「滋賀」カテゴリーの記事一覧
どっぽ村
滋賀県湖北町、上山田。
小谷山の裾野に広がる静かな山里に、
「どっぽ村」と呼ばれる場所がありました。
「どっぽ=独歩」
自分のくらしを自分で作る人たちが集う場所です。
「家も建てる農家」の松本茂夫さん(写真左下)と
「米も作る大工」の清水陽介さん(写真右下)の二人の職人が、
持続可能な山村を目指し5年前に立ち上げました。
もともと、この地で生まれ育った松本さんは、
若い頃に大工のアルバイトで培った腕を生かし、
農業を営む傍ら、自ら家も建てる、人呼んで「家も建てる農家」。
実際、自宅横の2階建ての建屋は、松本さん自身の手で建てたものでした。
大手施工業者で働いていた頃に、
なぜ寿命の短い家に廃棄物となるような素材を使うのか、
大きな疑問を持っていたそうです。
経済優先の合理主義で進んでいく世の中、一方で進んでいく地域の過疎化。
このままじゃ地元の職人たちの仕事も技術も廃れてしまう。
何か窓口を作ろうと考えていた矢先、
出会ったのが湖北の余呉に住む清水さんでした。
清水さんは、なんと若い頃に自転車で世界一周を経験。
実に30年以上も前に世界一周をされた、我々にとっての大先輩!
世界一周のパイオニア的存在の方でした。
道中、アフリカのガーナで新通貨が導入され、
前日まで持っていた旧通貨の価値が半減するという事態に遭遇し、
お金だけに頼らない生き方を模索するようになったそうです。
帰国後3日目にして大工の見習いに従事していた清水さんは、
大工をしながらも、自宅の田んぼで米も作る、人呼んで「米も作る大工」。
そんな「農業」と「建築」が重なり合い、
どっぽ村構想が具現化されていったのです。
どっぽ村では、生き方を模索する若者を"どっぽ生"として3年間受け入れ、
お給料を支払いながら農業と大工仕事を身につける「どっぽ塾」を行っています。
ユニークなのが、毎年徐々に勤務日数が減っていく制度。
空いた時間を自立のための時間として費やしていけるのです。
基礎を身につけ、そこから先は自分の力で作る。
なんでもお金で買うくらしから、自分の手で作るくらしへ。
それが、独立独歩の「自分らしい生き方」を可能にするどっぽ村の姿勢です。
私たちが訪れた日にも、せっせと家の基礎工事を進める姿がありました。
どっぽ村では、食料自給のための農業はもちろん、
家も自分たちで建てる「セルフビルド」を提唱しているのです。
しかも、使っている材料は、地域の業者が不要になった土やコンクリート。
その日もたまたま、地元の組合が余ったコンクリートを届けに来ていました。
基礎工事など必要不可欠なところは清水さんの指導のもと行われ、
それ以外は住民と地域の人たちが助け合いながら手掛けます。
「こうすることで、素材に何が使われているのかも分かるし、良さも分かる。
おまけに、建築の能力もつく」
仕事としても建築業を営む清水さんは、
セルフビルドを提唱する理由をそう語ります。
「経済優先の社会では、知らないところで大量のゴミが生産されてしまっています。
工業製品を生産するために大量のエネルギーを必要とし、
そのエネルギーを生産するために大量のゴミを排出していることを、
私たちは認識しなくてはいけない。
知らないことは"悪意なき悪意"なんです」
そう話す、清水さんの設計する家は、
可能な限りエネルギーゼロを目指したものでした。
太陽の光、風通し、雨による貯水など、できるだけ自然の力を利用し、
冬でも太陽光によって室内は暖房が要らないほどの暖かさを実現。
夏は風通しによって、涼しくて快適な空間だそう。
また、窓のサッシにはアルミではなく木が使用されています。
木は呼吸するので、冬でも結露の心配がありません。
でも木は腐るのじゃ?
そんな質問を清水さんに投げかけてみると、
「それが自然なんです。腐れば土に返してあげられる。でも意外と寿命は長い。
アルミにも寿命はあるが、廃棄するのにまたエネルギーが必要になる。
こうして自然と常に向き合うことが大切なのです」
とのこと。
枯渇必至のエネルギーに頼りすぎず、大量廃棄のゴミを減らす。
清水さんの主張は一貫しています。
工場には、セルフビルド用に貸し出せるよう、
廃業した工場から引き取られた加工機械が集められていました。
「小さいかもしれんけど、こうした活動が各地で始まれば、それが大きな力になる。
そのために湖北では、こんなおっさんたちが立ち上がったのさ」
清水さんはそういいながら無邪気に微笑みました。
食料を生産するための技術「農業」と住処を作るための技術「建築」。
この2つは、いつの時代においても
生きていくのに必要な力なのではないでしょうか?
そんな2つの力を地域のなかで培えるどっぽ村には、
まぎれもなくこれからの"良いくらし"へのヒントがありました。
「ただ、こんな活動が注目されるのもおかしいんだけどね。
昔に戻っているだけだから」
最後に付け加えられた清水さんの言葉が、印象的でした。
coccori(コッコリ)
先日のブログでご紹介した「ファブリカ村」を訪れた際、
一際、目を奪われたカラフルな展示品の数々。
一つひとつから醸し出される温かみから、
きっとそれが人の手によってゆっくりと作られたものであることを感じました。
その織物の名は「coccori(コッコリ)」。
実はこれらは、滋賀県の福祉作業所で働く
障がい者の方たちによって作られたものでした。
「素敵でしょ? でも、しばらく作業所の倉庫に眠っていたんですよ」
そう話すのは、Team coccori事業代表の市田恭子さん。
作業所の中間支援を行う (社)滋賀県社会就労事業振興センターで、
障がい者IT利用促進事業コーディネーターとして働く市田さんは、
これらの織物が、作業所の倉庫に保管されているのを発見しました。
繊維関係の工場などから、不要品として調達してきた糸を使って、
障がい者の方たちが一生懸命、はた織り機を使って織ったものでしたが、
売るあてもなく、そのままの状態で眠っていたのです。
「これはかわいい! 倉庫に眠らせておくなんてもったいない。
なんとかできないか? って考えました」
こうして市田さんは、滋賀県内で活躍するデザイナー6名とともに
「Team coccori」を結成。
"作りっぱなしの商品"から"買ってもらえる商品"にするために、
様々な商品を企画していきました。
かけるだけで映える敷物や首ストラップ、
鍋包み(写真右)に、現在企画中のペンケース(写真左)等々。
ストールはこの通り、とっても素敵♪
同じものが二つとない独創的な色合いが魅力的です。
「この事業で実現したいことは、何よりも障がい者の工賃向上なんです」
市田さんいわく、作業所で働く障がい者の賃金は、
全国的にみて月平均1万3000円といったところ。
障がい者年金と合わせてもとても自立できる金額とはいえません。
重度の障がい者がきちんとした社会保障を受けられるようにするためにも、
元気な障がい者が、税金を納められるぐらいの稼ぎを得られるようにする。
市田さんは活動目的をそう話します。
Team coccoriでは、他にもこんな逸品も展開していました。
「湖のくに 生チーズケーキ」
何やら入っているのはおちょこのようで、
一つひとつ書かれている文字が違います。
そう、これらは滋賀県内の琵琶湖周辺にある6つの酒蔵の、
風味の異なる"酒粕"を使ったチーズケーキなんです。
酒粕とは、お酒を作る時にできる米麹の搾りかすで、
近年、栄養素に富んだ食品として価値が見直されており、
酒蔵によっては"しずく"と呼んでいるほどの代物。
これまでも甘酒や漬物などにも利用されてきましたが、
とても使いきれる量ではなく、その使い道に頭を悩ます酒蔵も多かったそう。
それが、県内の作業所で働く障がい者の手によって、
生チーズケーキへと生まれ変わったのです。
そのお味はとても芳醇で、
お酒と同様に、酒蔵によって風味が見事に異なりました!
これを、同じく作業所で作られた「酒粕ビスコッティ」に付けると、
格別な味わい。
スイーツとしてはもちろんのこと、
ワインのつまみにもイケてしまいそうです!
日本酒の酒粕が、ワインに合うなんてまた不思議ですね。
「障がいのある方たちも、基本的欲求は健常者と一緒。
認められて、その対価をもらうとうれしいんです。
これらの事業によって、明らかに生活に張りが出てきた方もいるんですよ」
coccoriによって明らかに変化が生まれている滋賀県の福祉事業。
ただ、そこから生み出される商品は、
作り手が障がい者か健常者かということではなく、
素直に感動を受けるものばかりでした。
ファブリカ村
滋賀県東近江市にある「ファブリカ村」。
琵琶湖の東に位置する東近江市は、
湖からもたらされる湿気が麻の製織に適していたことから、
麻織物の産地として栄えてきました。
ファブリカ村の前身である、北川織物工場は1964年に建てられました。
ちょうど東海道新幹線が開通したり、
東京オリンピックが開催されたりした年のこと。
当時、北川織物工場では、
麻織物を用いた布や寝装品、和装小物などを作っていたそうです。
京都や名古屋が近い立地から、
婚礼布団や婚礼座布団のニーズが高かったんだとか。
「昭和初期は、織機をガチャンと動かせば万単位で儲かる。
当時は麻織物が"ガチャ万産業"っていわれていたんですよ」
そう教えてくださったのは、北川陽子さん。
繊維産業は下請けから脱却して
提案型の産地になっていかなければならない
という、
「産地の高度化プロジェクト」がスタートした1980年代に、
京都の美大で染色コースを卒業した北川さんは、家業の北川織物工場に入りました。
それまで洋服をただ着ていた時代から、ブランドの時代へと変遷。
ヨウジヤマモトなどの有名デザイナーが直接素材を探しに産地へ赴き、
素材からデザインしていた面白い時代だったと、
北川さんは振り返ります。
「うちには、おじいちゃんの時代から作っていた、
手仕事の括り絣(かすり)が残っていたので、
絣に特化してデザインを起こすようになりました。
当時、うちにもヨウジヤマモトさんが来て、絣を見て
『モダンだ!』っておっしゃって。
その時、地域の素材は残していかないといけないな、と思ったんです」
しかし、次第に素材は海外のものを使う時代に
。
半年間かけて作った絣に少し傷があっただけで
焼却処分されてしまう現場を目にし、
北川さんはものづくりに対して疑問を持つようになったといいます。
この頃から素材として絣を作る一方で、
直接販売できるクラフト市などに参加するようになり、
値段だけの取引ではなく、産地について考えるようになったそう。
「実際に自分で販売してみると、近所の人でも
近江が麻の産地であることを知らないんですよ。
ここの土地にできてきた意味を考えないと
って、
この頃から地域を意識するようになりましたね」
もともと人と話すことが大好きという北川さんは、
地域の集まりや組合、異業種交流会などにどんどん参加し、
それまで関わってこなかった人たちとの関わりを通して
ものづくりに加えて、「ことづくり」の楽しさを知ります。
そして、"きちんと地域のものを残していきたい"、
"北川織物工場が守り続けてきた手仕事の良さを伝えたい"と
休んでいた工場を「つくるよろこびにふれる場所」として復活させました。
それが、「ファブリカ村」です。
「ファブリカ村」では、染めや織りなどのワークショップを行ったり、
地元の食材を使ったカフェや、地域の作家が作ったものを買える場を提供したり。
「海外との価格競争に巻き込まれるのではなく、
本当に欲しい人にものを届けられるように。
この空間を共有してもらい、
生活者の意識を少しでも変えられる場所にできたら」
そんな想いを形にし、場の大切さを実感した北川さんは
次々に行動を起こします。
"まずは自分たちが地域のことをもっと知ろう"
"横のつながりを作ろう"
と、異業種の作り手を集めた「湖の国のかたち」を結成。
地場産業の産地めぐりツアーを企画したり、
様々な勉強会や交流会を実施したりしています。
時代とともに自身の考え方が変わってきた北川さんが中心となり、
学び、出会い、そして体験することで
新しいものを生み育てていきながら、
自らの感性と次の世代の感性を育んでいこうというこの取り組み。
その裏には、近江の国から多くのものを全国へと流通させていった、
近江商人の商訓「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」
が今でも残っていました。
もちろん、北川さんは本業のものづくりも続けていらっしゃいます。
近江の麻を使った服や小物のオリジナルブランド「fabrica」を展開中。
北川織物工場は、ものづくりの現場に加えて、
滋賀県のモノ、コト、ヒトが集まる情報発信基地「ファブリカ村」として、
その活躍の幅を広げていっています。
「滋賀は面白いですよ!独立してもやっていける」
北川さんのこの言葉は、地元を知っているからこその言葉だと感じました。
窓の家
この旅で初めて本格的な雪に見舞われたなか、
琵琶湖東を車で走っていると、「無印良品の家」の看板が。
そこは「無印良品の家 彦根店」でした。
今まで、なかなか機会に恵まれなかったのですが、
37県目にして、ようやく無印良品の家と巡り合いました!
現在、3タイプの家が販売されている無印良品の家のうち、
ここ彦根店は「窓の家」と呼ばれるタイプ。
その名の通り、窓が映えるデザインです。
中に入ると、そこには明るく広々とした空間がありました。
「SE構法」と呼ばれる、骨組み全体で家を支える構造を取り入れており、
柱や区画の壁が少ない分、広々とした吹き抜け空間が実現できているのです。
そして、この窓からの採光と景色。
ベランダは雪模様ですが、空には青空が広がっていました。
まるで絵画のように風景が切り取られる工夫が凝らされており、
窓には木製のものをアルミで保護したサッシが使用されています。
余剰木材を使用した木製サッシにすることで、断熱効果を上げ、
それをアルミで保護することで、木材の耐久性を上げる。
エネルギー効率も良く、かつ、
窓の数だけ美しい風景が生まれる家になっているのです。
「この窓の家は、イギリスのピーターラビットに出てくるような家を
モチーフにしているんですよ」
彦根店のスタッフ、矢谷幸子さんが教えてくださいました。
窓の家の発想の原点は、ピーターラビットの作者も愛したという、
イギリスのコッツウォルズ地方の小さな村。
イギリス人にとって心の故郷の光景といわれるほどに美しい街並みは、
地元で産出される石で造った三角屋根の家が連なったもの。
何代にもわたって住まれてきた家の歴史の重みが詰まっていて、
「なにもないが、そこにすべてがある」光景が広がっているそうです。
そこにヒントを得た窓の家には、
仕上げ材として使われる塗り壁や、床材に使われる無垢の木など、
「永く使える」という理念に基づいたものが使用されていました。
そして、SE構法ゆえに、間取り変更が自由なのも大きな強み。
柱や壁の制約を受けずに、間取りが変更できるため、
子供がいる間、巣立っていった後と、
家族の状況に合わせて空間を設(しつら)えていけるんです。
「無印良品の家のコンセプトは"永く使える、変えられる"。
窓の家は、家の中にも窓を構えられるので、
ここからの景色が私のお気に入りなんです♪」
2階にある出窓からの眺めは、
家族で団らんしているリビングシーンを想起させてくれました。
まるで幼い頃、絵で描いていたような家の形に、
隣合わせの家の状況によって自由に窓の位置や大きさをアレンジできる、
「無印良品 窓の家」。
一度知ってしまうと、忘れられないほどの魅力がありました。
この旅を終えた後の、住まい候補に考えたいと思います。
まずは、土地探しからですが
。
滋賀で人気の無印良品
そんな滋賀県の無印良品の人気商品は意外な逸品でした!
大津パルコ店のさわやか店長が座っているこちら 、
「落ちワタ入り座ぶとん」(1000円)です!
紡績工程から出た落ちワタが入っており、
エコでありながら、その弾力性は抜群。
店長いわく、
「滋賀には古い家屋が多いため、和室でのニーズが高く、
金額的にもお買い求めやすいのではないか?」
とのことでした。
クッションよりも座ぶとんの方が売れるというから、
店長の推測もあながち間違っていないかもしれません。
また、カバーのバリエーションも
以下の通りたくさんあるのがうれしいところ!
ここに載せきれないほど、他にもまだまだ
↓
ネットストア > 座布団・座椅子
新しい無印良品の発見が多くあった滋賀県での滞在でした。
紫香楽研究所
先日、京都の綾部で訪問した半農半X研究所の塩見さんが
世の中には多種多様な"研究所"があると話していましたが、
お隣の滋賀県で早速、とある研究所に遭遇しました。
「紫香楽(しがらき)研究所」
奈良時代、近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)には
聖武天皇が造営した離宮「紫香楽宮」があったそう。
聖武天皇は742年に紫香楽の地に都を移し、
大仏建立のプロジェクトが紫香楽の地で進められ、
各地から技術を持った人々が集いました。
しかし、天災が続き、都は平城京に戻り、
大仏像は現在の東大寺で造立。
この時残った技術者が定住し開発したのが、
日本六古窯の一つの「信楽焼(しがらきやき)」です。
昔、琵琶湖の湖底だった場所の山から採れる土は、
粘り気が強く成型しやすいため、
大物を作るのに適しているといいます。
火鉢やすり鉢から始まり、
現在の信楽焼は、食器や花器、植木鉢、傘立てやタイルなど幅広く作られ、
常に人々の生活とともに歩んできた焼き物であることがうかがえます。
無印良品でも、信楽焼の飯碗を扱っていますが、
こちらは白土の素朴な風合いを生かしたものです。
信楽焼は各窯元の土のブレンド方法によって、
その表情の幅がとても広いのです。
また、全国のお店の軒先などで見かける、
愛くるしい狸の置物、これも立派な信楽の焼き物。
信楽町には、もしかしたら人よりも狸の方が多いんでは!?
と思うほど、あちこちで狸の置物が迎えてくれました。
ご案内いただいた、紫香楽研究所の寺脇達夫さんは
長年、信楽陶器工業協同組合に勤めた後、
「信楽焼に欠けている部分を担いたい」と58歳で独立。
紫香楽ラボ株式会社と、紫香楽研究所を立ち上げました。
「社会に必要な産地であり続けるためには、歴史と伝統的技法を改めて耕し、
デザイン力や流通力、知恵を持つ人々と情報交換し
連携してやっていく必要がある」
紫香楽ラボをマネージメント母体として、
紫香楽研究所は、時代を先取る
ソフトウェアを生み出す孵化(ふか)装置と考えていると話します。
そんな紫香楽研究所で研究・企画された商品は、
従来の焼き物に現代生活者向けの機能を持たせたものばかり。
例えば、ラジウム鉱石を粉砕して釉薬に使用したボトルで、
中に入れた水がアルファ線の作用によってイオン化して
味がまろやかに感じられるようになるという「魔法のボトル」や、
信楽焼のメーカーと一緒に開発した陶製のスピーカー、
また、東京のデザイン会社とのコラボ商品である
フタと本体の間の溝からお茶が流れ出る仕組み(昔からある伝統技法)の
茶こしを使わない絞り出し方式の急須の提案などを行っています。
1250年の歴史を持つ信楽の地で改めて"研究所"を作って、
信楽焼の研究開発を続ける、紫香楽研究所。
「自分たちから発信しない限り、何も始まらない。
コミュニケーションと情報の交流ができた時に
初めてモノが売れる時代ですから」
伝統を生かしながらも、現代のニーズに合わせた信楽焼が生み出されているのも、
寺脇さんを筆頭に、情報の流通を促す方々の存在があってこそだと感じました。