MUJIキャラバン

「沖縄」カテゴリーの記事一覧

古くて素朴で新しい、赤瓦

2013年09月25日

沖縄の家々を彩る、赤瓦屋根。

古くから強い台風や塩害から
沖縄人(うちなんちゅ)の生活を守ってきました。

晴れていても突然雨が降り、すぐにまた晴れるという沖縄の気候のなか、
赤瓦は雨を吸収し、晴れた時に蒸発させ、
気化熱によって、家の中を涼しく快適に保っていたのです。

漆喰で塗り固められているのも、瓦が台風で飛ばないようにするためとも、
見栄えを良くするためともいわれています。

もともと朝鮮半島と日本本土、それぞれのルートから
沖縄へと伝わったとされる瓦は灰色でした。

灰色の瓦は、空気を入れずに焼く還元焼成というやり方で、難易度が高く、
沖縄で作る際には、どうしても空気が入って酸化焼成になってしまい、
3割ほどは赤や褐色の瓦になってしまっていたんだとか。

しかし、その希少性からか王族や権力者が赤瓦を好むようになり、
やがてそれが一般的に普及していったそうです。

当初、那覇を中心に作られていた赤瓦でしたが、
海運の発達にともない、沖縄北部(やんばる)から船で運ばれてきた木材と、
瓦に適した良い土があったことから、
那覇東部の港町、与那原(よなばる)町へと産地が移行。

現在でも与那原の町中では、赤瓦の工場を散見できます。

しかし、家の建築様式の変化から、その需要は低迷していました。

そんな状況を打破したかったと、
新垣瓦工場の企画担当、新垣拓史さんは話します。

「悶々とした想いで尻すぼみの家業を手伝うなかで、
ある日、事務所で仲間を呼んで飲み会を開いていたんです。
その時、泡盛を割るためのアイスピッチャーが
結露でビチャビチャになっていたので、近くにあった赤瓦を敷いたんですね。
そしたら、ぐんぐん水滴を吸い取ってくれて…。
その時に、これだ!と思いました」

湿度の高い沖縄では、冷たい飲み物は結露で水浸しになるため、
飲み屋などではコップの下におしぼりを敷くのが定番だったそうです。

それを、もともと沖縄にあった赤瓦を使って解消しようと
新垣さんが生み出したのが、こちらの商品でした。

「赤瓦コースター」

屋根瓦と同じ素材なので硬くて丈夫。
そして、抜群の吸水性です。

はじめは周囲に、硬いコースターなんて売れっこないと反対されたそうですが、
実用性に富み、沖縄らしいこのコースターは、
またたく間に、沖縄土産として定着したそうです。

現に私たちが取材でお邪魔した先々でも、
この赤瓦コースターを敷いて飲み物を出していただきました。

ご覧に通り、コップに付いた水滴は、
みるみるうちに赤瓦に吸収されていました。

「はじめは瓦を小さく薄くすればコースターにできると、
高をくくっていましたが、そう簡単ではありませんでした。
薄くすると乾燥時に曲がってしまう…。
だから、乾燥の仕方にも工夫が必要です。
また、吸水性も、焼き方によって変わってくるんです」

そう新垣さんが話すように、赤瓦で培われた技術は、
繊細さを極めながら、コースター製造で活かされていました。

さらに、赤瓦の時よりも小さな窯で済むようになり、
エネルギーのコストダウンにもつながったそうです。

現在、新垣瓦工場では、コースター製造一本に切り替えられ、
かつて使用していた赤瓦用の窯は、打ち合わせ部屋へと見事に変化していました。

「沖縄のモノづくりはこれまで観光に頼ってきた部分が大きいんです。
今後は、どこかに沖縄らしさを残しておきながらも、
自然と日常に取り入れられて、
実はメイド・イン・沖縄という、他が真似できない
質の高いモノづくりをしていきたいですね」

そう話す新垣さんは、
今では、沖縄らしい柄や色のバリエーションを増やしながら、
着実に、赤瓦の新しい可能性を広げていっています。

古くて素朴で新しい、沖縄の赤瓦コースター。

現代のくらしを少し豊かにしてくれる要素は、
意外と身の回りに眠っているのかもしれません。

八島の黒糖

2013年09月18日

沖縄の家庭でお茶うけとして愛されている、「黒糖」。
私たちも沖縄の取材先で、お茶と一緒に出していただくことがよくありました。

一般的に私たちが料理などに使っている白砂糖(上白糖)は、
サトウキビの搾り汁から糖蜜を分離させたもので、"分蜜糖"と呼ばれます。

それに対して、黒糖は"含蜜糖"の代表的なもので、
原料であるサトウキビの搾り汁をそのまま煮詰めて濃縮し、
加工しないで冷却して製造したものです。

沖縄の島内を車で走っていると、
あちこちでサトウキビ畑を見かけましたが、それもそのはず。
黒糖は、江戸時代初頭に中国から琉球王国に製法が伝わり、
沖縄の特産品として発展してきたものでした。

沖縄島内では現在も、黒糖の生産が盛んなんだな、
そう思っていると、意外な言葉が聞こえてきました。

「いま、沖縄で黒糖を作っているのは、8つの離島工場のみなんです」

そう教えてくださったのは、
沖縄県黒砂糖協同組合の宇良勇(うらいさむ)さん。

もともと、沖縄本島にも黒糖工場は点在し、
集落ごとに黒糖づくりが行われてきました。

しかし、分蜜糖製造が始まると、国の政策もあり、
小さな工場は大規模な分蜜糖工場に整理統合されていき、
いまや沖縄の砂糖総生産量の9割以上を分蜜糖が占めるといいます。

「黒糖は、上白糖やはちみつと比べても、ビタミンやミネラルを豊富に含んでいます。
疲労回復にもうってつけで、今年の甲子園で
沖縄の選手たちが黒糖を常備している姿がテレビで映っていました。
ただ、昔に比べると、どうも"黒糖=年寄りの食べ物"になってきてしまった」

そこで、宇良さんたちは、若い人に向けた商品企画を始めました。
そうしてできたのがこちらの「八島黒糖」。

8つの離島工場で作られた、それぞれの黒糖が
カラフルな小分けのパッケージに入っている逸品です。

「黒糖って、ぶどうとワインの関係と一緒だと思うんです。
黒糖はサトウキビの搾り汁をそのまま煮詰めただけのものなので、
サトウキビの生産地の気象条件や土、その年によっても風味が変わってくる。
食べてみると明らかですよ」

宇良さんに試食を奨められて、いくつか食べてみると
確かに全く味が違います!

ふわっとした柔らかい食感もあれば、カリッとしたものもあるし、
苦みの奥に甘みを感じるものや、少し酸味のあるものなど、様々。

「僕は伊江島のものが好きだな…私はこっちかな…」
と人によって好みも分かれます。

そして、自分の好みの味が見つかると、
今度はそれがどんな島で作られたものなのか、自然と気になってきます。

まさにそれが狙いでした。

「この商品を通して、沖縄の島の個性を伝えていきたいのです。
8つの島には高校がないので、若い人はみんな島外に出ていってしまう。
そして一度島から出ると、なかなか戻ってこないのが現状で。
それに、地元の人でも他の島には行ったことがないことが多い」

可愛らしいパッケージのデザインは、それぞれの島の自然や
芸能文化がモチーフになっていて、島の特徴を伝えていました。

例えば、多良間島のものは、五穀豊穣を祈願して毎年夏に行われる
"多良間の豊年祭・八月踊り"の衣装が描かれ、
小浜島のものには、小浜島の海で出会える"マンタ"、
伊江島は、毎年春に100万輪の花を咲かせる"てっぽうゆり"、
そして西表島には、国の特別天然記念物にも指定されている"イリオモテヤマネコ"
が描かれています。

「黒糖は、島々の未来永劫産業なんです。
サトウキビがなくなると、その島のくらしがなくなってしまう…。
黒糖を作って売って、島のくらしが成り立つようにサポートするのが我々の役目。
沖縄黒糖は、輸入品や加工品(原料糖が海外産のもの)と全く違う、
ということを今後も多くの人に知ってもらいたいと思っています」

ちなみに、黒糖は、商品の原材料表示が「サトウキビ」となっていて、
8つの島で作られている黒糖には、
サンサンと輝く太陽とサトウキビがモチーフの"沖縄黒糖"マークがついているそう。

また、沖縄黒糖は、一般財団法人食品産業センターによって、
日本各地の豊かな食文化を守り、育てるために設けられた表示基準
「本場の本物」に認定されています。

製造者の原料と製法へのこだわりがあり、
生活者が安心して味わえる、本物の味の証。
全国でも今のところ33の品にしか与えられていないものだといいます。

「八島黒糖」を通じて、好みの黒糖の味を知り、
島にも興味を持って、人々が回遊する。
そんな好循環が続くことを願っています。

※「八島黒糖」は無印良品のFound MUJI取り扱い店舗でも
お買い求めいただくことができます。

やちむん

2012年10月25日

沖縄の焼き物は琉球の方言で「やちむん」と呼ばれています。
そして、「やちむん」といえば、「壺屋焼」(つぼややき)が主流。

1682年に、琉球王府は焼き物産業を発展させようと考え、
各地に点在していた窯場を壺屋(つぼや)地区に集め、
焼き物の里を作ったことが、壺屋焼としての始まりです。

しかし、1970年代に那覇市は公害対策のため登り窯の使用を禁止、
窯場はガス窯への転換を余儀なくされ、
登り窯での制作を好む職人たちが、
本島中部の読谷村(よみたんそん)に窯を移しました。

そうして現在、壺屋焼は、
壺屋地区と読谷村の2大エリアで主に作られています。

今回は300年の伝統を誇る、壺屋地区の窯元「育陶園」へ。

壺屋焼は、中国や朝鮮、日本、東南アジアの国々の技術が
チャンプルーされて(混ざって)、
琉球独自の焼き物として発展してきたといいます。

ぽってりとした厚手の成形と、
陶器というよりも、磁器に描かれるような鮮やかな彩色。

中国の純白の磁器に憧れた昔の陶工が、
赤土の上に真っ白な土を掛けて再現したことから生まれた
「化粧掛け」という技法が使われています。

そして、この化粧掛けに施した「赤絵」も
中国に学んだものだそうです。

また、化粧掛けした上から削っていく「線彫り」は、
ガス窯で出せない色の味わいを
デザインで表現することから発展していったんだとか。

一つひとつ下絵なしで仕上げていくというので
失敗が許されない、熟練の技を要します。

他にも、スポイトで化粧土を絞り出して、
盛り上がった紋様を描く「イッチン」(写真左)や、
福岡の小石原焼や大分の小鹿田焼で多用されていた「飛び鉋」(写真右)
など、様々な技法を使って、壺屋焼は作られていました。

こんなにも種類豊富な焼き物を作る窯元には、
これまで出会っていなかったかもしれません。

ずっと眺めていても飽きない…
とても洗練された器たちです。

ご案内いただいたのは、
6代目・高江洲忠(たかえすただし)さんの
長女で企画・販売責任者の高江洲若菜(たかえすわかな)さん。

「うちは壺屋焼という伝統だけでなく、、
沖縄という伝統を大切にしています。、
そのなかで、形やデザインは現代風にアレンジさせていっています。、
工房とお店が近いので、お客様の声を反映させながら、
進化させていけるのがいいのかもしれません」

育陶園は、壺屋地区に3店舗構えていますが、
それぞれお店のコンセプトや対象としている客層が違うそう。

私たちがお店にいる時にも職人さんがお店に顔を出して
お店のスタッフにお客様の反応を聞いていたのが印象的でした。

それから、育陶園には器の工房とは別に、
シーサーを作る獅子工房もあります。

もともと瓦職人が瓦を打ち砕いてシーサーを作っていましたが、
17世紀以降、壺屋焼きの発展とともにシーサー製作の場は
壺屋に移ってきたといいます。

シーサーは型に陶土を押し込み成形し、
その後、口や耳、表情をつけて仕上げていきます。

型やシーサーの表情は窯元ごとに代々引き継がれていくもの。
育陶園では、作り手がシーサーの歴史的背景などを知ったうえで作るべき、
と週1回「シーサー勉強会」なるものを自分たちで行っているそうです。

沖縄には、昔から琉球信仰が深く根付いており、
魔除けのためのシーサーは、今でも各家の軒先に置かれています。

こうした置物としての焼物が産業として成り立っている地は、
このキャラバンで巡った地の中でも沖縄が初めてでした。

この沖縄の人々の敬虔な信仰心が、
壺屋焼が繁栄してきた一つの要因といえそうです。

琉球王国の時代に生まれ、
沖縄の人たちとともに発展してきたやちむん。

今後も変わることなく、沖縄の象徴として、
沖縄の地で作り続けられてほしいと思います。

島人ぬ宝

2012年10月24日

「この島の素材を活かして、
島のブランドを作っていきたいと思っています」

そう優しく語ってくれたのは、
(株)オキネシア代表の金城幸隆(きんじょうゆきたか)さん。
"かりゆしウェア"がよく似合う、沖縄生まれ沖縄育ちの社長です。

"かりゆしウェア"って、てっきり観光業にかかわる人たちだけが
着ているものかと思っていましたが、
ワイシャツとネクタイに代わるホワイトカラーの服装として
沖縄の夏に、広く定着しているものだそうです。

確かに那覇市内を走る都市モノレールの"ゆいレール"内でも
かりゆしウェアを着たビジネスマンを多く見かけました。
見ている側もわくわく明るい気分になる☆
服装ひとつで、仕事をする感覚もなんだか変わってきそうですよね♪

さて、話がそれましたが、
金城さんは32歳で「世界を見たい!」と仕事を休職し、
世界一周の旅へと出ました。

未知なる世界を知ると同時に、
これまで見えていなかった郷土「沖縄」に対して
想いを馳せるようになったといいます。

「旅で出会った他国の人は皆、
自分の国の文化や言葉を大事にしていました。
海外で自己紹介をする時に"自分のルーツをきちんと話せるか"
は、国際人として最低限のことだと思うようになったんです」

そうして「モノづくりを通してアイデンティティの種蒔きをしたい」
と36歳で独立。

沖縄の、良い商品・喜ばれる商品・誇れる商品を
ひとつひとつ丁寧に仕立てて、
息の長い県産品に育てることが、ウチナーンチュ(沖縄県民)の
アイデンティティ、つまりは「沖縄を大切に思う心」に
寄与すると考えたのです。

その後、金城さんによって生み出されてきたのは、
食、雑貨、化粧品…と幅広いジャンルの商品です。

沖縄でお茶請け菓子の定番として、よく出される「黒糖」。

さとうきびを搾り、煮つめて固めたものですが、
現在、純国産の黒糖は、沖縄の7つの離島でしか、
生産されていないそう。

オキネシアのひとくち生黒糖「ざわわ」は、
西表島で作られており、7つの生産工場の中で
唯一、山からの天然水を使用しています。

その年のさとうきびの収穫によって生産量が変わる限定商品で、
毎年味が変わるといいます。

口に含むと、じわじわっと黒糖の素朴な甘さが広がります。
沖縄出身ではない私にとっても、なんだかほっとする
懐かしい味なので、沖縄出身者にとっては尚更そうなのかもしれません。

他にも、沖縄の黒糖や塩、島唐辛子などの沖縄産原料を使った
ピーナッツ菓子や飴などがありますが、
それらのネーミングにも沖縄の要素が含まれていました。

例えば、マカダミアナッツ菓子の「ナンチチ」は
琉球古来の方言で「おこげ」を表し、
ピーナッツ菓子の「ぴりんぱらん」は
1970年代の沖縄で流行したコトバで「おしゃべり」という意味。

「ほとんど死語になりつつあるような沖縄特有のコトバでも、
商品名として表舞台に引き出すことで再び輝きを放つのではないか」
という金城さんの想いが込められています。

「これを飲んでみてください」

出していただいたのは、とてもさっぱりとしていて、
控えめな甘さのみかんジュース。

「沖縄の在来みかんで、"カーブチー"っていうものなんです」

"カーブチー"は沖縄北部のやんばる地方で
ちょうどこの時期(10~11月上旬)に収穫できるみかんです。

昔はちょうど運動会シーズンに穫れることから
「運動会みかん」として、広く親しまれていたそうですが、
カーブチーの「カー」は 沖縄の方言で"皮"、
「ブチー」は"分厚い"を意味していて、
名前のように皮が厚くて種が多いので、加工には不向きなことから生産が減少。

沖縄で生産されるカンキツ類全体の1割りにも満たないため、
地元のスーパーなどでもなかなかお目にかかれない、
マイナーみかんだそうです。

金城さんはこの"カーブチー"の復活にも取り組み、
皮を手で剥いて遠心分離させて作った、
カーブチー果汁100%のジュースが出来上がりました。

「私自身が好きなみかんだったので、埋もれていくには惜しい…
と思ったんですね」

金城さんは"カーブチー"の新しい価値を見いだすべく、研究を続けたところ、
カーブチーは在来種で強いため、
「無農薬で放っておいても実がなる」ということが分かりました。

さらに豊かな皮の香りにヒントを得て、
その特性を最大限活かしたアロマオイル「星涼み」と
香水「UTAKI」の開発に成功。

シトラスタイプの香水のほとんどに、
柑橘系の人工香料が使用されているそうですが、
この「UTAKI」は100%天然のカーブチー香料で調香されたものです。

本来、香水はつけてからの時間によって
香りが変化していくのを楽しむものですが、
それが人工香料だと一定の香りで表情がつかないんだとか。

沖縄の素材を使って、香水の本場・フランスの調香と製造技術が
融合してできた「UTAKI」は、移ろいゆく香りを表現できたといいます。

「島の中に散在する有形無形の"大切なもの"を、
私たち自らの努力で"誇り"に変えて守り続けてゆくことこそが
『島人ぬ宝』のような気がするんです」

金城さんのモノづくりには、生まれ育った沖縄への感謝の想いが
たくさん詰まっていました。

※オキネシアの一部商品(「ざわわ」「ナンチチ」「ぴりんぱらん」
「琉球かつお豆」「童玉」)はFoundMUJIを扱う無印良品で
お買い求めいただけます。

紅型(びんがた)

2012年10月23日

沖縄でよく見かけるこの衣装、
沖縄の伝統衣装の琉装です。

これは、琉球王朝時代の王族や貴族の装いで、
「紅型(びんがた)」という伝統的な技法で染められています。

紅型の「紅」は「色」を意味しており、
紅型とは「色」(顔料)と「型」を使った染物を指すそう。

琉球王朝時代は首里城の周りに染屋が置かれ、
王家から手厚く庇護されていましたが、
廃藩置県後は庇護を失い、さらに第二次世界大戦で多くの型や道具が焼失し、
多くの染屋は廃業を余儀なくされました。

しかし、戦後に、
「沖縄びんがた伝統技術保存会」を結成し、
昭和59年に国の「伝統的工芸品」の指定を受け、
現在では沖縄県内でおよそ30の工房によって、振興が図られています。

そのうちの一つ、糸満市にあるびんがた工房「くんや」を訪ねました。

こちらの工房では宜保(ぎぼ)聡さんと理英さんご夫妻と
2人のスタッフが働いています。

夫の聡さんは着物や帯、風呂敷などを染めています。

昔から紅型の代表的な色である黄色は、高貴な色とされ、
着用できるのは王族のみと決まっていたそうですが、
それは、明るい黄色を皇帝の色と定めていた中国の影響なんだとか。

また、紅型は沖縄の強い日差しのもとで染められているため、
ビビッドでカラフルな風合いに仕上がるんだそう。

確かに、古典柄は、色やデザインがとてもハッキリとしていて、
日本というよりも、どちらかというと中国・韓国や東南アジアの雰囲気があります。

柄には、花鳥風月を取り入れたものが多いそうですが、
面白いのが、それらに季節感がないこと。

沖縄以外で作られる染物は、季節によって柄が違うのですが、
紅型は季節が混ざっているのです。

例えば、下の写真の柄は「桜」と「雪」が同時に表現されています。

琉球には存在していない雪が描かれているのは、
亜熱帯気候に住む琉球人の"四季"に対する憧れから来たのではないか
と推測されるようです。

作業工程は、デザイン制作、型彫り、色挿し、
隈取り(くまどり)、水元(みずもと)…など、
ざっと数えて10以上ありますが、
こちらの工房では、そのすべてを1人の職人さんが担当しています。

「工房内で分業するケースはありますが、
他の染めの産地と違って外注していないのが、
紅型の工房がここまで残っている要因なのかもしれませんね」

聡さんが作った型を見せてもらいましたが、その細かいこと!

型彫りだけでも、相当根気のいる作業だということが分かりました。

一方、妻の理英さんは紅型小物を製作しています。

同じ紅型でも、聡さんの作る古典柄やクラシックな柄とは違い、
ポップで遊び心あふれるオリジナルの柄が中心。
柄が違うとこんなにも印象が変わるものなんですね!

「柄に決まりは特にないんですよ。このゆるさが沖縄らしいでしょ!
あ、でも最近、昔の人は計算してゆるくしていたんじゃないか
って、思うようにもなったんですが…」
と理英さん。

伝統は大切に守りながらも、
新しいデザインも柔軟に取り入れていけるところに、
沖縄らしい民芸を感じます。

さらに、紅型の展開はこんなところまで広がっていました。
南城市に住む、ヨコイマサシさんが作るのは「紅型陶器」。

その名の通り、紅型と陶器を組み合わせたものです。

「沖縄に来て陶芸を始める時点で、構想はあったんですよ」

そう話す陶芸家の横井さんは、仲間の紅型作家と共同で
紅型陶器を生み出しました。

今ではご自身も紅型の勉強をされていて、
型づくりから手掛けているそうです。

「紅型は最初に色に目が行ってしまうので、
紅型陶器ではあえて色を使わないようにして、
型のよさを引き立てるようにしました」

確かに、紅型の柄そのものを楽しむことができますし、
染物の紅型とはまた違った、落ち着いた魅力があります。

今では沖縄内外から、表札としての発注があるんだとか。
沖縄中の表札が紅型陶器で埋め尽くされたら素敵ですよね。

琉球王朝の終焉、戦争など、過酷な歴史の中で生き残ってきた紅型は、
独特のチャンプルー文化を持つ沖縄の地で、
デザイン・用途を少しずつ変化させながら引き継がれていっています。

最後に、作り手である理英さんがとっても感動されたという
紅型展「琉球の紅型」のご紹介を。

東京目黒の日本民芸館で11月24日まで開催中だそうです。

生の紅型を間近で見るチャンスです!
お近くの方は出掛けてみてはいかがでしょうか。

琉球ガラス

2012年10月22日

日本のガラスの産地といって、
真っ先に頭に浮かんでくるのが「琉球ガラス」。

沖縄県内のお土産屋さんでは、
必ずといっていいほど目にします。

北海道の小樽もガラスで有名ですが、その由来は全く異なるようです。

明治中期、開拓中で電気の普及が遅れていた北海道では、
ガラス製の石油ランプが重宝され、漁業用の浮き玉とともに、
国際貿易の玄関口だった小樽で、ガラス製造が栄えていきました。

一方、アジアとの国際貿易の拠点の一つであった沖縄では、
明治中期にはガラス製造の技術は伝わっていたようですが、
その生産が本格化したのは、第二次世界大戦後。

駐留する米軍によって持ち込まれたコーラやビールの空き瓶を、
戦後の資源難を乗り切るために、溶かして再生したことに由来するのです。

再生の過程で混入する気泡や、厚みのある琉球ガラスは、
南国的情緒のある工芸として広まっていきました。

そんな琉球ガラスのルーツともいえる工房が、
那覇市内にある「奥原硝子製造所」。

ガラスの原料を手に入れやすくなった今日では、
多くの琉球ガラスの工房が、原料を業者から仕入れているようですが、
奥原硝子では、今でも廃瓶を使い続けています。

例えば、本来捨てられていた窓ガラスの切れ端は、粉砕され、

このように淡いグリーンがかった、美しいガラス食器に生まれ変わります。

バヤリースの廃瓶も、ロゴマーク部分を削ったうえで粉砕され、

この通り、日常使いのコップに様変わり。

一升瓶も渋い輝きを放つグラスに、

緑の瓶は、見ているだけでも心満たされるような器になりました。

その色みとポッテリとした厚みからは、
独特の素朴さと暖かみを感じます。

こうして再生されたガラスは、
当時、米軍基地内やアメリカ本土にも輸出されていたほど、
その技術が評価を受けてきました。

琉球ガラスは、主に「吹きガラス」の製法で作られますが、
吹き竿の先に溶けたガラスを巻き取り、息を吹き込んで膨らませる「宙吹き法」と、
型の中にガラスを吹き入れて形成する「型吹き法」の2種類があり、
その過程の多くはチームプレーで行われています。

ただでさえ暑い沖縄で、約1400℃の窯の焚かれた工房内は
灼熱のような暑さに見舞われますが、
ガラス職人たちは黙々とガラスを作り続けていました。

代表の上里さんは、ガラスづくりに対する想いをこう語ります。

「廃瓶を使ったガラスづくりこそが、琉球ガラスの原点。
これからも廃瓶を日常使いできるガラス食器として蘇らせたい」

琉球ガラスには、こうした深い歴史が刻まれていたのですね。

物事の原点を忘れないためにも、
その歴史的背景を知ることの大切さを痛感しました。

沖縄ならではの人気商品

沖縄県にも、もちろんあります!「無印良品」

県内3店舗あるうちの、国際通りに最も近い
「パレットくもじ」店を訪れました。

こちらの人気商品は、一大観光地ならでは↓

ハードキャリー」です。

その人気は沖縄県民からというよりも、
なんと観光客からのものでした!

それにしても、なぜでしょう?

国内はもちろんのこと、中国や韓国からの観光客が多い沖縄には、
琉球ガラスをはじめとした魅力的なお土産品が多く、
それらお土産を大量に買った観光客たちが、
持ち帰るためのケースが必要になるわけなのです。

また、海外にも展開している無印良品ですが、
ジャパンブランドのアイテムは
もちろん日本で買うのが一番安いということで、
海外からの観光客が洋服などをハードキャリーに詰めて、
買って帰るんだとか。

他にも、インナー向きのTシャツや、

携帯用サイズの化粧水シリーズも人気☆

これらも、旅先に忘れ物をした観光客からの需要だそう。

修学旅行生からは、お菓子も人気です♪
店長のオススメは「ぶどうのクッキー」!

レーズンとココナッツを活かした素材の甘さが
控えめでおいしいそうですよ!