MUJIキャラバン

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現代によみがえる、下駄

2014年06月11日

「花火大会に下駄を履いて行って、帰りに足が痛くなった。
そんな経験あるでしょう?
一日中履いていても足が痛くならなくて、
ジーンズにも似合う下駄を作りたいと思ってね」

そういえば、前回下駄を履いたのはいつだろう…
そんな想いを巡らせながらお話を伺ったのは、
静岡県静岡市にある、株式会社水鳥工業の代表・水鳥正志さんです。

静岡市には"材木町"という町名が存在するほど、かつては林業が盛んで、
下駄製造が地場産業として成り立ってきました。

その歴史は江戸時代の初めにさかのぼり、
徳川家康が駿府城築城や浅間神社造営のために、
全国各地から職人を集めたことが始まりとか。

その後、そのまま住み着いた職人が、静岡の伝統工芸のひとつ、
「駿河塗り下駄」の発展に寄与したといいます。

「昔は下駄が嫁入り道具だったし、地に足がつく暮らしが出来る様にという想いから、
お正月には親が子に新しい下駄をプレゼントする習慣があったんですよ」

※嫁入り道具の下駄

水鳥工業は昭和12年に、下駄の木地製造業からスタート。

しかし、昭和38年頃にはライフスタイルの変化にともない、
下駄木地の需要がほとんどなくなり、
サンダル用の天板や中芯の加工を手掛けるように。

また、昭和50年頃には、シューズの中底の加工を開始しました。

履物という括りでは同じものの、木地製造と中底の加工の技術は全くの別物。
水鳥さんは神戸の靴屋に技術を学びにいったそうです。

それでも、平成元年頃には、今度はサンダルやシューズメーカーの製造が
海外へシフトしていき、水鳥さんは危機感を抱きます。

「このままだと近い将来、日本でのサンダル、シューズ製造は激減する…」

中国の視察に行ってそう感じたという水鳥さんは、
頭を悩ませた末、あることに気付いたといいます。

「日本の気候風土にあった下駄をもう一度作れないか。
足の裏は平らじゃないし、足は左右あるんだから、
その区別のある下駄があったらいいじゃないか!」

帰国した水鳥さんは、早速新しい下駄づくりの話を
メーカーに持ち込みましたが、誰からも相手にされませんでした。

そこで、水鳥さんは覚悟を決めて、自社で下駄づくりを行うことを決めます。

そうして生まれたのが「げた物語」という名のついた下駄でした。

水鳥さんは、なぜ現代において下駄が履かれないかを今一度考え、
それは鼻緒が痛いからということと、今のライフスタイルに合わないからと結論づけます。

そこで、足を優しく包み込むような幅広い鼻緒と、
ジーンズなど現代のファッションにも合うデザインを実現。

履いた時に足にフィットするよう、鼻緒をつける時には、
足の専門家が作る"ラスト"と呼ばれる足型を下駄台に合わせて行います。

また、一日中履いていても足が疲れないように、
足裏のラインに気持ち良くフィットする木地部分は、
職人さんの手彫りで、一足一足仕上げています。

創業当時行っていた下駄木地製造の技術と、
何十もの工程を追って完成する中底づくりの技術の両方が、
まさに生かされていました。

「実は、静岡大学との共同実験で、
水鳥の下駄が健康に良い影響があるというのが分かったんです」

常務の水鳥秀代さんがそう教えてくださいました。

素足の場合と、水鳥の下駄を履いた場合の、
歩行前と30分間歩行した後の、足裏の血流循環量と重心位置を測定。

すると、水鳥の下駄を履いた場合に、
血流循環量が活発になり、体の重心も最適な位置に近づいていたというのです。

さらに水鳥の下駄の場合、浮指(立った時、足指5本が地面に付かない状況)が
改善されることも分かりました。

「履き心地を追求したうえで、履いていて楽しい下駄を作り続けたいですね」

そう秀代さんが話すように、水鳥工業では、
様々な素材にこだわった鼻緒を用いた下駄や、

デザイナーとのコラボレーション下駄、
最近では、木地に静岡産のヒノキを使った下駄も手掛けています。

「下駄は平和な時代に進化する履物。
いつまでも下駄を履いて暮らせる平和な時代が続いてほしい…
そういった願いを込めて、下駄を作り続けていきたいです」

そして、世界中の人にもっと下駄の良さを知ってもらいたい、
そう語る、水鳥さん。

左右形が異なるというのは、靴づくりからすると当然のことですが、
それをこれまでなかった下駄の世界で実現し、
履き心地を追求してきた結果が、
今こうして現代のライフスタイルに受け入れられることにつながっていました。

高温多湿の日本の風土に合った下駄が、
今一度、私たちの生活によみがえろうとしています。

父から息子へつないだお茶

2013年06月19日

「よかったらお茶をどうぞ」

旅路の途中にも、幾度となく振る舞ってもらったお茶。

ホッと一息、緊張が緩和されるとともに、
その慣れ親しんだ味に、日本人であることを実感します。

そんなお茶の一大産地といえば、静岡県。

江戸末期、大政奉還で追われた徳川慶喜が静岡に移り住み、
その従者たちが生業を作るべく、お茶栽培に専念したことが、
茶葉の一大産地となった要因といわれています。

そんな静岡県に、完全有機栽培を手掛ける一軒の茶農家がありました。

藤枝市の「葉っピイ向島園」。

「父は、敷かれたレールの上を歩むことに疑問を持ち、
常に"生きるとは何か"について考えていました。
そこで、人間と自然は共存していくべきだということに、気付いたんです」

代々引き継がれた農園を担う、
向島和詞(かずと)さんはそう語ります。

「地上にあるものすべて一つひとつが、
自然の仕組みの中では掛け替えのない役割を担っています。
確かに農薬・化学肥料はある面から見ればとても妥当な方法ですが、
生命の次元で見た場合には、つながっている命の流れを断ち切ることになる。

生あるものすべは、単独で生存できているのではなく、
みな一つの輪としてつながっていることを思い出し、
今まで、私たち人間が立ち切ってきた輪を元の状態に戻すことが、
何よりも大切なことなのではないか」

そんな想いから、周囲の反対にあいながらも、
父・和光(よりみつ)さんが無農薬・無肥料栽培に挑み始めたのは、
今から30年ほど前のこと。

初めの頃は、農薬や化学肥料の影響で、
茶木の生命力が弱く、ほとんど収穫することができなかったそうですが、
試行錯誤の末、6年後には以前の収穫量にまで戻すことができたそうです。

しかし、そんな確固たる信念を貫きながらも、
手塩にかけてきた茶畑と家族を残し、9年前に父・和光さんは他界。
18歳にして息子、和詞さんは茶畑を継ぐことに。

父からは何も教わっていないという和詞さん。

というのも、かなりヤンチャだったという青春時代、
アルバイトを2、3掛け持ちしながら、ひたすら稼ぐことに精を出していたそうなのです。

そんな和詞さんが茶畑を継ぐことを決めたのも、
父親の残してくれた茶畑に強いコンセプトを感じたから。

「父は、想いは強かったですが、経営は下手でした。
事実、蓋を開けてみたら借金まみれ。
いくら想いがあっても、つぶれたら周りに面目が立たないですよね。
父の想いを形にしてあげたいと思ったんです」

茶畑には、父から残された向島園ならではの、様々な工夫がありました。

茶樹の種は自家受粉できないため、
同じ茶葉を育てるために挿し木で増やすのが一般的。

しかし、種から育てる場合と比べ、幼少期に経験が少なく、
得てして農薬が必要なほど、弱い木に育ってしまうそうなのです。

そこで向島園では、できるだけ強い茶樹に育てるため、
一葉の段階で挿し木をし、育苗室ではなく、畑に直接植えていました。

また、一般的には収穫量を増やすために、下の写真のように茶樹は密植されていますが、
これでは人間が満員電車に乗っているのと同じで、茶樹にもストレスがかかるそう。

向島園では、茶樹がのびのびとした環境で成長できるようにと、
一本一本ゆとりを持って植えられています。

この一本仕立てによって、しっかりと出来上がった幹は、人の腕よりも太く、
幹を切ると茶樹には珍しく年輪が見えるほどだとか。

根も4~8mほど地下に伸び、病害虫に対しての自己防衛力・自己治癒力、
そして何よりも、生命力の強い茶樹に育っているのです。

そして茶葉からお茶に加工していくのも、茶農家ならではの仕事です。

通常、外部の工場で他の茶葉とともに加工されることが多いそうですが、
向島園は自社に設備を構え、裏山から湧き出る清水を使って
自社で完全オリジナル加工まで行っていました。

明らかに工程の多いお茶づくりですが、
和詞さんは「実に奥が深く、面白い」と語ります。

そして、そのお茶の奥深さを消費者に伝えていく必要がある、と。

「人間なんて、お茶がなくても生きていけるんです。
だからこれからは、"歌って踊れる生産者"が必要。
農業を発展させていくためにも、
その面白さを伝えていくことが求められると思っています」

そのために和詞さんは、お茶にまつわる様々なワークショップを開催し、
新しいニーズを開拓することにも余念がありませんでした。

「有機農家に限って、同業界と付き合わない人も多いんですが、
僕は逆にお茶屋さんと仲良くしてもらっています。
それは、万民と付き合ってもらえるものを作っていきたいし、発信していきたいから。
農家はアーティストたるべき。これからも自分たちの信念を伝えていきたいです」

お茶づくりにおいては、まだまだ父を超せていないと語る和詞さん。

しかし、和詞さんによる新しい展開によって、
向島園へは新しい光が差し込んでいるようでした。

父から子へ引き継がれたお茶からは、とても優しい味がしました。

心地良いくらし

2013年03月22日

この旅で、改めて身近にあるモノやコトの大切さを実感する日々ですが、
なかでも「食」に対する価値観は大きく変わりました。

だからといってスーパーに売られているものに文句をいうぐらいなら、
いっそ自分で作ってみようと、思うようになりました。

ただ、自分たちだけで農作物を作りながら「半農半X」的なくらしをするのもいいですが、
それを地域コミュニティで実現できれば、知識も手間も共有し合えて、なおいいのでは?

そんなふうに考えていると、実際にそんな町が全国にあることを耳にしました。
通称「エコビレッジ」と呼ばれ、自分たちで農園を営み、
電力を自給し、町単位で持続可能性を追求するコミュニティです。

そんなエコビレッジのなかでも、ゆるやかなつながりのコミュニティが、
静岡県にあると聞いて、お邪魔しましした。

静岡駅から車で15分ほどのエリアに構えられた
エコロジー団地「池田の森」。

「ゴルフ練習場」として運営していた敷地を、
10年の構想を経て、「池田の森」に再生したのが、
(有)池田の森ランドスケープ代表取締役の漆畑成光(のりひこ)さんです。

「私が生まれ育った頃は、この辺りは畑と田んぼと山がある純農村地帯で、
家にもヤギや羊が飼われていたんですよ。
この団地では、そんな里山の風景を再現したかったんです」

そう想いを語ってくれた漆畑さんが参考にしたのは、海外のエコビレッジ。

アメリカ・カリフォルニア州デイビスにあるビレッジホームズや、
ドイツのエコロジー団地を参考にしたランドスケープが描かれています。

団地内の道路は子供がのびのびと遊べるように、
蛇行させたり、行き止まりだったりとスピードが出せない仕立てに。

食べられる町づくりを目論んで、街路樹には実のなる木が植えられ、
旬の時期には地域の子供たちが収穫して届けてくれるそう。

エコの観点でも、様々な仕掛けが講じられていました。

全戸の地中には、雨水タンクが埋められ、
庭木への散水はもちろん、有事の際の貯水として役立てられています。

公園の柵には間伐材が用いられ、

街灯用の電力は、風力+太陽光発電によってまかなわれています。

団地の中心の畑には、共有のコンポスターも。

「これを設けただけで、住民は落ち葉を拾ったら、
自然とコンポスターに集めてくれるようになりました。
堆肥にして土に戻す。その循環を意識するだけでも有意義なことです」

漆畑さんがそう語るように、コンポスターで堆肥化された落ち葉は、
住民の希望者によって組織された「農園クラブ」の共同農園に還元していました。

この共同農園は、団地の希望者ごとに区画が割り振られ、
各戸で自由に農産物が育てられています。

メンバーの皆さんは工夫しながら有機栽培に取り組んでいるとのこと。

併設されている漆畑さんが管理する田んぼでは、
田植えから収穫まで、団地の住民が協力して行っています。

毎年、秋に開催する「収穫祭」と呼ばれるバーベキューでは、
収穫した野菜を食べながら親睦をはかっているそうです。

「入居者に条件を設けたわけでも、行事への参加を強制しているわけでもありません。
町づくりをする身としては、あくまでもインフラ整備のお手伝いをするだけ。
概念ではなく、体験を通じてこうしたくらしの"心地良さ"を分かってもらいたい」

実際、住んでいる方は自営業者から、企業勤めのサラリーマンまで様々な顔ぶれ。
特にエコ意識の高い人ばかりが集まったわけではなく、
野菜作りも漆畑さん含め、初心者がほとんどだったんだとか。

ただ、こうした様々な活動によって、
住民のあいだにはゆるやかなエコ意識と連帯感が生まれていっているそうです。

団地内に流れる空気に、おだやかな雰囲気を感じたのは、
住民の方々が決して無理をしていないからだと思いました。

「昔の公団住宅なんかも、こんな雰囲気だったと思うんです。
エコを意識したわけじゃなく、昔の知恵に立ち返っただけ。
内側から体質改善できる場になれればと思っています」

そう話す漆畑さんも奥さんも、実に充実した表情をしていらっしゃいました。

私たちの思う"心地良いくらし"の一つの形が
ゆるやかなエコビレッジ「池田の森」にはありました。

いでぼく

2013年03月21日

「いくら牧場をキレイにしながら、良い牛乳を搾乳していても、
大手牛乳メーカーの牛乳に混ぜられれば一緒。それが悔しかったんです」

「いでぼく」の専務取締役、井出俊輔さんは開口早々、そう切り出しました。
いでぼくは、雄大にそびえる富士山の麓、静岡県富士宮市に構える牧場。

それまでは大手ナショナルブランドのために生乳を出荷していましたが、
18年ほど前から自らのブランドで牛乳を出荷するようになり、
今では、静岡県下のスーパーをはじめ、サービスエリアにも直営店を構えています。

その台頭ぶりの秘密を探りにお邪魔すると、
そこは、それまでの牧場のイメージを覆されるような場所でした。

まず驚かされたのが、
牛舎に近づいても、まったくといっていいほどニオイがしないこと。

「掃除は徹底していますから。牛だって人と一緒で、キレイな環境で過ごしたいんです。
糞尿まみれの牧場から、おいしい牛乳が採れるわけがないでしょ」

井出さんがそう語る通り、牛舎内は牛たちが寝そべる"敷きぬか"から餌まで、
湿気が籠って異臭を放たないよう、徹底して衛生管理が行われていました。

これは創始者のおじいさんの代から当たり前にしてきたことだそう。

「意識しているのは、人間のリズムに牛を合わせるのではなく、
牛のリズムに人間が合わせることです。
ストレスのない牛たちは、おいしい牛乳をたくさん出してくれる。
当たり前のことなんですが、"命"を育てている仕事なんです」

いでぼくでの日課は、
あくまでも"牛の"生活サイクルに合わせたものになっていました。

例えば、観光向けに乳搾り体験などは行わず、
1日2回、朝と晩にしっかり手搾りで搾乳しきってあげること。
それも搾乳が許されるのは、選ばれしプロのみという徹底ぶりです。
そうすることで、牛は張った乳にストレスをかけることがありません。

また、井出さんは牛の性格まで把握していました。

乳牛の代表格として知られる「ホルスタイン種」を普通とすると、

口当たりがすっきりしたミルクが特徴の、
日本では希少な「ブラウンスイス種」は"お嬢様"、

濃厚な乳質が特徴な「ジャージー種」は気の弱い"おてんば娘"と。

「ジャージーは、体調が悪くなると大げさにアピールしてくるんですよ。
人間だったら、かわいいけどお付き合いはできない。そんなタイプですね(笑)」

冗談を交えながら、井出さんは親しみを込めて牛のことを語ります。

何よりもいでぼくの最大の特徴といえるのが、
牛舎と生乳加工場の距離が近いこと。

本来、搾乳された生乳は、牧場から加工場に集められ、
一緒くたに殺菌加工処理され、出荷されるのですが、
殺菌加工されるまでに3~4日要することが一般的。

それが、いでぼくでは牛舎の衛生管理が行き届いていることから、
加工場が目と鼻の先に構えられており、
搾乳したての生乳をすぐに殺菌加工することができるのです。

"搾りたて牛乳"とは、まさにこのことですね☆

そんな牛乳をジェラートやソフトクリームにも展開しています。

牛乳を70~80%も贅沢に使用できるのも、牧場ならでは。

出産したての母牛から40分以内に搾乳した
成分の濃い牛乳を使用した「FIRST MILK SOAP」は、
いでぼくだからこその逸品といえるかもしれません。

また、こんな取り組みも。

掃除で集められた糞尿は堆肥にされ、地元の希望農家に配給しているのです。

逆に農家からは、その堆肥で育てた野菜が届けられ、
いでぼくの直営店で販売されています。

化学肥料をできるだけ使わずに豊かな土壌を作るための、
地域内循環のための取り組みです。

「牛という"命"からもたらされる恵みを、極力、無駄にしたくなくて。
あとは、日々の基本をキチンとやる。それだけです」

井出さんの言葉からは、一消費者としても、
牛という"命"から、かけがえのない"恵み"をいただいているという、
当たり前のことを思い返させてくれました。

そして、その恵みを最大限おいしくいただくために、
いでぼくでは努力を惜しまずに取り組まれていました。

その努力の結果は、静岡含む関東県下で約3000ある酪農牧場のなか、
関東生乳品質改善共励会で、最優秀賞を獲得したことが物語っているようでした。

遠州産のコーデュロイ

2013年03月20日

先月、Found MUJIで「日本の布」という企画が行われました。
日本全国の布の産地を訪れ、作り手と一緒になって
新しい価値の創造を行おうというもの。

今回、私たちキャラバン隊もその企画でお世話になった、
コーデュロイの生産者を訪ねました。

もともと、コーデュロイは、ベルサイユ宮殿を建てたことでも有名な
フランスのルイ14世が、庭仕事をする召使いの制服として用いたことが始まりだそう。
語源はフランス語の「Corde-du-Roi(王様の"畝(うね)")」
から来ているという説もあります。

日本では明治時代前期に、鼻緒の需要から江戸で製造が開始され、
その技術が静岡県西部の旧磐田郡福田町(現磐田市界隈)に伝わり、
現在も同地域で全国の95%以上のコーデュロイが作られているといいます。

コーデュロイとは、縦方向に"畝"のある、主に綿の織物のことで、
厚手で耐久性に優れ、保温性が高いため冬物の服によく用いられます。

コーデュロイに限らず、静岡県西部の遠州地方は繊維産業が盛んですが、
その理由は3つありました。

1つ目は、立地条件。
江戸時代中期以降、各藩の奨励もあって綿作りは全国に普及しましたが、
遠州地方は、温暖な気候などに恵まれていることから、
愛知県東部の三河、大阪南部の泉州と並び、
3大綿産地の一つとして全国に知られるようになりました。

2つ目は、海沿いの地域で、漁船のための帆布が作られていたため、
厚い布を作る技術があったのです。

そして、3つ目の理由を、Found MUJIの企画でコーデュロイの布を織ってくださった、
福田織物の福田靖さんが教えてくださいました。

「この地域には、昔から織機を作る合金技術があったんです。
浜松に本社がある、スズキ自動車も本田技研もヤマハもそうですし、
スズキもお隣のトヨタも最初は織機を作っていたんですよ」

そう聞いて、以前、別の織物工場で「豊田織機」の機械を見て、
それが自動車のトヨタであることを知って驚いたことを思い出しました。

コーデュロイは毛皮のような動物素材ではなく、
自然素材(綿)を用いたもので冬に適した唯一の素材だそう。

コーデュロイの保温性が高いのは、
パイル繊維の間に空気層ができるからだそうですが、
生産工程において、よこ糸で形成されたパイル糸を切る
"カッチング"と呼ばれる作業がとても重要だと福田さんは話します。

しかし、残念ながらこの技術を持つ職人が年々減少しているそう。
福田さんは、引退宣言をしていた高い技術を持つ、職人の星野秀次郎さんを説得し、
2年前からオリジナルのコーデュロイ生地を一緒に開発するように。

それがFound MUJIで今回お披露目された生地だったのです☆
パッチワーク柄のコーデュロイで、綿花のようなフワフワの手触りです。

福田さんに紹介いただき、星野さんの工場、ホシノへ。
すると、星野さんがちょうどカッチングの作業中でした。

福田さんの工場で織られた布のパイルよこ糸(写真下)を
1本ずつ切っていくのですが、
こんなに細かい糸を一体どのように切っていくのでしょうか?

その答えはこれでした!

「ガイドニードル」と呼ばれる細い針の先で、パイルよこ糸を持ち上げ、
その上がった部分を、円形カッターで切っていくのです。

細かい畝のコーデュロイを作るには、
ミクロン単位で、ガイドニードルやカッターを削り、
それらを一つひとつ手作業で設置していく必要があるんだとか。

「細かすぎてもう目では見えないから、指の感覚で見るんですよ」

職人歴47年の星野さんは、過去使ってきた様々な種類の
ガイドニードルやカッターを捨てずにとっておいたからこそ、
現在の細かいカッチングにも対応できているといいます。

星野さんの手にかかれば、絵や文字を表現することも可能ですし、

この波模様のようなカッチングも、8年かけてその技術を完成させたそうです。

「コーデュロイが"メイド イン 福田町"というのを知ってほしい。
技術の底上げのためにも、オンリーワンじゃなくて、
ナンバーワンを目指してやっていきたいですね」

星野さんがカッチングに懸ける想いを話すと、福田さんも続けます。

「産地が生き残っていくためにも、"いいモノ"ではなく、
"人を感動させられるモノ"を作りたいと思っています。
そのためにも、私が世界一だと思っている星野さんのカッチングの技術が必要。
星野さんとの新しい技術の開発は、若い世代にコーデュロイの可能性を知ってもらい、
後継ぎを作ることが目的なんです」

「先輩たちが頑張ってきてくれたコーデュロイを守りながらも、
新しいコーデュロイ開発していくのが自分たちの使命。
一人でも多くの人に、遠州がコーデュロイの産地であることを伝えていきたいです」

福田さんと星野さんの想いが一つになり、
そこから新たな技術が生み出されていく。

その魅力を発信していくことのお手伝いを、
Found MUJIやMUJIキャラバンで少しでも担えたら、
これほどうれしいことはありません。

からみ織り

2013年03月19日

私たちの生活に寄りそう最も身近な素材といえば、
繊維ではないでしょうか。

一言に「繊維」といっても、その素材は化学繊維と天然繊維に分けられ、
天然繊維のなかでも綿や麻などの植物繊維、絹やアルパカなどの動物繊維とあり、
素材によって特徴も様々です。

素材は、原料の繊維を紡いで糸にする"紡績"、
その糸を交差させていく"織り"の工程を経て、はじめて布地となり、
洋服やカーテンなど、様々な繊維製品に用いられていきます。

また、素材の良し悪しを決める"織り"の手法も様々で、
一般的には「平織り」「綾織り」「しゅす織り」の3つが主流ですが、
今回訪れた静岡では、代々継承される独特の織りがありました。

「からみ織り」

2本のたて糸を交差させながら、その間によこ糸を通していく織り方です。

この2本のたて糸がねじられているのがポイントで、
よこ糸をしっかりとキープするためズレにくく、粗い目を出すことができます。

通気性が良いことから、夏用の浴衣やタオルケットなどに用いられますが、
静岡県の遠州灘に面した地域では、かつて漁網を編むのに用いられてきました。

その技術を継承する職人がいる、磐田市福田にある工場を訪ねました。

愛犬のももとともに迎えてくれたのが、からみ織り職人の佐野公生さん。

「昔はうちも漁師をやっておりましてね。半漁半網とでもいうのでしょうか。
私も"網屋の子"なんて呼ばれていました」

しかし、漁業の衰退や化学繊維の台頭によって、徐々に漁網の需要は減少。
佐野さんの父親の代から、布巾やボディタオルといった日用品向けに、
からみ織りの技術を活かしていくようになりました。

「蚊帳の素材としても注目されたんですよ。
糊づけされた蚊帳だと洗うことができませんが、
からみ織りであれば、よこ糸がズレにくいため、洗うことも可能なんです」

通気性が良くて、丈夫で洗える。

そんなからみ織の特徴を活かし、無印良品のオーダーメードのカーテンも、
からみ織りで作られています。

このからみ織りを織り成すのは、
昔ながらの織機と佐野家で代々引き継がれている技術。

「天然繊維を用いているので、
織機の力加減が利かずに糸を切ってしまうことも多々あります。
だから、付きっきりで調整してあげる必要があるんですよ」

佐野さんがそう話しているあいだにも、
けたたましい音を上げながら稼働していた一つの織機がストップ。

佐野さんはすぐさま不具合を判断し、調整していました。

「最近は目が悪くなってしまってね。息子に助けられることも多いんですよ」

今では、静岡県下でからみ織り専門の織屋(はたや)は3軒のみというなか、
後継者のいる佐野さんは、希少な存在です。

ただ、佐野さんは今のままでは難しいと警笛を鳴らします。

「私も父親から、継ぐなら自分で糸を買って織り、
自分で売っていかないとダメな時代が来るといわれていましたが、
実際それは当たっていました。息子には、このからみ織りの技術を活かして、
もう少し"味"を加えていってほしい。それが日本のものづくりの生きる道です」

佐野さんが継いだ頃は、
発注先からいわれた通りのものを織っていればお金が入ってくる時代でしたが、
一般的なものが徐々にコストの安い海外産のものにシフトしていくにつれ、
日本製のものはオリジナリティが求められる時代に。

佐野さんは、からみ織りの技術を活かして様々な柄を生み出し、
婦人服用の布地としても用いられ、その需要を開拓していったのです。

※写真はからみ織りによる伝統柄

「それまでできなかった織りが、
何年か続けると突然できるようになることがあるんです。
その時はうれしいですね」

そう笑顔で話される、根っからの職人気質の佐野さん。

最近では、テキスタイルデザイナーとともに企画し、
佐野さんの織ったストールがニューヨークのMOMA美術館の目に留まり、
併設のSHOPで扱われることが決まったそうです。

伝統技術を、その時代に合わせて展開していくことは、
どの業界にも求められていることなのかもしれません。

中伊豆の沢わさび

2013年03月18日

お寿司やお蕎麦などの日本食に欠かすことのできない「わさび」。

わさびは学名を"Wasabia japonica"と呼ぶように日本原産の香辛料です。
抗菌効果や抗虫作用があり、独特の鼻を突き抜けるような辛みと香りは、
食欲を増進させるのにも役立つといわれています。

もともとわさびは山や渓流に自生しているものですが、
江戸時代に現在の静岡市有東木(うとうぎ)地区で栽培が始まり、
徳川家康がそれを愛好し、門外不出の御法度品にしたと伝えられているそう。

そんなわさびの市場出荷量が日本一を誇る、
中伊豆のわさび農家・飯田哲司さんを訪ねました。

飯田さんはちょうどお父様と一緒に収穫後のわさびの出荷準備中でした。

一本一本包丁の角を使って細かい根などをきれいに取り除きます。

この状態(写真右上)だと、見たことのあるわさびの姿ですが、
わさびがそもそもどのように栽培されているのか気になって、
現場へ連れて行っていただきました。

すると、そこには山間に広がる段々畑の緑の絨毯が!

すぐ横には川が流れていました。

わさびの栽培方法は、大きく分けて2つ。
渓流や湧水で育てる「沢わさび」(水わさび)と、
畑で育てる「畑わさび」(陸わさび)があるそう。

飯田さんが育てる沢わさびの栽培には、日陰の立地で
12~13℃の豊富な水が必要だといいます。

「うちのわさびは湧き水のおかげで、露地栽培なのに一年中採れるんです」

飯田さんのわさび田は、天城山の北側に位置し、温度を一定に保つために、
地盤を深く掘り、大きな石から小さな石の順に敷き詰めて表面に砂利をのせた
「畳石(たたみいし)式」が取られていました。

これは、この地区で開発された栽培方式で、
天城地区と中伊豆地区では一年を通じて、わさびが栽培・収穫されています。

自然の湧き水による栽培のため、肥料や農薬は基本的には使うことができず、
水の管理や防虫、除草の手入れを日々行うんだそう。

そんななか、最近とある問題が起こっているといいます。

「温暖化の影響か、渇水や夏に温度が上がりすぎる問題があるんです。
わさびが自然環境を敏感に受ける、こういう場所で育っていることを
まずみんなに知ってもらいたい」

そう話す飯田さんは、わさびの収穫体験を実施しています。
体験に来た子どもたちは、わさびの収穫にはもちろん、
沢に泳ぐカニやカエルなどにも大興奮するんだとか。
水が綺麗だからこそ、見られる光景です。

「あとは、わさびの本物の味も知ってもらいたいですね」

そういって、収穫したばかりのわさびをその場ですりおろしてくださいました!

わさびは反時計回りに笑いながらするのがおいしくするコツだとか。
その理由は「笑うといい具合に力が抜けるから」と飯田さん。

細胞を細かく摩砕できるサメの皮のおろし器を使った、
すりたてのわさびはというと…
爽やかな風味とともに、ほんのり甘みすら感じる衝撃の旨さでした!

種類が豊富なわさびのうち、飯田さんが栽培するのは、
わさびの最高級品種といわれる「真妻(まづま)」のみ。
他の品種と比べて、色みや辛み、甘みなどのバランスが一定していますが、
栽培期間が他よりも長く、栽培できる場所を選ぶといいます。

一度真妻を食べたら、別のわさびを口にできなくなると話す飯田さんは
最後にこう加えました。

「やっぱり自分がおいしいと思うものを届けたいですから。
真妻が育つ、この自然を大切にしていくことも大事な役割だと考えています」

静岡といえば…

静岡といって思い浮かべるものといえば…

お茶!

緑茶の生産量全国1位として知られる静岡県ですが、
その栽培は13世紀に聖一国師という高僧が宋から種子を持ち帰り、
生まれ故郷の静岡市に蒔いたのが始まりといわれています。

静岡のお茶は、徳川家と縁が深く、
幼少期や晩年を駿河(現在の静岡県中部から東部にかかる地域)で過ごした
家康が好んで飲んだそう。家康は、そのおいしさを満喫するため、
 夏の間は、標高1000mを超える静岡市北部の井川大日峠に、
お茶を保管するための蔵を建てさせたんだとか。

また、現在お茶の最大生産地である、牧之原台地とその周辺地域は、
大政奉還後に徳川慶喜を、駿府(現在の静岡市)まで警護した
300人にのぼる幕臣の精鋭たちによって、開拓された地でした。

静岡県内を車で移動中には、何度も茶畑のある光景を目にしましたが、
そんな静岡県でお邪魔した、無印良品 アピタ静岡でも、
ご紹介いただいた人気商品は、やっぱりお茶!でした。

この春登場したばかりの「アロマティー」です!

6種類の果実の香りに合った茶葉が組み合わせてあるのですが、
なかでもこのお店で特に人気なのが、
アロマティー 白桃&緑茶」だそう♪

飲んでみるまで、その味の想像がつかなかったのですが、
白桃の芳醇な香りが漂うホッとする味でした。

ティーバッグなので、水筒に熱湯と一緒に入れて、
私たちもいつも持ち歩いています。

6種類の香りの中から、みなさんもお気に入りを見つけてみてください☆