木桶と日本人
酒蔵、味噌蔵、醤油蔵など、昔から続く醸造元で、
今も大切に使われ続けている「木桶」。
小豆島(写真右)では、桶(こが)と呼ばれ、
今も1000本以上の桶で醤油づくりが行われています。
「風が吹けば桶屋がもうかる」
ということわざがあるほど、桶屋は各地に欠かせない存在だったそうです。
そんな木桶を作る職人は現在、全国でも数えるほどまでに減少。
なかでも、大桶を作れる職人は希少で、
「大阪・堺にはまだ残っている」という噂を道中、何度か耳にした程度でした。
今回、その大阪の桶屋を、念願叶って訪ねることができました。
堺市にある(株)ウッドワーク(藤井製桶所)。
事務所もトイレも桶の技術を用いてつくっている、
生粋の桶屋さんです。
「ここ2~3年で、木桶の価値が一気に見直されはじめました。
それは"発酵"に対して、世の中の注目が集まっているから。
木桶は、日本の発酵食の文化を支えてきた存在なんです」
そう話すのは、ウッドワークの創業者、上芝雄史さん。
「酒や醤油、味噌などを発酵させるのに木桶を用いると、
まろやかに仕上がるといわれているんですよ」
現にキャラバンで巡った、今も木桶を使う醸造元でも、
酒であれば"口当たりがなめらかになる"、
醤油であれば"カドがなくなる"、
といった具合に、木桶による効果を表現されていました。
実際に、多孔質の木桶には、蔵特有の菌が生息するといわれ、
外気の変化に影響を受けにくく、桶の中の温度を一定幅に保ち、通気性もあるため、
発酵を促すには絶好の環境なんだとか。
「そんな木桶に対し、戦後、行政が"衛生的でない"と指導してきました。
以降、全国に100万個あったといわれる桶はみるみるうちに減少。
当然、桶屋の数も、急速に減っていきました」
現在は再び、醸造元からの発注の多いウッドワークですが、
前身の藤井製桶所(現在も存続中)の時代には、薬品会社からの注文も多かったそう。
薬品を調合する際に高温となるため、
木桶のその断熱性と耐久性が評価されてきたといいます。
そうした需要に支えられながら、桶の技術を多面展開するために、
ウッドワークを立ち上げ需要を発掘しながら、今日まで発展してきました。
「100~150年といわれる桶の寿命。
それは、桶が壊れても、桶屋が修復を繰り返してきたからで、
その技術は日本人のくらしのなかにずっと息づいてきたものでした」
桶は小さなもので18枚、大きなもので約40枚の板を用いた寄木細工で、
修復では、腐ったりして使えなくなった板だけを差し替えるんだそう。
初め酒蔵に卸され、使い古された木桶は、その後、醤油蔵や味噌蔵へと渡り、
それらをまた桶屋が削り直して、ひとまわり小さな桶が作られます。
そして最後には、薪になるという循環を繰り返してきました。
今でこそエコやリサイクルといわれますが、
桶屋にとっては昔から当たり前の技術だったのです。
「日本人には、古くから身近な素材をどう使うかの知恵がありました。
材に杉を使ったのも身近に多くあったから。
軽くて木の香りや色が食品に移りにくい杉は、物流にも醸造にも適した素材です」
身近な素材といえば、接着には米糊や竹釘を用いるなど、
昔ながらの技法で、桶を組み立てていました。
そして、上芝さんが何よりも大切にしているというのが、古い桶。
修復のために回収してきた古い桶にこそ、
過去の桶職人からの教えが詰まっているといいます。
「学習する相手はいないけど、そこには技術の証がありますから」
そう話す時の上芝さんの微笑みは、
追求に追求を重ねてきた職人の表情でした。
「産湯の湯桶から棺桶に至るまで」
日本人がお世話になってきた木桶。
効率や衛生面で、一時期、日本人から見放されてきましたが、
その概念が見直され、今一度、醸造元でも木桶を用いようとする動きも生まれています。
これは「日本人が本物志向に戻ってきた傾向」と上芝さんはいいます。
こうした、木桶ならではの味わいを楽しめるのも、
上芝さんのような木桶の技術をつなぐ職人がいるからということは、
いうまでもありません。