小鹿田焼
日田市内から車で20〜30分の山間にひとつの集落があります。
小鹿田(おんた)地区。
集落にある家は全部で14軒。
そのうち10軒が小鹿田焼(おんたやき)の窯元で、
そのすべてが開窯時から続く柳瀬家、黒木家、坂本家の子孫にあたるそう。
現地に着いて車を降りると、水のせせらぎとともに
重く、木の軋む轟音が耳にとび込んできました。
「ギーッ、ゴトン ギーッ、ゴトン 」
音のする方を見に行くと、そこには水の力で動く杵のようなものが。
これは「唐臼(からうす)」といって、
臼を地面に埋めて、てこの原理で杵を動かす仕組み。
昔は人が足で杵を踏む「足踏み臼」が精米などに使われていたそうですが、
ここでは水流を受けて、陶土を粉砕するのに現役で使われています。
静かでゆったりとした時間が流れる空間に響きわたる、唐臼の音。
なんだか別世界に来たような気分にさせられます。
10窯のうちのひとつを訪ねました。
工房の中を覗くと、ちょうどろくろを回して成形中でした。
今から約300年前、福岡県朝倉郡小石原村にある
小石原焼(こいしわらやき)から分窯したと伝えられる小鹿田焼。
江戸中期、天領であった日田の代官により
日田の生活雑器の需要を賄うために興されましたが、
この地が選ばれたのは、何といっても、登り窯を作るのに適した斜面があったこと、
豊富な陶土や薪、そして水力の利用に便利な自然環境であったから、と考えられています。
使用している原土はもちろん昔も今も地元のもの。
小鹿田焼同業組合で山を所有しているのだそうです。
また、驚いたのが、現在も薪を使い、登り窯でのみ焼いているということ。
これまでいくつかの地域で窯元を訪れましたが、
登り窯は多くても年に1〜2回使用するかしないか。
それは、登り窯で焼く器を一定量準備することが難しいことと、
仕上がりの均一性が保証されないためでした。
では、なぜ小鹿田焼では登り窯を使うことができているのでしょうか?
小鹿田焼の窯元は開窯以来、その数が変わっていません。
というのも、一子相伝を守り、弟子を取らずに
伝統的技法を脈々と守り続けているのです。
つまり、登り窯を使うことも「できている」というより
「使うことを決めてやっている」というのが正しいのかもしれません。
登り窯の容量に合わせて、成形した器を作り込んでいくのです。
黙々と山の中で作られていた焼き物。
小鹿田の窯が一躍脚光を浴びるようになったのは、1931(昭和6)年。
民芸運動の創始者、柳宗悦氏がこの地を訪れたことが、キッカケでした。
『どんな窯でも多少の醜いものが交じるが、この窯ばかりは濁ったものを見かけない』
と驚いた柳氏は、後に「日田の皿山」という紀行文の中で、称賛しました。
さらには、1954(昭和29)年に日本の陶芸界に大きく名を残した
イギリスの陶芸家、バーナード・リーチも陶芸研究のために3週間滞在し、
小鹿田焼は日本はもとより、海外にまで広く知られるようになりました。
それまで半農半陶でやってきた窯元の人たちが
焼き物一本になったのは、割と最近のことだといいます。
さて、これまで見てきた焼き物は、その陶土や釉薬の色が特徴的でも
デザインはシンプルなものが多かったように思いますが、
小鹿田焼には美しい装飾が施されているものが多く目につきました。
ろくろを回転させながら、L字型の金具を当てて表面に刻みを入れていく
「飛び鉋(とびかんな)」や、
ろくろを回転させながら、化粧土を塗った刷毛を打ちつけていく
「打ち刷毛目(うちはけめ)」など、
手仕事の温かさが伝わってきます。
見かけは厚く、どっしりと重そうですが、
実際に持ってみるとそうでもありません。
原料の採取から、唐臼による土作り、蹴ろくろの成形、
そして薪窯による焼成まで、
正真正銘、最初から最後まで手作りの小鹿田焼。
作品に銘(作家名)を入れることを慎み、あくまでも日用品に徹する小鹿田焼は、
今日では雑貨店やデパートなど、あちこちで目にすることができます。
私たちのくらしにも取り入れやすく、
すぐに馴染んでいくのが小鹿田焼の魅力ではないでしょうか。