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海士町に生きる
島根半島の沖合、約60kmに浮かぶ隠岐(おき)諸島。
その一つの中ノ島に、海士町(あまちょう)という町があります。
面積33.52平方キロメートル、周囲89.1kmという小さな島では今、
約2300人の人口のうち、300人強がIターン者で占められ、
20~30代の人口が増加傾向にあるという、驚異的な現象が起きています。
一体、海士町ではどんな取り組みが行われているのでしょうか?
好奇心に駆りたてられ、1泊2日の強行スケジュールで訪れました。
高速船に揺られること約2時間。
夕方の到着にもかかわらず、
海士町役場職員の山斗さんが快活な笑顔で迎えてくださいました。
なんと海士町役場は年中無休なんだとか!
町長の号令で役場を「住民総合サービス株式会社」と位置付けており、
島への訪問者に対しても、常に受け入れてくださる体制を敷いているようなのです。
到着するや否や、とても晴れやかな気分になりました。
実は海士町がこうした風土になったのにも、様々な背景がありました。
大学や専門学校のない海士町では、高校卒業後、進学者は島を出てしまい、
就職先がないという理由で島に戻ることがほとんどなかったそう。
人口減少に歯止めがかからず、高齢化率も約40%を迎え、
おまけに公共投資によって膨らんだ多額の債務
。
そんななか、平成14年に市町村合併の波が島を襲います。
俗に言う、平成の大合併です。
「超過疎」「超少子高齢化」「超財政悪化」の、
三重苦のなか、押し寄せる合併の波。
窮地に立たされた海士町は、役場と住民で徹底的に話し合い、
結果、出した結論は、「自立」でした。
ここから海士町の、地域再生のための挑戦が始まります。
「守り」と「攻め」の戦略を立て、
「守り」では行財政改革を断行します。
人件費を極限まで切り詰め、町長自らが給料を50%カット。
当時、日本一給料の安い公務員となったそうです。
「攻め」の戦略では、外からのお金を獲得すべく、
ターゲットを東京に定め、島の資源を活かした特産品開発に乗り出します。
島ブランド定着のために、絞ったキーワードは「海」「潮風」「塩」の3つ。
まず、島の海産物のことを指す「海」では、
細胞を破壊しない新冷凍技術CAS(Cells Alive System)を導入しました。
当時の財政状況からすると、超高額投資ですが、
このテクノロジーによって、新鮮な状態で島から白イカの出荷が可能になり、
東京のオイスターバーで好評を得た「いわがき」をはじめ、
数々のヒット商品が生まれていきました。
続いて、「潮風」とは、
海からの潮風をたっぷり浴びた天然牧草を食べている黒毛和牛のこと。
それまでは、交配させ生まれた仔牛を島外へ販売していたところを、
地元の建設業者が畜産業へ参入し、島内で繁殖から肥育→出荷までを担い、
新たな「隠岐牛」ブランドを作り上げました。
出荷された牛肉は、最高ランクのA-5が5割を超えるほど、
高級和牛としての認知を確立しつつあるようです。
そして最後は、その名の通りの「塩」。
すべての特産品開発の原点となる「塩」を
島の伝統製法によって復活させ、「海士乃塩」として展開。
限りなく海士町らしい商品開発のために、
島の特産品にも使用されています。
こうした「攻め」の戦略によって、徐々に島の財政は改善へ。
「その裏には、島のために活動する多くの"人"の姿があるんです。
多くのIターンの方も、海士町のために力を貸してくださっています」
山斗さんがそう話す通り、海士町には実に多くのIターン者の姿がありました。
海士町の「集落支援員」として活動する、
花房さん(左)、寺田さん(右)もIターン組。
広島県出身の花房さんは、大学卒業後すぐの5年前に、
東京のIT企業で働いていた寺田さんは、
今年の5月に島へ移住してきました。
島の住民と触れ合うなかで、
お年寄りの方の愛着があって捨てられなかった古道具を集めた
古道具市を開催するなど、地域の触媒役として活躍しています。
島に移住し、起業した阿部さんもIターンの一人。
皆さん本当にイキイキとした表情をされていますね。
京都大学卒業後、トヨタ自動車(株)へ就職するも、
「持続可能な社会モデルを作りたい」と、
2008年、海士町へ移住し、仲間とともに(株)巡の環を設立。
島に根ざすための「地域づくり」事業、
島を知ってもらうための「メディア・WEB制作」事業、
そして、島まるごとを"学びの場"として企業や大学を島外から招き入れ、
フィールドワークとワークショップを行う「教育」事業と、
その領域は多岐にわたっています。
「地球1個分を超えた経済活動に、学生時代から疑問を持っていまして。
そんな時、島まるごと社会のモデルを目指そうとしている海士町の存在を聞き、
島の人たちと一緒に、持続可能な社会を追求したくて移住を決めました」
そう話す阿部さんは、自身のライフスタイルも、生命力にあふれたものでした。
会社として田んぼも運営する傍ら、個人で舟も所有され、
夏には素潜りで漁に出るという阿部さん。
「最近じゃ"仕事"と"プライベート"という言葉で
表現されるライフワークバランス。
島では、"くらし"と"仕事"と"稼ぎ"の3つが、
同じ活動のなかにあることに気付きました。
島でいう仕事とは、地域を守るために必要な役割のこと。
日本社会が忘れつつある生活が、島にはあります」
こうした若い人が海士町を知るきっかけの一つに、
2006~2009年に実施された「AMAワゴン」という企画がありました
「人が来ないならば、呼べばいい」と、
海士町から東京まで往復でワゴンを走らせ、
20人ほどの学生と若手起業家を海士町へ招き、
島の学校で出前授業をしたり地域との交流をする企画です。
「この時のネットワークが、
今の海士町にかかわる人たちにつながっているといっても過言ではありません」
山斗さんはそう振り返りながら、
同時に、企画の実現と成功のために頑張った
役場の課長たちの存在が大きかったと話します。
最近では、特に目立った観光名所のない海士町の売りは"人"として、
人々との出会いを楽しむ旅のガイドブック『海士人』も創刊。
町長はじめ、住民、U・Iターン、過去の歴史上の人物まで、
海士にまつわる魅力的な人たちが紹介されていました。
島国で同様の問題を抱えているという面では、
海士町はいわば日本の縮図のようなもの。
状況を打破するためには、
改めて島の資源を見直すとともに、
柔軟な舵取りが大切なことを知りました。
そして、そこにあるのは常に人の"情熱"。
それが人から人へと伝播し、社会を構成していくという好実例が、
ここ海士町にはあるように思います。
"民藝の器"を生み出す、湯町窯
流れるような直線と波線が織りなす文様に、
くまのプーさんのはちみつ壺を連想させる、黄色い釉薬が印象深い器たち。
素朴だけれど、どこかモダンで手づくりの温かさを感じます。
これらは、松江市玉湯町の玉造温泉駅から程近い住宅街にある、
「湯町窯」で作られており、
その地で育まれてきた歴史を踏襲した器たちです。
江戸時代に松江藩の御用窯として始まった"布志名焼(ふじなやき)"のひとつで、
大名茶人でもあった第7代藩主の松平不昧(ふまい)公の好みを反映した
茶器を中心に発展してきた歴史を持ちます。
大正11(1922)年に開窯した湯町窯では、当時、
火鉢を中心に作っていたといいます。
各家庭で会合があり、手を温めたり、灰皿代わりに使ったりと、
1軒で10~20個も火鉢が使われていたんだとか。
昭和に入り、民藝運動(毎日使う実用雑器にこそ美が必要という考えから、
それらを生み出す名もなき職人たちの手仕事に光を当て、それを広めようとした運動)
にいち早く参加し、その創始者である、柳宗悦やバーナード・リーチ、河井寛次郎らから
直接指導を受ける機会に恵まれ、洋食器が多く作られるようになりました。
湯町窯の3代目・福間琇士さんは、当時、2代目である父親の貴士さんの後ろから
その様子を見ていたそうです。
飾られていたこの写真は、バーナード・リーチ氏(左)が作る様子を見守る、
湯町窯・2代目の福間貴士さん(手前)と柳宗悦氏(右奥)。
そして、これはバーナード・リーチが1953年に湯町窯で作ったお皿。
これまで各地で見てきた焼き物の裏には、
必ずといっていいほど、民藝運動の足跡があり、
ここに来て、その実施者と直接かかわりを持った方にお話を伺うことができ、
なんだか感無量でした。
湯町窯では、地元産出の粘土や釉薬を使っていますが、
美しい黄色の釉薬が、英国のガレナ釉(鉛の硫化物)に似ていたこともあり、
バーナード・リーチがとりわけ興味を持ったのだそうです。
「いつも初心に返って、リーチ先生、ご先祖様、諸先生のおかげで
やらせてもらっていることを忘れずに作っています」
そう謙虚に話される、3代目の福間さんに、
バーナード・リーチ直伝の技を見せていただくことができました。
粘土と水を混合した泥漿(でいしょう)釉で化粧掛を施し、
乾かないうちにすぐ別の釉薬が入ったスポイトで模様を描いていきます。
「スリップウェア」と呼ばれる手法です。
その作業の早いこと!
スルスルと描かれ、あっという間に終わってしまいました。
ちなみに、焼き上がった器が、冒頭の写真にある黒いお皿です。
続いて、実演してくださったのがコーヒーカップの取っ手付け。
粘土を細長く伸ばし、コーヒーカップの側面上部に付けると、
指で生地を伸ばしながら、下部になじませていきます。
「取っ手を取って付けるのではなく、木に枝が生えるように付けるようにと、
リーチ先生から教わりました。
長さと厚さをつかむまでに随分と苦労しましたが、指一本が入って、
触れると熱い側面に指がくっつかないような持ちやすい仕立てになっています」
通常、型で取っ手の形を作ってから付ける手法が多いそうですが、
手で生地を伸ばして付ける方が圧倒的に速いといいます。
福間さんがニコニコ笑顔でこう続けました。
「ひとつ自慢してもいいですか?
この手法で1時間に150個取っ手を付けたことがありますよ。
当時それだけ買っていただけたので、上手になったんですけどね」
どこまでも謙虚な福間さんが、「これもうちの代表的な器です」
とご紹介くださったのが、このエッグベーカー。
ふっくらとしたフォルムが愛らしいエッグベーカーは、
50年以上のロングセラー商品で、これもバーナード・リーチ氏のアドバイスをもとに
生まれた逸品だそう。網の上やオーブンで調理して、
そのまま食卓に並べられる、お洒落で機能的な器です。
フタを開けると、ふわりと卵の香りが漂い、
出来上がった目玉焼きはトロリと絶妙な半熟具合に仕上がっていて、
これまでに食べたことのないおいしさでした!
盛りつける器によって、ごはんのおいしさは変わると思いますが、
「これを使って次は何を作ろうかな
」という、調理が楽しみになる器には
初めて出会ったように思います。
そう思わせてくれることこそが、暮らしの中に溶け込む
"民藝の器"である証なのかもしれません。
お茶文化が根づく町
島根県では、出雲市にある無印良品 ゆめタウン出雲へ。
いつものように人気商品を伺うと、紹介してくださったのがコレ↓
スタッフさんが手にするのは、
有機ハーブティーティーバッグ ルイボスティー(写真左)と、
スティック切れ端干しいも(写真右)です。
上述の通り、大名茶人の第7代松江藩主・松平不昧公の影響か、
出雲人はお茶が大好きだそうで、
お茶とお茶に合うお菓子が人気のようですね!
出雲地方では「ぼてぼて茶」という珍しいお茶も見かけました。
煮出した番茶を茶せんで泡立たせ、
その中にごはんやお豆、たくあん、こんぶなどを入れて飲むというもの。
名前の由来は、泡立たせる際の音から来ているそうですが、
そのルーツは、奥出雲のたたら製鉄の職人さんたちが高温で過酷な作業の合間に、
立ったまま口に流し込んでいた労働食だったという説や、
不昧公の時代の非常食だったという説、
上流階級の茶の湯に対抗して庶民が考え出した、
趣味と実益を兼ねた茶法だとする説などいろいろあるようです。
そういえば、富山県では「バタバタ茶」というものに出会いました。
なんだか響きが似ていますね。
ちなみに、ルイボスティーは南アフリカに伝わるノンカフェインのハーブティーで、
口当たりがとても滑らかで、なんだかホッとする味。
スティック切れ端干しいもは、その生産者を茨城キャラバンで取材しました。
無印良品のお茶もお茶菓子も種類がたくさん。
あなたのお気に入りの組み合わせを見つけてみてください!
"A級グルメ"の町
"B級グルメ"は聞き慣れた言葉になりましたが、
"A級グルメ"というワードを、
島根県邑南町(おおなんちょう)で初めて聞きました。
島根県の中部に位置する邑南町は、2004年10月に
旧石見町(いわみちょう)、瑞穂町、羽須美村(はすみむら)
の合併により誕生した町。
豊かな自然に囲まれ、寒暖の差を生かした水稲を中心とする
農業文化を形成する地域で、
現在 、"A級グルメ"による町づくりを行っています。
早速、仕掛人に会いに行きました。
現れたのは、パリッとジャケットを着こなした男性。
開口一番、出てきたのが
「昨日シンガポールから帰ってきましてね
」
という言葉で、なんだか商社マンのようですが、
彼は邑南町の商工観光課に勤める、寺本英仁さんです。
旧石見町ご出身で、東京の大学を卒業後、地元に戻って町職員に。
2004年の3町村合併時に、町の産業振興の担当になり、
道の駅の産直市や、地元産の和牛などを扱う通信販売サイト「みずほスタイル」
を次々と立ち上げていきました。
「地元の人は売れるという確信が持てる、青信号の状態じゃないと進めない。
赤か黄色か分からない時に切り込んでいくのが、行政の役目だと思ってます」
と寺本さん。
2005年にスタートした通信販売サイトですが、
当初、生産者はマイナス思考で、売れるかどうか疑問視していたそう。
そこで、寺本さんは発想の転換でモノの見せ方を変えていきました。
例えば、地元の石見和牛を売っていく際に
生産者は「うちには200頭しかいないから
」というところを、
寺本さんは「200頭限定の石見和牛!」というように変換。
「みずほスタイルをやって分かったことは、
モノが売れて外からのお金を獲得することが、町を元気にするのではなく、
モノが売れることが、モノづくりの人を元気にするんです」
通信販売という新しい販路が築け、モノが売れるようになり、
後継者が戻ってきたことに生産者は一番喜んだといいます。
また、2008年より毎年、全国の"田舎のお取り寄せ逸品"を
認定していくプロジェクト「oh!セレクション」を実施し、
審査委員長に料理愛好家の平野レミさんを招くなど、
PR活動に勤しんだ結果、邑南町の特産品の認知度は上がり、
一定の評価も得るようになりました。
しかし、質は評価されても、量がないのが弱点でした。
それなら、「ここでしか味わえない食や体験」を"A級グルメ"と称し、
人を呼び込んで、町内で完結させる「究極の6次産業化」を目指そうと、
取り組み始めたのが、2011年のこと。
その拠点として、2011年5月には、地元産食材を味わえる
町営のイタリアンレストラン「素材香房ajikura(味蔵)」をオープンさせました。
ここでまた面白いのが、そのプロデュースを担うシェフたちを
都市部から募集し、任せていることなんです。
シェフの三上さん(写真左)は、広島からUターン、
"耕すシェフ"の安達智子さん(写真右)は、横浜からIターンで
邑南町に定住しながら、野菜等の栽培から料理の提供までを行っています。
ちなみに"耕すシェフ"とは、将来的に邑南町で飲食店等の経営を目指す人を、
3年間の期限付きで町が募集しているもので、現在5人の"耕すシェフ"が活躍中。
安達さんは前職のネット広告代理店の経験を生かして、
情報の発信源となり、月1回、農家の方を招き、
その方が育てた野菜を使ったコース料理を楽しみながら、
生産者の想いを聞くことができる「生産者ライブ」の企画・運営も任されています。
島根県でこのような取り組みが10年ほど前からなされていたのは、正直知りませんでした。
こうした積極的な活動が行われているのはなぜなのかを寺本さんに尋ねると、
こんな言葉が出てきました。
「"過疎"という言葉は、実は島根から生まれたものなんですよ」
島根県西南端にある益田市匹見町は、1950年頃には7500人を超えていた人口が
1963年の豪雪後、人口流出が続き、現在は2000人を切っているそう。
また、65歳以上人口比率が53%を超える地域です。
「今我々がしていることは、10年後の日本につながる取り組みだと思っています。
『自分は何のために暮らすのか?』を考えた時に、
それは『自分らしさの追求』にあると思っていて。
そして、それは田舎の方が実現しやすいんじゃないかなって思うんです。
競争を生むのではなく、お互いを認め合う、
多面的な考えを認められる土壌づくりをできたらと考えています」
邑南町では、"A級グルメ"の町おこしのほかにも、
婚活イベントや子育て支援にも力を入れています。
「過疎化」は全国各地で起こっている、もしくは今後課題となってくること。
そして、邑南町には、そのヒントがたくさんありました。
羊飼いになった営業マン
これまでの旅路でも、数々のおもしろい方にお会いしてきましたが、
島根では、東京勤務の営業マンから羊飼いに転身された方に巡り合いました。
東海林誠(しょうじまこと)さん、36歳。
3年前に移住され、現在は役場で定住コーディネーターを務める傍ら、
羊飼いとしての道を歩まれています。
「羊飼いができる土地を探すこと約3年。
ここはようやく見つけた場所なんです」
東海林さんが選んだ先が、
島根県のほぼ中央部に位置する人口約4000人の小さな町、川本町。
東海林さんはここに至るまでに、
北海道、岩手、群馬、香川など、全国のファームを渡り歩いて、
結果、この地にたどり着いたんだそう。
「ここには、果樹園などでのびのびと暮らす羊の姿がありました。
考えてみれば昔は当たり前の風景なのですが、
私にとっては初めて見る光景で心躍りました」
中国山地に覆われた島根県は平たん地が少なく、
羊はすべて下草刈り作業の代わりと羊毛用に飼われていたのです。
この羊たちと共存・循環している風景こそが、
東海林さんの求めていた風景でした。
定住を決め、土地を借りて牧場をスタートしようとした矢先、
もともと、牧場を運営していた方から、
「羊を飼うのも高齢のためつらくなってきたので、
羊は譲るから引き受けてくれんか?」
と頼まれたんだそうです。
こうして、東海林さんの羊飼い生活が急展開で始まりました。
そもそも東海林さんがこの道を志したのは小学校3年生頃から。
「動物好き」「仲間好き」という単純な理由から、
「将来の夢は牧場経営!」と決めていたんだとか。
とにかく楽しかったという高校2年の時のファームステイで、
その道に進むことを決めた東海林さんでしたが、
親から反対を受け、しぶしぶ大学へ進学。
大学時代も、夏休みを利用して牧場でアルバイトなどするなか、
東海林さんにとって衝撃的な出会いがあったそうです。
一つは、羊との出会い。
糞の付いたお尻を地面にズリズリとこすりつけている羊を見て一目惚れし、
一生、羊たちと過ごしたいと思ったんだそう。
もう一つは、飼育専用スタッフに言われたひと言。
「最近は都会の人が脱サラして農業を始める人が多いが、
生まれた時から農業に携わっている自分たちが伸び悩んでいるのに
うまくいくわけがない!」
東海林さんは、言い返す言葉が見つからなかったそうです。
この時、東海林さんが胸に誓ったのが、
「羊牧場を都会の人だからこそできるやり方で成功させる!」
ということ。
急きょ、予定を変更して牧場就職をやめ、まず都会でやれることをと、
食品流通と販路の確保のために、野菜市場に就職。
家業の会社でも、商品の企画・開発・販売などに携わり、
満を持して、羊牧場の道へと突き進まれたのです。
こうして培われた力を活かし、現在では、
町でかねてから行われていた羊毛の加工産業の振興とともに、
あまり文化としてなかった食用としての羊の出荷など、
町の新たな産業興しにも挑戦されていっています。
「収入はまだおぼつかないですが、
やれることがやれている幸せはこの上ないです」
と語る東海林さん。
羊10頭と猫のサクラに囲まれながら、家庭菜園も耕し、
小学校からの夢を実現させていっています。
最後に、田舎への移住に対する心構えを伺いました。
「まずは目的を置くこと。田舎暮らしはそう甘くありません。
なぜ田舎で暮らしたいかの理由を明確にしないと、
理想とのギャップに心が折れてしまうこともあります。
ただ、まずは一歩踏み出して、各地をその目で見てみること。
そうすれば自ずと縁が生まれていくものです。私もそうだったように
」
夢を叶えながら、現実を歩みつつある東海林さんの言葉には
重みがありました。
「無地極上」の器
出雲市斐川町(ひかわちょう)にある「出西窯」(しゅっさいがま)へ向かうと、
モクモクと煙の立つ建屋が目に入ってきました。
そう、この日は年に3~4回行っているという、登り窯の火入れ日。
これまでも、登り窯は何度か目にしてきましたが、
実際に火入れ日に遭遇したのは初めてのことです!
窯内の温度を測ることが困難な登り窯においては、
ゼーゲルコーンと呼ばれる粘土や釉薬の成分を固めたものを窯に入れ、
焼成具合を測るんだそうです。
焼物の大きさによりますが、4000~5000個を一気に焼き上げられる登り窯では、
準備に1週間、焼くのに2日間、冷ますのに3日間を要するんだとか。
少人数で運営している窯元が多い昨今、
手間も時間も要する登り窯を、単独で焚ける窯元は珍しいのではないでしょうか。
工房へお邪魔すると、バランスの取れた年代別の陶工たちの姿が。
地元から、県外から、出身地も人それぞれです。
ろくろ成型から釉薬掛けまでをそれぞれが一貫して行っているため、
個人作業になりそうですが、
そこには不思議と和気あいあいとした雰囲気が流れていました。
「出西窯の成り立ちか関係しているのかもしれません」
そう教えてくれたのは、出西窯の2代目代表理事を務める多々納さん。
「1947年、戦後の焼け野原からはじまった出西窯は、
父を含む5人の青年によって創業されました。
民藝運動にかかわった島根県出身の河井寛次郎氏に手紙を送るなど、
積極的に良いモノを作ろうと励んできた窯元なんです」
積極的で柔軟な姿勢の出西窯は、
河井寛次郎や濱田庄司、バーナード・リーチといった、
名だたる民芸運動家たちに手ほどきを受けながら、
その技術を向上させてきたようです。
実際に、出西窯のカップ&ソーサーでコーヒーを頂きました。
鮮やかながら、落ち着きのある釉薬の風合いからか、
不思議とほっとした気分に浸れます。
「カップを手にした時、コーヒーを口に含もうとした時、
その存在を忘れてしまうような器を目指しています。
そこで違和感を覚えてしまうものは、日常使いの器としては適していない」
多々納さんがそう話す通り、出西窯の焼物のコンセプトは「無地極上」。
倉敷民芸館の初代館長、外村吉之介(とのむらきちのすけ)の言葉で、
「日常的に使い勝手が良いものほど無地の品が一番である」
という意味だそう。
また、多々納さんはこう続けます。
「一般の食器棚を想定して、きちんと収納できるよう、
現代の食生活の用途に合うような器を目指しています」
確かに、出西窯の器を見ていると、
これは朝食プレートや取り皿に、これはサラダにもラーメンにも使える、
など使用シーンを想起させてくれます。
食器棚に収容できるように、様々な用途に使えるようにと、
そこまで考えて作られている器とは、うれしい限りですね。
出西窯では創業期の想いを忘れないために、今でも朝礼時に
河井寛次郎氏の「仕事のうた」を全員で音読しているようです。
「仕事が仕事をしてゐます 仕事は毎日元気です
出来ない事のない仕事
どんな事でも仕事はします いやな事でも進んでします
進むことしか知らない仕事 びっくりする程力出す
知らない事のない仕事 きけば何でも教へます たのめば何でもはたします
仕事の一番すきなのは くるしむ事がすきなのだ
苦しいことは仕事にまかせ さあさ吾等はたのしみましょう」
民藝運動のDNAを受け継ぐ窯元は、
現代における民陶を今日も提案し続けています。