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人の循環する町

2013年01月18日

徳島県北東部に位置する神山町(かみやまちょう)。
この町が近年「すごいことになっている!」という噂を聞きつけ、やってきました。

徳島市内から車で約40分の山間にある人口6350人の町は、
"遍路ころがし"といわれる、四国霊場八十八ヶ所最大の難所がある場所だそう。
その町で昨年度、初めて転入者が転出者を上回ったというのです。

一体、神山町で何が起こっているのでしょうか?

その理由を語るのは、NPO法人グリーンバレーの理事長、
大南信也(おおみなみしんや)さんです。

「そもそものキッカケはPTA活動で子どもの学校に行った時に見かけた、
"アリス"という一体の青い目の人形だったんですよ」

以前、カリフォルニアで日系人が差別されていたことを受け、
1927年、米国から日米友好のために全国の学校に人形が送られました。
しかし、後の太平洋戦争で多くの人形が処分されます。
大南さんが地元の小学校で見かけたアリスは、
戦後まで残った約300体のうちの一つだったのです。

「この人形の送り主を探したら、何か起こるかもしれないって思ってね。
1991年に"アリスの里帰り"を計画したんです」

アリスにはパスポートが付いていて、そこには出身地が書いてあったそう。
市長に手紙を書いて問い合わせをし、なんと64年の時を越えて、
アリスの送り主のご遺族と対面を果たしたといいます。

そして、この時の成功体験を共有できていた仲間が、
今のグリーンバレーの中心メンバーとなっています。

"アリスの里帰り"を機に、大南さんらは「神山町国際交流協会」を立ち上げ、
毎年キャンプを開催したりと、町民を巻き込んで国際交流を図ってきましたが、
現在の活動を行う転機となったのが、
県の計画で神山町に国際文化村を作るという「とくしま国際文化村構想」でした。

「その時、神山町から県に対して、中身の提案を行ったんです。
施設ができても内容がともなわなければ使われなくなる」

その時の案が、現在も継続して行われている、
"環境"に軸を置いた「アドプト・プログラム」と、
"芸術"に軸を置いた「アーティスト・イン・レジデンス」でした。

「アドプト・プログラム」とは、民間団体が道路や河川の清掃活動を行うこと。
現在、20団体が参加し、清掃活動を行っているそうです。

「町に訪れた時に、汚い場所だったらもう二度と人は来ないと思うんです。
五感で感じられる町を目指したいと思って」

一方、「アーティスト・イン・レジデンス」は
毎年8月末から約2ヶ月間、国内外のアーティスト3人を神山町内に招いて、
芸術作品の制作・展示を行うもので、今年14年目を終えました。

本年度参加した、ドイツで活動するアーティスト出月秀明(いでつきひであき)さんは、

「ずっと温めていたアイデアを神山の大自然の中で形にできました。
この場所が個人と社会の関係や自分の時間を考えてもらう場になれば…」

と語ります。

出月さんが手掛けたのは森の中にひっそりと佇む
「隠された図書館」。

神山町住民の希望者に、人生で3回、
卒業、結婚、退職の時に読んでいた本を収めてもらい、
記憶を共有、もしくは思い出してもらおうという作品です。
図書館を開けることができるのも住民のみなんだとか。

大南さんは"アートによる町づくり"についてこう話します。

「手法は2つあって、
一つは評価の定まった作家の作品を集めて観光客に見に来てもらうこと。
もう一つは、作家に作品制作のために滞在してもらうこと。
神山町が行っている後者は、作家が住民との触れ合いを通して、
神山の町民によるお遍路で培った"おもてなし"を自然に受けることで、
神山のファンになっていくんです」

実際、「アーティスト・イン・レジデンス」で過去に神山町を訪れた人が
後に移住してくるようになったそう。

そこで、ウェブサイトを一新し、神山町での暮らしを伝える
「神山で暮らす」というコンテンツを載せると、一気に注目を浴びるように。

その後、神山町から委託されて移住交流支援センターを運営するようになり、
「ワーク・イン・レジデンス」という新たな仕組みを取り入れます。

「田舎には職がないからといって、若い人が集まらない。
だったら、仕事を持ってきてもらおうってね」

それは、自分たちの町に必要な職種の人を逆指名で募集する、という驚きの策でした。
これまでに、パン屋やWEBデザイナー等が移住してきているといいます。

さらに、2年前から「サテライトオフィス」の事業展開を開始し、
すでに9社が神山町にオフィスを構えています。

(写真上:Sansan(株)・サテライトオフィス
写真下:(株)ソノリテ・サテライトオフィス)

「町の活性化のためにモノを作るのではなくて、
"人"が集まる場所を作るんです。
入ってきた人は必ず何かを残していってくれますから」

直近では、神山町に住む映像作家・長岡マイル氏と、5人の外国人作家が
里山や鎮守の森の現在、林業や様々な森を基点とする仕事などをテーマに
国内5つの場所を訪問し、「森と暮らしの関係」を撮影する、
「森と共に生きる暮らし方」探訪キャラバン
(愛・地球博成果継承発展助成事業)を企画・実施中。

来る2月10日(日)、11日(月・祝)に
シンポジウムでの映像上映を予定しているそうです。

神山町に訪れる前に聞いていた、「神山がすごいことになっている!」というのは
今に始まったことではなく、
大南さんら、グリーンバレーが1991年の"アリスの里帰り"以降、
ずっと継続して行ってきた様々な取り組みの結果だったのです。

大南さんはアリスという人形との出会いと、
アリスの送り主との交流を通して、
「今やっていることすべてに意味があるはず」
ということを学んだそう。

*できない理由より、できる方法を!
*とにかく始めろ!(Just Do It!)

という活動指針を置いて、これからの時代を先読みしながら
"人"による循環型の町づくりを実践しているグリーンバレーは、
地域の課題に正面から向き合い、その解決のために今日も突き進んでいます。

ジャパン・ブルー

2013年01月17日

"ジャパン・ブルー"とは、藍染めの色を指す言葉です。
諸説ありますが、明治初期に来日したイギリスの学者が、
多くの日本人が藍染めの服を着ていることに驚き、表した言葉なんだそう。

しかし、藍染めは日本独自のものというわけではありません。
茜染めや紅花染めなどのように決まった植物で染めるのではなく、
その土地にある"藍の色素"(インジゴ)を含んだ
植物の葉を利用して染めるのが藍染めです。

ヨーロッパではウォード、インドでは印度藍、
日本ではタデ藍や琉球藍がありますが、
日本における藍最大の産地は、阿波の国(現在の徳島県)。

県内を東西に流れる吉野川は、その昔、
台風が来るたびに洪水を繰り返す"暴れ川"だったそうですが、
そのおかげで流域には肥沃な土が運ばれ、藍作を可能にしたといいます。

藍は春に種を蒔き、夏に刈り取りを行うので、
私たちが徳島県にお邪魔した12月中旬には
残念ながら畑での栽培風景を見ることができませんでしたが、代わりに
藍の葉から「すくも」と呼ばれる天然藍染料を作る藍師さんを訪ねました。

作業が行われている「寝床」をのぞいてみると、
建物の中には鼻にツンとするニオイが充満しています。

一見して、土の山かと思ったら、これこそが藍の葉の塊でした。

夏に収穫した後、天日乾燥させ保存していた藍葉に
水をかけてはかき混ぜ、発酵を促すのです。

発酵が進むにつれて、積み上げた藍葉の温度は上昇し、
中心部は75℃近くの熱を持つといいます。

週1回、この水をかけてはかき混ぜる、「切り返し」という作業を行い、
それ以外はむしろの布団をかぶせて寝かせ、
約4ヶ月にわたって一連の作業を繰り返していくのだそうです。

摘みたての葉でも染料にはなるそうですが、
生葉染めの場合、夏から秋のタデ藍が生い茂る季節にしかできません。
そこで、藍の葉を保存しておくために、乾燥させるようになり、
乾燥した葉を発酵分解することで、藍の成分を凝縮させ、
保管、移動に便利になるだけでなく、
布や糸をより濃く鮮やかに染め、堅牢にすることもできるんだとか。

「阿波藍(=すくも)は1年かけて作る染料。
便利になった今の世の中で、これを残すことは時代に逆行していると思うけど、
ここで受け継がれてきたこの仕事を続けていきたい」

江戸時代後期から阿波藍を生産している、
新居製藍所・6代目の新居修(にいおさむ)さんはそう話してくださいました。

そして、仕事を続けていくうえで重要なのは"人材育成"
と語る新居さんのもとでは、
現在、息子さんの他に2人の若者が修業中です。

山形県出身の渡邊健太さん(27歳・写真左)と、
青森県出身の楮覚郎(かじかくお)さん(23歳・写真右)。

彼らは今年の7月から"上板町(かみいたちょう)地域おこし協力隊"として、
藍染め文化の伝承とPRを目的に日々活動しています。

すくもづくりも、染めも両方勉強中の2人に、
今度は染め工房に連れていってもらい、
せっかくなので、藍染めを体験させてもらうことに!

白い布を糸で縛ったり、洗濯バサミで挟んだり、
そのままくくるも、フィルムケースで挟むもよし。

心のゆくまま、染めない部分の模様づくりをしたら、
すくもに"ふすま"と呼ばれる小麦の外皮、石灰、木灰汁を加えて
さらに10日間ほど発酵させた、藍液の中に入れて少し浸けます。

実は藍液は還元状態で、青くありません。
どちらかというと、緑色のようですが、
空気に触れることで酸化反応が起き、
藍の成分が繊維としっかり固着して、そこで初めて鮮やかな藍色を発色するのです。

藍液に浸けては出し、酸素と触れ合わせる作業を
6回程度繰り返したら、水で洗って出来上がり!

想像以上に簡単、そして見栄えのよい仕上がりに大満足です♪
他にも、くしゃくしゃと丸めて茶こしに入れて染めるだけで…

こんな素敵な模様にもできてしまうんです★

ちなみに上板町の「技の館」ではどなたでも藍染め体験が可能です。

最後に、渡邊さんと楮さんに
なぜ藍染めに興味を持たれたのかを尋ねてみました。

「もともと古来の人のものづくりに興味があって。
初めて天然の藍染めを見た時に言葉にできない感動を覚えたんです。
今は毎日が楽しくて仕方ありません!」
(渡邊さん)

「大学で染めの勉強をしていたんですが、天然染料の中でも藍は特別。
将来、藍を使った自分好みのジーンズを作ってみたいと思っています!」
(楮さん)

天然藍に惚れ込んだ2人は、「BUAISO」というユニットを結成し、
来年春からは畑を借りて、タデ藍を育てるところから行っていくそうです。

「BUAISO」の2人からは、
天然藍を守らなくてはいけない、という使命感よりも、
大好きな藍にかかわるだけで楽しくてうれしい、
その魅力を素直に伝えていきたい、という想いがにじみ出ていました。

現在、灰汁発酵建ての藍染めは全体のわずか1%程度といわれていますが、
天然藍には、肌荒れ、冷え性を防ぎ、殺菌・防虫効果などがあるとされており、
身につける人を優しく守ってくれます。

かつては庶民のための染料であり、
「ジャパン・ブルー」と称えられる美しいこの天然藍に
まずは触れてみる機会がもっと増えたらいいなと思います。

葉っぱと共にイキイキと

2013年01月16日

「明るく元気に100歳まで長生きするわ~♪」

満面の笑顔を見せながら、そう元気に話される西蔭さんは、
今年でなんと75歳を迎えられます。

その年齢を感じさせないイキイキとした姿に、驚きを隠せない私たちの前で、
今度は「プルル プルル」と携帯が鳴りだします。

「注文入ったかしらね~」
と、おもむろに携帯を取り出す西蔭さん。

画面を見せていただくと、1通のメールが届いていました。

「新しい注文があります。◆南天(ジャンボ) 1ケース」

「ほな取っておこうかね~」
そういいながら、今度はパソコンに向かいます。

「画面が更新されるのが遅いんよな~」
とつぶやきながら、トラックボールで巧みに画面を操ります。

「えい!」と気合を入れてクリックすると…

画面には
「残念! 注文を取ることができませんでした」
の文字が!

「ありゃ~!」
ショックのあまり、作業中の葉っぱを散乱させてしまいました。

「私、のんびりした性格だからね~。あっはっは~!!」

一緒になって笑いながらも、
目の前で起きている事象が信じられないでいると、

「畑に出ている時は、これを持ち歩くの」
といって、西蔭さんが出してきたモノは…

なんとタブレット端末です!!

75歳のおばあちゃんが、まさか携帯、パソコン、
タブレット端末までを使いこなされるとは…。

西蔭さんが取り組まれているのは、徳島県上勝町の
(株)いろどりが運営する通称"葉っぱビジネス"。

自宅の裏山や畑で栽培した花木の葉っぱを摘んで、
それを料理の"つまもの"として出荷しています。

全国の飲食店等からいろどりに葉っぱの発注が入ると、
「注文」という形で会員農家の端末に連絡が入ります。

それを受けた130~40軒の会員農家のあいだで、先述のような
注文の先取りがネットを通じて行われているのです。

今では時期ごとに、何の葉っぱの注文が入りやすいかまで、
農家のおばあちゃんたちが独自に分析をしているんだとか。

まるでマーケットの予測を立てるトレーダーさながらの姿ですね。
その日の自分の売上ランキングも、毎日チェックしているんだそう。

最高90歳のおばあちゃんまでもが、
同じように取り組まれているというから更なる驚きです。

「このビジネスによって、
町のおばあちゃんたちがイキイキと輝き始めました」

同じくイキイキした表情で、快く取材に応じてくださったのは、
(株)いろどりの代表取締役社長、横石知二さん。
この方こそ、葉っぱビジネスを起こされた仕掛け人です。

事の発端は1981年のこと。
上勝町役場に就職し、地元の農協に配属された横石さんを、
記録的な異常寒波によるミカン畑の壊滅という事件が襲います。

町の農業をどう立て直すか?

使命感に燃える横石さんは、たまたま立ち寄った難波のお寿司屋さんで、
料理に添えられていた"つま"を大切そうに持ち帰る女性客の姿を目撃。
その瞬間、横石さんはひらめいたといいます。

上勝町に戻り、農家の方にアイデアを説明するものの、大多数が反対。

それでも賛同してくれた4軒の農家とスタートを切るものの、
当時"つま"は料理人が自分で摘んでくるもので、そうしたビジネスもなかったため、
全く売れない多難な船出だったそうです。

どうしたら売れる"つま"になるのか、
横石さんは自腹を切って、ひたすら料亭に通いつめます。

葉っぱの種類、色、形、大きさなど徹底的に研究を進めながら、
それを農家の方たちと共有し開発を進めると、徐々に売れ始め、
事業に参加する農家も増加。

現在ではなんと年商2億円を超える、町の重要な産業にまで成長しました。

「おばあちゃんたち一人ひとりのツボを知っていたこと。これに尽きます」

葉っぱビジネスの成功の秘訣を、横石さんはそう語ります。

「他の会員には負けたくない」という競争意識と、
経営者のように自覚を持って取り組んでもらうための仕組みが、
おばあちゃんたちの自発的な行動を促したのです。

横石さんは、おばあちゃんたちのやる気を最大限引き出すために、
他にもこんな取り組みをしていました。

前日からのトレンドや当日の目標を綴った、
手書きによる一斉FAX。

そして、会員農家さんしか読むことのできない、
横石さんのブログ、ならぬ、「見たら得する情報」の投稿。

今や講演などで全国を飛び回る横石さんですが、
旅先からも情報をアップデートされていっています。

「経営者にとって一番大切なことは、
生産者(労働者)との距離感だと思っています」

そう話す横石さんは、ビジネスが軌道に乗ってきた頃、
事業から退こうと考えたこともあったそうです。

そんな時、生産者代表のおばあちゃんが、嘆願書と全会員農家の署名を持って、
運転して帰路につこうとする横石さんの前に現れ、こう言い放ったんだとか。

「帰るんだったら、私を引いてくれ。
あなたがいなくなったら、私は生きている意味がない」

今でも宝物だという、その時の「嘆願書」と「署名」を、
特別に見せていただきました。

そこには、横石さんと農家のおばあちゃんたちとのあいだの、
言葉では言い表せないほどの、絶対的な信頼関係の証が記されていました。

葉っぱビジネスという、一見シンプルに思えるモデルですが、
長年かけて構築された仕組みと、
横石さんと生産者らの強固な関係があってこその結果でした。

そんな上勝町では現在、未来の子供たちに豊かな大地を引き継ぐために、
2020年までにゴミの焼却・埋め立て処分をなくすための活動
「ゼロ・ウェイスト」にも取り組んでいっています。

できる限りのリサイクルを実現するために、
34分別したゴミの完全持ち込み制を導入。

「量り売り」のお店もオープンするなど
ゴミを極力出さないようにするための活動も始まっています。

高齢者が生涯イキイキと働き、
その環境を守るための活動にも積極的な町、上勝町。

日本の目指すべき社会が、そこにありました。

極上の甘み、和三盆

2013年01月15日

江戸時代、鎖国中の日本で唯一、開かれていた長崎県の出島には、
外国との交易のために、日本で大量に採掘された金銀が集められていました。

それら金銀で取引されていた主要な輸入品の一つが、「砂糖」。
当時、輸入のみで賄われていた砂糖は貴重品として扱われていました。

京、大阪、江戸へと運ぶのにたどる長崎街道は別名「シュガーロード」とも呼ばれ、
街道筋では古くから甘い菓子づくりが盛んに。
「長崎カステラ」や、飯塚銘菓「ひよこ」もその類です。

しかし、産出する金銀が枯渇してくると、
幕府は砂糖の輸入を減らすため、国内でのサトウキビの生産を推奨します。

各藩が砂糖生産にしのぎを削るなか、特に高松藩がサトウキビ栽培を奨励。

サトウキビから抽出される黒糖を白糖に精製する技術も確立し、
これらは「和三盆(わさんぼん)」と呼ばれる高級砂糖として流通しました。

この和三盆は、今でも香川県と徳島県の一部地域で生産され、
和菓子づくりには欠かせない砂糖として使用されています。

香川では、この和三盆を干菓子にするための「木型」を作る職人を訪ねましたが、
徳島県では、和三盆そのものを作る現場を訪ねることができました。

徳島県上板町にある「岡田製糖所」。

吉野川の下流域にあたる上板町の土壌は非常に痩せており、
芋さえも満足に育たなかったそうですが、
日照時間の長さと温暖な気候は、サトウキビの栽培には適していたそうです。

訪れた12月中旬は、ちょうど収穫真っ最中で、
50軒弱の契約農家から収穫されたサトウキビが次々運び込まれてきました。

ここで栽培されているのは「竹糖」といって、
沖縄などのサトウキビとは品種が異なり、背丈が低く茎が細いのが特徴です。

ゆえに、搾り汁も限られるため、生産量も多くは確保できません。
ただ、寒さにも強い品種で基本、農薬も必要とせず、
きめの細かい糖分が搾取できるんだそう。

この竹糖の搾り汁から、あくや沈殿物を取り除き、
撹拌しながら煮詰めて、「白下糖」を作っていきます。

この時点では、まだご覧のようなキャラメル色で、糖蜜が含まれています。

糖蜜はミネラル分などの不純物を多く含み、風味が豊か。
ただ、調理の現場からは、風味が少なく甘みの強調されたものが求められるため、
ここから不純物を取り除いた白い砂糖へと加工されていくのです。

ある程度、寝かした状態の白下糖を麻袋に入れ、
酒造りと同じように「押し船」と呼ばれる原始的な器機にかけられます。

徐々に石の重しを加えていくことによって、
ゆっくりと糖蜜を搾り出すのです。

ある程度、蜜を抜いたら、いよいよ和三盆の要ともいえる「研ぎ」の作業へ。

研槽(とぎぶね)と呼ばれる桜の木の台上で、
熟練の職人が精力を注ぎ込みながら、ギュッギュッとこねていきますが、
この時、加える水の量と力具合がポイント。

かつては盆の上で3回研いでいたことから、
和三盆と呼ばれるようになったんだとか。

これを現在では1週間にわたって5回も繰り返し行い、
徐々にとろみのある白色の砂糖へと研いでいくのです。

これを乾燥させ、ふるいにかけるとサラサラの「和三盆」が完成。

ひと舐めさせてもらうと、
ふわりとした上品な甘みが口の中に優しく広がりました。

現在、市場に流通する「上白糖」や「グラニュー糖」といった精製糖の多くは、
機械によって脱色・結晶化したもので、糖度はほぼ100%。

ただ、こうして手作業で研がれた「和三盆」の糖度は85~90%で、
微量のミネラル等がまだ含まれているのです。

父親の後を継いで、研ぎ職人になった坂東永一さんは、
和三盆づくりに対する想いをこう語ります。

「この地域で慣れ親しまれた甘みですから。
父親に負けない和三盆づくりをせんとね」

サトウキビ畑に囲まれて育った坂東さんにとって、
和三盆は小さな頃からの記憶の塊といえるのかもしれません。

この地域で愛されてきた極上の甘みは、父から子へと引き継がれ、
今では全国の甘味ファンの舌を満たしています。

意外な四国の文化圏

訪れるまで四国は一つの文化圏として成立しているのかと思っていましたが、
実際は4県ともにそれぞれ向いてる方向が異なっていました。

香川は岡山、愛媛は広島、徳島は関西、そして、
それら3県に囲まれて独自の文化圏を築く高知は海の先のアメリカ、
というのが、四国人の中でのまことしやかな定説なんだそう。

確かに香川での天気予報は、四国括りではなく岡山と一緒に放送されていましたし、
徳島では関西の放送局が映りました。

そんな徳島で訪れた無印良品「ゆめタウン徳島」では、
影響の強い関西TVの番組で紹介された商品が大人気なんだとか。

それは…、

マイルドオイルクレンジング」です!

オリーブオイル・ホホバオイル配合で、
うるおい成分にはアンズ果汁、桃の葉エキス使用。
無香料で仕上がっています。

スタッフさんいわく、ポイントメイクにも素早く馴染んでしっかり落とし、
目に入ってもくもりにくいそうですよ♪

私も次のクレンジングに試してみたいと思います!

美しき日本を残すために

2013年01月14日

吉野川の中流域「大歩危(おおぼけ)」渓谷。

そこから剣山へと抜ける途中に、その地はありました。

日本三大秘境の一つにして、
平家落人伝説の里ともいわれる徳島県「祖谷(いや)」。

その深い渓谷にうっそうと朝もやがかる様は、
しばしば日本の「桃源郷」と呼ばれるほどです。

今から40年ほど前、この地を訪れ、
魅了された一人の青い目の青年がいました。

現東洋文化研究者、アレックス・カー氏です。

父親の仕事の関係で、12歳から2年間ほど横浜で暮らしていたアレックス氏は、
イエール大学在学中、再び日本へと留学。
その頃に祖谷を訪れ、その眺望と人々の暮らしに魅了されます。

「ここには"日本の原風景"がある」

そう考えるようになったアレックス氏は、
100軒以上の空き家を回って一つの茅葺き家屋に巡り合い、
親に借金までして、その古民家を購入しました。

地域住民とともに茅を葺き替え改修し、

そこを「篪庵(ちいおり)」と名付けます。

アレックス氏は日本文化の研究、および海外への紹介に励み、
一方で、篪庵は外国人来訪者のための家屋として使用されてきました。

そんな篪庵の価値やアレックスの思いに、市や国が賛同し協力することになり、
大改修工事が実現され、正式に古民家宿として、生まれ変わることになったのです。

改修には日本全国から、アレックス氏の活動に関心のある若者が集まり、
約40年前と同様、地元の方々とともに進められました。

こうして今夏、ゲストハウス「篪庵(ちいおり)」としてオープン。

外観は完全なる茅葺きの古民家ですが、
中に入ると、まるで戦に備える本陣のような佇まいになっていました。

内部の飾りや調度品は、すべてアレックス氏がこれまで集めてきたものだそう。

その重厚感あふれる趣だけでも圧倒される雰囲気ですが、
驚いたのが床暖房をはじめ、ハイテクを駆使した仕立てになっているのです。

入り口は、鍵の受け渡しの面倒を省くための、
番号入力によるセキュリティキー。

台所はIHが導入されたシステムキッチンを配備。

ウォッシュレットのトイレに、シャワールーム、

お風呂場にはヒノキ風呂がありました。

古民家にハイテクの設備。

そのギャップに驚きを隠せませんでしたが、
これらはすべてアレックス氏の考えに基づいていました。

彼は、日本に必要なものは、古いものを大切にしようとする意識と、
古い建屋を保存するために、現代人が快適に暮らせるように改修する技術、
と説いているのです。

思えば、ヨーロッパの街並みがなぜ、美しいと感じるのか。
それは、現代の用途に合わせた使い方をしながらも、
昔ながらの街並みを保存しているからのように感じます。

アレックス氏によると、
欧米の石の建物は、一度ヒビが入ると改修が困難なようですが、
それを技術でカバーしているとのこと。

家屋改修のための技術を進め、"きれい"な状態で
古い街並みを残していくことが日本の今後にとって何よりも大切、
とアレックス氏は語っています。

彼のプロデュースによって近くの落合集落に今年オープンした、
「浮生(ふしょう)」「晴耕(せいこう)」「雨読(うどく)」といった古民家宿にも、
篪庵と同じコンセプトが取り入れられていました。

これらの古民家改修に携わり、
今もこの祖谷で働く「篪庵トラスト」の笹川さんは、
取り組みについての想いをこう語ります。

「アレックスは、観光バスが停まるような観光地としての開発ではなく、
人々の暮らしのなかにこそ、その土地の魅力があるという考えに基づいて、
こうした宿泊施設をオープンさせました。
ここを拠点に祖谷での暮らしを体験してもらって、
やがてこの地に移り住んでくる若者が増えてくるといいですよね」

現に笹川さんも、この取り組みに共感して、
祖谷へ移住してきた一人です。

現代の日本が取り残してきた土地にこそ、
本来の日本の姿が残っている。

こうした視点を得るためにも、
時に外からの目線が必要だということを、
祖谷は気付かせてくれました。