒蔵が営む、天然酵母を使ったパン屋さんがあるんです。
その酒蔵の名は「クンチョウ酒造」
かつて幕府直轄の天領として治められてきた日田の豆田町で、
元禄時代(1702年)より続く老舗の酒蔵です。
この酒蔵では、清酒や焼酎はもちろんのこと、
先述の天然酵母を使ったパン屋から、
酒粕を使ったアイスクリームまで展開しているんです。
これまでも各地の酒蔵を訪ねましたが、
ここまで多角経営をしている酒蔵はありませんでした。
酒蔵を守る冨安さん親子にお話を伺うと、
そこには街づくりと密接に関わる酒蔵の姿が見えてきました。
「日田は立地的にも、福岡、大分、熊本の間に位置し、
昔から天領として栄えてきた風情ある街並みもあります。
ただ、観光客が立ち止まって、一息つくような場所がなかったんです。
そこで、地域の酒蔵として一つひとつできることから始めていったんですよ」
まず手掛けたのは、なんと駐車場の整備。
日田観光の中心地であり、酒蔵のある豆田町には、
それまで大型の駐車場がなかったことから、まずは酒蔵の前の土地を購入し、
大型バスも停まれる駐車場にしたのです。
通常、行政任せと考えがちな仕事を酒蔵が率先して行い、
またそれが功を奏したのです。
私たちが滞在している数時間の間にも、
何台もの観光バスが停まっていきました。
同時に、酒蔵のトイレも整備したことで、
多くの方が酒蔵に立ち寄るようになったといいます。
「そうなってくると、次は一休みしていただける喫茶店。
街歩きしながらでも食べられるアイスクリーム、
という感じに、アイデアが膨らんでいったんです」
アイスクリームは酒蔵らしい吟醸酒粕入りのものが一番人気とか。
今では喫茶店で、地元の作家さんの民芸品も扱っていらっしゃいます。
「顔の見える酒蔵を目指しています。
町でも古い歴史を持つ酒蔵なので、
街づくりのなかで酒蔵が果たせることもあるんじゃないかって」
そう話す女将の冨安裕子さんは、
街づくりの様々な委員会にも顔を出しているそうです。
日田では、日田天領祭りの夜のイベントとして、
3万本の竹燈篭が町を彩る「千年あかり」というお祭りも
平成17年より始まっているそうですが、
裕子さんはこのイベントを仕掛けた人のひとり。
同じ大分県臼杵市の「うすき竹宵」や、
竹田市の「たけた竹灯籠 竹楽」にならったものでしたが、
今では、認知も高まり観光客も多く押し寄せるそうです。
これまで昼のお祭りだけの日帰り客が多かったところ、
夜のイベントを開催したことで、宿泊客が増えたといいます。
「ここから先は、一つひとつのお店の頑張りです。
ネットでもモノが買える時代だからこそ、
ここに来てくれた人にしか味わえない魅力を発揮していきたいです」
クンチョウ酒造では、
単に一所の酒蔵として甘んじることなく、
街づくりのなかの酒蔵として発展をしていました。