MUJIキャラバン

「東京」カテゴリーの記事一覧

金継ぎ

2014年06月04日

大切な器をうっかり壊してしまった…

こんな時、あなたならどうしますか?

以前の私たちであれば、泣く泣くゴミに出していたかと思います。

しかし、今なら別の選択肢を選ぶかもしれません。
それは、「直す」という選択肢を知ったから。

日本には、割れたり欠けたりした器を漆で接着し、
金蒔絵を施して直す「金継ぎ」という伝統技法があります。

金継ぎは、「茶の湯」(茶道)の発展にともない、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて完成した、
日本独自の修復技術だといわれています。

当時、茶の湯はお殿様など限られた世界の人のみの嗜み(たしなみ)であり、
茶の湯に必要な茶碗も当然高価なもの。
壊れてしまったとすれば、そのものに対する執着心は
今よりも一層強かったことは容易に想像がつきます。

「金継ぎのすばらしいところは、使うための修復だという点です。
器の割れ目をあえて目立つように、金で装飾するというのは、
日本独特の美意識だと思いますよ」

とは、東京都豊島区にある「金継宗家」の宗匠・塚本将滋さん。

塚本さんは子どもの頃に、ご先祖様の故郷である滋賀県の彦根城で見た、
"朱漆塗りの甲冑"に魅せられ、
それがキッカケで東京芸術大学に進み、彫金と漆塗り、蒔絵の技術を学びました。

そして、金属に漆を塗るという、金胎漆芸の技を独自に開発。
漆アートや漆アート・ジュエリーを手掛けるアーティストとして、長年活躍しています。

また、20代から茶道の遠州宗家に入門。
江戸時代初期の芸術家・本阿弥光悦が手掛けた、
金継ぎの赤楽茶碗「雪峰(せっぽう)」と運命的に出会い、
金継ぎも始めるようになります。

「この『雪峰』は、金継ぎを、単なる修繕技術から、
初めて芸術の域まで高めた記念すべき作品です」

「雪峰」(畠山記念館蔵)

「雪峰」は、もともと窯傷の割れの生じた失敗作だった茶碗を、
茶人でもあった本阿弥光悦が、
朝日があたる雪の積もった峰のイメージとして見立てたんだとか。

金継ぎの世界では、修復した跡を「景色」と呼び、
修復前と異なる趣を楽しむそうなのですが、
金継ぎを施すことで、その器は確かに唯一無二の珍宝に生まれ変わるのです。

全工程に通常数ヵ月を要する、金継ぎの作業ですが、
特別にその工程を追って見せていただきました。

まず、割れた器の破損部分に、
漆とでんぷん糊を混ぜた刻苧糊(こくそのり)を塗り、
そこに、刻苧糊と陶土を混ぜた粘土状の刻苧(こくそ)で充填します。

乾いたら、平らに成形し、その上に黒漆を塗って、さらに乾かし、
研ぎ炭で平らに磨いて下地を整えます。
この工程が、後に行う蒔絵に際して、とても重要なポイントだそう。

金継ぎを行う人のなかには、この磨きにサンドペーパーを使う人もいるそうですが、
サンドペーパーでは真っ平らにならないと、塚本さんはいいます。

続いて、蒔絵を施す部分の下塗りに、"幻の筆"と呼ばれる、
ねずみの毛で作った蒔絵師が使う根朱筆(ねじふで)で絵漆を塗り、

絵漆が乾く前に、"粉筒"(金粉を蒔くための竹の筒)を使って、
純金粉を蒔きつめます。

漆工芸技法の一つである蒔絵ですが、
呼び名の由来は、まさにここにありました。

そして、蒔いた金粉を筆で掃けると、この通り。
絵漆を塗った部分にだけ、綺麗に金が定着しています。

しかし、まだこれで終わりではありません。

瑪瑙(めのう)のヘラ、椿の炭、砥石の粉と菜種油、鹿の角粉を用いて、
光沢が出るように磨き仕上げをして、ようやく完成。

出来上がりの金継ぎ部分を触らせていただくと、
目を閉じていたら、どこが破損部分か分からないほど、
滑らかですべすべな仕上がりです。

「江戸時代から伝承する、壊れたものに新たな価値を与えて蘇らせるという、
素晴らしい技術を失くしてはならない。
蒔絵による正統な金継ぎを途絶えさせてはいけないと思うのです。
私は、先に述べた『雪峰』を手本に、四十数年技を磨いてきましたが、
流儀の金継ぎを後世につないでいくことも使命だと思っています」

塚本さんはそんな想いで、15年前から金継ぎ教室を開催。
20〜70代の幅広い年齢の生徒さんが、金継ぎを学んでいます。
最近では、フランス人とドイツ人も習いに来ているそう。

「生徒さんは、大きく分けて2通り。
思い出のある品を蘇らせたいという人と、骨董品に興味があるという人。
最近、20歳代の男の子が『カッコイイから』と入門したことには驚きましたよ」

かつては庶民のものではなかった金継ぎが、
一般化しつつあることが不思議だと語る、塚本さん。

「ものを慈しみ大切にする日本独特の"MOTTAINAI(もったいない)"精神は、
今も昔も変わらずに、私たちの中にあるのかもしれませんね」

一度割れてしまった器をさらに価値あるものに蘇らせる、「金継ぎ」。

何でも簡単にものが手に入ってしまう時代だからこそ、
特別な一点物を傍に置きたいという欲求が、高まってきているのかもしれません。

[関連サイト]  金継ぎ・金継宗家金継宗家 ブログ

文庫革

2013年12月11日

書籍や身の回りの大切な物などを保管しておく、文庫箱。

貴重品を箱に入れてしまうという習慣は古代からあり、
その昔は、木や紙の箱に漆を塗っただけのものでしたが、
皮なめしの技術が確立すると、革を貼ったものも作られるようになりました。

皮革産業が古くから盛んな兵庫県の姫路では、
江戸時代中期〜後期にかけて、藩の財政が厳しくなり、
革を生かした工芸が発達します。

真っ白な革を使用して独特な加工を施す、姫路革細工というものです。

この姫路革細工は、その後、一大消費地である江戸に"文庫革"として伝わり、
関東大震災前までは、5軒ほどの工房が東京にあったといいます。

今回訪れた、墨田区にある『文庫屋「大関」』は、
現社長の田中威(たけし)さんの祖父が昭和初期に創業した、
現在東京に唯一残る、文庫革の工房です。

文庫革の製造工程は、まず、姫路でなめされた白皮に
"しぼ"と呼ばれる革の揉みじわを入れた後、
プレス機を使って柄の型押しをしていきます。

現在使用されている型は、銅板のものが中心ですが、
戦前は木版、戦後はマグネシウム板と素材も変化してきました。

型押しが終わると、次に"彩色(さいしき)"という工程で、
皮革専用の絵の具を使って、一筆ずつ色をさしていきます。

「8色の絵の具だけで、無限に色を創り出すんですよ。
同じ色を作るのが難しかったりもしますが」

とは、その道45年のベテラン・大関春子さん。

一時、大関さんが唯一、彩色の後継者だった時期もありましたが、
ネットで文庫革の存在を知った人たちが集まり、
現在は複数名のお弟子さんと一緒に作業をしています。

続いて、"さび入れ"と呼ばれる工程。
色止めをした後、革の表面に漆を塗り、
仕上げに"マコモ"という植物の粉をふりかけて定着させます。

すると、色を塗らずに残しておいた部分にマコモの茶色の色が入り、
独特の風合いが生まれるといいます。

(写真下右:さび入れ前、写真下左:さび入れ後)

「マコモが入ることでそこが影の役割を果たし、
色を乗せた柄の部分が浮き上がって見えます。
古びをつけるというのですが、これですごく味が出てくるのです」

初めて聞きましたが、マコモとはイネ科の植物で、
田中社長いわく、鎌倉彫りにも使われているものだとか。

「兵庫や大阪にも姫路革細工の工房は何軒かあるけれど、
さび入れをしていない所もあるといいます。
私は"さび入れ"が文庫革の面白みだと思っているので、
そこだけは変えずに守っていきたいですね」

文庫屋「大関」はこれまで卸し売りが中心でしたが、
それだけでは文庫革についてお客様にきちんと伝えきれていない…と、
一昨年、念願の直営店を浅草に出店しました。

お店を訪れると、浅草寺のすぐ近くということもあり、
平日の昼間でしたが、観光客や外国人のお客様で店内は混み合っていました。

ズラリと並ぶ色とりどりの柄を目の前にすると、
思わず「どれにしようかな〜」と選びたくなり、心がわくわく躍ってきます!

デザインはおじいさんの時代から使っているものもあれば(写真下左)、
田中社長が手掛ける新しいデザイン(写真下右)もあります。

「色や柄は時代によって好みが変わる。
バリエーションを持つことで、幅広いお客様の要望に応えたいと思っています」

そう話す田中社長に文庫革の魅力を聞いてみると、
次のような答えが返ってきました。

「文庫革は『迷って選んで使って楽しめる革工芸』だと思うんです。
人に見せたくなったり、また欲しくなったりする、
使っていて"楽しい!"と思えるものってなかなかないと思いませんか」

「お客様の手に渡って喜んでもらってこその
ものづくりだと思っています。
そのためにも、この程度でいい、ではなく、
今後も、もっともっと文庫革の良さを伝えていきたいですね」

もともと大切な物を仕舞っておくための箱に使われていた文庫革。

それは貴重品を大事に保管しておくための保護の意味合いだけでなく、
きっと大切な物だからこそ、好みのわくわくする柄に包んでおきたい
という人々の願いが込められていたのではないかと思います。

そして、その想いは、お財布や手帳、ブックカバーなど用途を広げながらも、
しっかりと現代に引き継がれていました。

銭湯の富士山ペンキ絵

2013年06月26日

長期間、日本を離れた時にお風呂に入りたくなる、
そんな経験をされたことはありませんか?

ハンガリーやアイスランドなど温泉のある国もありますが、
日本と違ってお風呂でお湯に浸かる習慣のない諸外国では、
浴室にバスタブがないこともほとんど。

日本人には当たり前のお風呂ですが、
日本におけるお風呂文化は、仏教とともに始まったといいます。

仏教では、沐浴の功徳を説き、汚れを洗うことは
仏に仕える者の大切な仕事と考えられており、
各家庭に浴室がなく、銭湯もなかった時代には、
人々は寺院にある"浴堂"と呼ばれる施設で入浴していたんだとか。

その後、庶民の憩いの場所として発展していった銭湯ですが、
銭湯といえば"富士山の絵"というイメージがあるのは私だけでしょうか?

そして、それは全国共通認識だと勝手に思い込んでいたのですが、
実は銭湯に富士山のペンキ絵があるのは、主に東京周辺なんだそう。

「好きな現代美術の作家さんが銭湯の絵をモチーフにしていたことから、
大学の卒業論文で銭湯のペンキ絵について調べました。
その時に初めて銭湯に行ってみたのですが、
湯気と絵の中の雲が一体化して見え、自分がまるで絵の中に入ったような、
そんな不思議な気分になりました」

そう話すのは、ペンキ絵師の田中みずきさん。

ペンキ絵の虜になった田中さんは、日本に2人しかいないといわれる
ペンキ絵師の一人、中島盛夫さんに21歳の時に弟子入りしました。

約10年の修業を経て、つい1ヵ月ほど前に独立したばかり。
日本で3人目、かつ、女性初のペンキ絵師です。

田中さんは、卒業論文執筆のために銭湯の研究家の本を読み、
銭湯に富士山の絵が描かれるようになったきっかけを知ったといいます。
それは、大正元年に神田にあった銭湯に、
静岡出身の画家が富士山を描いたことからペンキ絵が広まったという記述でした。

田中さんいわく、富士山のペンキ絵が東京で定着した理由の一つには、
近世・近代の江戸・東京で、富士山型の大きな模型を
愛でる文化があったからではないか、とのこと。

江戸時代半ば、江戸とその周辺地域では、
富士山を信仰する"富士講(ふじこう)"と呼ばれる講社が流行り、
富士山を模した富士塚を作ってお参りをしました。

江戸時代の名所絵の中にも、
江戸を描きながら富士山が描かれているものもあります。

江戸・東京周辺の人にとっての憧れであった富士山を描いたペンキ絵ですが、
時間の経過で劣化し、随時メンテナンスが必要なことから
いつしかタイルなどに変わっていきました。

また、自宅にお風呂があるのが当たり前の現代においては、
銭湯自体も減少しているのが現状です。

「銭湯のペンキ絵を、銭湯を、どうにか残していきたい!」

そう考えた田中さんは、同じ想いを持つ別の2人とともに、
2010年に「銭湯振興舎」を設立し、イベントを開催するなど、銭湯の魅力を発信。

富士山のペンキ絵発祥の地、神田がある千代田区には
現在4軒の銭湯がありますが、
2010年時点で1軒もペンキ絵が描かれていなかったことから
田中さんたちは銭湯にペンキ絵を描かせてくれるようにお願いして回りました。

その方法がまた斬新で、銭湯周辺の飲食店などから
ペンキ絵の中に広告を掲載してもらい、
その広告費でペンキ絵の費用を賄うというものでした。
実はこれは、昭和において一般的なシステムだったんだとか。

「銭湯広告は地域と銭湯のかかわりを強める良いチャンス」と田中さんは捉え、
自ら地域企業に営業をかけて、見事、広告システムを復活させました。

後日、この広告システムを使って、
田中さんが新しくペンキ絵を描くと聞きつけ、現場の銭湯を訪れました。

千代田区の「稲荷湯」は昭和30年にオープンした銭湯で、
皇居に近い立地のため、ランナーの利用が多いそう。

オーナーのご夫妻は、ペンキ絵の復活に対して、以下のように話していました。

「近所のおじいちゃん・おばあちゃんは"懐かしい"と喜んでくれました。
ランナーの若い人には、銭湯に絵があること自体が斬新だったようですね。
あと、男湯・女湯によって絵が異なるので、後で話題になる」

当日は朝8時から現場での作業開始。
まず、足場を組んだり、ペンキを準備したり。

ここで驚いたのが、使うペンキは「赤・青・黄・白」の4色なんです。
この4色を混ぜ合わせることで、すべての色を表現できるといいます。

そして、田中さんが描き始めてハッとしたのが、
てっきり元の絵を白く塗りつぶしてから白い壁に描いていくのかと思いきや、
元の絵の上から描き始めたではないですか!

田中さんは初めに、モチーフのだいたいの位置を線で描いてから、
そこから一気に描いていきます。

ローラーを使って、大胆に空と雲を描いていく田中さん。

自身で以前に描いたスカイツリーも瞬く間に雲の中へ消えていき、
新たな富士山が徐々に姿を現します。

富士山の他に何を描くかにルールはないのでしょうか?

気になって聞いてみると、

「宮城県の松島や石川県の能登の見附島を描くケースも多いですが、
一般的なペンキ絵では、富士山の下には実在しない場所を描くことが多いんです。
お風呂のお湯と連動させてか、水のある海や湖、滝を描くことが多いですね」

と田中さん。

田中さんが銭湯の壁と向い合うこと12時間ほど。

そこに見えたのは、皇居の周りを走るランナーとともに表現された
新しい富士山のペンキ絵でした。

最後に日付を入れ、オーナーに促されてからサインを入れて完成!

「ペンキ絵は、自分が描きたい、描きたくないではなく、
銭湯の個性につながる空間を作るお手伝いとして描いています。
最終的には見ている人の絵になってほしいので、自分の絵だとは思っていません」

田中さんがサインを入れることに躊躇した理由は、これでした。

最後に、とても謙虚な田中さんに、ペンキ絵を描くにあたり
大切にしていることを伺いました。

「自分が"職人"であることを常に自覚していたいと思っています。
個性を出すのではなく、求められるものに応えていけるようにしたい。
古典的なペンキ絵は型があるからこそアレンジが利くと思っていて、
それをつなげていきたいと思います」

世界遺産の富士山をモチーフにした、銭湯のペンキ絵。
それは江戸文化のひとつであり、外国人が日本を感じる日本の文化でもあります。

そんな文化を守り、未来へ続くものにするために奮闘する
ペンキ絵師・田中さんに続く担い手が、近い将来出てくることを願います。

※2013年7月21日(日)にMUJI新宿
田中さんのライブペインティングを行う予定です。お楽しみに!

築地の仲買人

2013年05月29日

人々が寝静まるころ、活気づきはじめる町、
銀座から目と鼻の先にある東京都中央卸売市場「築地市場」。

荷物運搬用のターレーがびゅんびゅんと飛ばす先には、
深夜にもかかわらず各地で水揚げされた水産物が、
次々に搬入されてくる光景がありました。

この築地市場はもともと、昭和10年(1935年)に
日本橋にあった魚市場と京橋にあった青物市場が移転し誕生。

都内に11ある東京都中央卸売市場のうち、最も古い歴史を持ち、
特に水産物については世界最大級の取り扱い規模を誇ります。

高台から築地市場を拝むと、扇形の建物に囲まれているのが分かりますが、
かつて、ここには線路が引かれ、
列車によって各地からの産品が運ばれてきたそうです。

老朽化のため、豊洲への移転も検討されているようですが、
都心の中心に構えるその様は、まさに中央卸売市場。

そこに集められる水産物は、全国はもちろんのこと、
世界で水揚げされた魚介類です。

ありとあらゆる水産物が取引される築地市場は、
他の市場で取引するにあたっての参考となる価格が決まる
建値市場としての役割も果たしているそうです。

「ここには、世界中の水産物マーケットの縮図があります。
証券取引所じゃないけど、築地が崩れたら他の市場にも影響が出る」

そう話すのは、築地の仲卸業者「音幸」の見市哲也さん。

さかのぼること江戸時代から、漁業に関わる家系に生まれた
生粋の水産物仲買人です。

築地では、各地で水揚げされた水産物を取り扱う「大卸」がいて、
そこから買い付ける「仲卸」が、スーパーや飲食店へと卸しています。

「最近じゃスーパーのバイヤーも直接、築地に買い付けに来ることもありますが、
ここでは魚の目利きが勝負。仲買人は、その目利き力が信用につながる」

アジ一匹に対しても、見市さんの鋭い眼光が光ります。
ただ、それでもさばいてみるまでは分からないのが生き物の性(さが)。

そこは、大卸とのコミュニケーションで、魚の良し悪しを見抜いていくんだそう。

男の世界らしい、快活なコミュニケーションには、
長年、積み上げられた信頼関係を感じます。

実際に音幸が仕入れたアジは、その信頼関係に裏打ちされた逸品でした。

そして、明け方5時過ぎ。
築地の舞台は、マグロのせり市へと移っていきます。

せり場へは基本、このタグを付けた業者以外は入場することができません。

しかし、外国人観光客からの見学希望者が多いため、
朝5時に配布される整理券を獲得できた先着120名のみ、
特別に見学することが許されます。
訪れた日も、明け方3時には定員に達するほどの人気ぶりでした。

せりが始まるまでのあいだ、バイヤーはその日の入荷状況や、鮮度、品質を見定め、
あらかじめ買いたい品物を選び、価格を見積もる姿がありました。

今年も年初めに史上最高値を更新した青森県大間産をはじめ、
アジア諸国、中南米、ヨーロッパと世界中の産地から届くわけですから、
日本がどれだけマグロの一大消費地なのかを実感します。

「カラーン、カラーン、カラーン」

一斉に奏でられる鈴音で、せりがスタート!

せり人の威勢のいいリズミカルな掛け声のもと、
あれよあれよとマグロが売られていきます。

気付けばものの10分ほどで、100本は優に超えるマグロがさばかれ、
次々と戦利品は運び出されていきました。

持ち場へ届けられたマグロは、職人たちの手によって一気に解体され、

最終的には切身となって、
寿司屋をはじめとした飲食店や魚屋、スーパーに並ぶのです。

普段、新鮮でおいしい魚に私たちがありつけるのは、
一般の人が寝静まるころに活動する、魚河岸の職人たちがいてこそなんですね。

最後に見市さんは魚河岸で働く想いを、こう語ってくれました。

「漁師、大卸、仲買人、バイヤー、飲食店…。
すべてが一体となって、はじめて成立する魚市場。
男社会で威勢の良い雰囲気ですが、そこには絶対的な信頼関係が大切なんです。
そして、もっと一般の顧客にも開かれていく必要がある。
四方を海に囲まれた日本の魚食文化を、これからも支えていきたいと思っています」

昼夜逆転した生活で、体力勝負の魚河岸の世界も、
人の想いと信頼関係で成り立っていることを知りました。

そして、豊洲への移転も検討されている築地市場は、
日本を代表する、より"開かれた"中央卸売市場として、
これからも発展していくことを願ってやみません。

無印良品のすべてがそこに!

2013年04月23日

無印良品の世界最大店舗「無印良品 有楽町」へ行ってきました!

3階建ての店内はとても広々としていて、
ほぼすべての商品が取りそろえられています。
他のお店ではあまり見かけなかったモノもたくさん♪
なんと、店内に"無印良品の家"までありました!

店内をぐるぐる見て回るだけでも、1日過ごせそうです。

そんな有楽町店の人気商品を店長に尋ねてみると…
しばらく考えてからこんな答えが返ってきました。

「平日はビジネスパーソンが中心。法人のお客様もいらっしゃいます。
一方、休日はガラッと客層が変わって、ほとんどがファミリー層。
外国人観光客にも来ていただいており、
場所柄、様々なお客様にご利用いただくので、人気商品も幅が広いですね」

他店舗では、女性服が男性服よりも人気が高いそうですが、
有楽町店では、ビジネスマンのお客様がスーツを買いに来られることも多いそう。

また、男女ともにビジネスパーソンに人気が高いのが、
限定店舗で展開している「MUJI Labo」。

無印良品の定番ラインの服よりも、少しデザインに遊びを持たせたもので、
素材や仕立てにも、よりこだわっているそうです。

綿には、農薬を使わない土地でできたオーガニックコットンを使用し、
トップスのファスナーと、すべてのボタンには、
回収されたペットボトルから作ったリサイクルポリエステルを使用していました。

続いて、ご家族連れに人気なのが、子供服や家具。

お子様用の「こども広場」には、
国内杉で作られた"スギコダマ"と呼ばれる木のイスもあり、
お子様が遊んで待っていられるようになっています。

さらに、外国人観光客にも大人気のこんなサービスも!

無印良品のシンプルな文具に自由に押せるスタンプです☆
日本を象徴するこけしや富士山などもあり、みんな夢中になって押していました。
やってみると、確かに楽しくてついつい押し過ぎて、
センスのなさ丸出しになってしまいましたが…。

商品では展開しきれない無印良品の考え方を伝える、
情報発信スペース「ATELIER MUJI」では、
"人と生活とモノ"を見つめる企画展を随時、実施。

訪れたタイミングには雑誌『POPEYE』とのコラボで、
自分の手で紡ぎだす「Handcrafted Life 手を動かそうよ展」が開催されていました。
※「Handcrafted Life 手を動かそうよ展」は4月21日(日)までで終了しています

有楽町店へ訪れると、あれも、これも、それまで!と、
改めて無印良品の商品展開の広さを実感します。

そう思いながらお店を後にしたら、
日比谷公園近くで自転車に乗った外国人観光客を見かけました。
よくよく見てみると…

その自転車には「無印良品 有楽町」と書いてあるではないですか!
有楽町店では、レンタサイクルも可能なんですね!!
東京観光にとっても便利ですね♪

Found MUJI 青山

このキャラバンをスタートさせた「Found MUJI 青山」へ、
約1年ぶりに来訪。

Found MUJIとは、永く、すたれることなく活かされてきた日用品を、
世界中から探し出し、それを生活や文化、習慣の変化にあわせて少しだけ改良し、
適正な価格で再生して販売する取り組みのこと。

その活動の起点がこの青山店であり、
Found MUJIの商品すべてを結集した場所でもあります。

私たちもこのキャラバンで、いくつかFound MUJIの産地も巡らせてもらい、
改めてこの場で商品を見ると、我が子を見るようなうれしい気持ちになりました。

どれも逸品ばかりですが、Found MUJI 青山での人気商品を聞くと、
「これなんです」と教えてくださったのは、
昔ながらの"お道具箱"を彷彿とさせるボックスでした。

「これはもともと、フランスで公文書を保管するための箱で、
一つひとつ、手作りなんですよ。
工場の創業者の名前にちなんで『コシャーさんの箱』と呼ばれているんです」

と店長が説明してくださいました。
なんでも一般向けに販売されているのは日本が初めてとか!

店長の個人的なお気に入りはこちらだそう。

「これは、ドイツのベジタブルブラシなんです。
ドイツにはマイスター制度があるので、一般的にハンドメイド品は高いんですが、
これらはハンディキャップのある方たちの作業所で作られているので、
価格もお求めやすいんですよ」

一つひとつの商品の裏にあるストーリーを丁寧に説明してくださり、
どれも欲しくなってしまいました。

また、最後にこんな興味深いお話も。

「このお店に携わるようになって、私自身の"Found"にもなりました。
福岡県の日田市にある祖父母の家には、小鹿焼の器があって。
昔は何とも思っていなかったんですが、
先日祖父母の家に遊びに行った時に、いろいろと話を聞いてみました。
そうしたら、私の家系にも職人さんがいたことが分かったんです」

私たちが普段なにげなく使っている日用品にも、
必ずそのモノが作られるようになった背景があり、
そして、そのモノを手掛けた作り手の想いが詰まっています。

今日、その手で持ったモノがいつ・どこで・誰によって作られたものなのか。
想像してみるだけで、違った世界が見えてくるかもしれません。

スローライフを追求する

2013年04月22日

今ではすっかり定着した「スローライフ」という言葉。

この言葉の根底にあるのは、1989年にイタリアで始まったスローフード運動だそう。
大量生産・効率優先のファストフードに対して、
「地元の食材や文化を大事にしよう…」と唱えられました。

そして、その考え方をくらし全般に取り入れたのがスローライフです。

日本でスローライフという言葉が使われるようになったのは
2001年前後からといわれていますが、
同年、スローライフを追求するための場所として誕生した、
1軒のカフェがありました。

府中市で生まれ、現在は国分寺駅から徒歩5分の場所にある、
「カフェスロー」へ。

平日の開店前からお店の前には人だかりがあり、
開店後、店内にはお子様連れの方たちをはじめ、すぐに満席になりました。

「スローとは遅さという時間の概念だけではなく、
自然や人・地域とのつながりを取り戻すという意味です。
カフェはいわば手段で、ここからどれだけ情報を発信できるかでしょう」

と、カフェスロー代表の吉岡淳(あつし)さんは話します。

吉岡さんは日本ユネスコ協会連盟元事務局長であり、
世界平和の促進と教育・環境・文化の国際協力を進めるユネスコNGOで
30年間働いてきました。

「NGOの活動は、資金の確保が最大の業務で持続可能ではなかった。
もともと私はファストな人間で、日々朝から晩までハードに働き、
ふと自分の生活を見た時に、仕事とくらしがつながってないなと思ったんです」

そんな折、吉岡さんに転機が訪れます。
当時、住んでいた府中市の市長選出馬へのオファーでした。

悩んだ末に、ユネスコの仕事を辞めて出馬した吉岡さんでしたが、あえなく落選。

吉岡さんはそこで、「どんなに立派な言葉や公約を並べても、
候補者自身の存在が有権者に信頼感や安心感を与えられなければ票につながらない。
地に足の着かない言葉は人の心に響かない」
ということを学んだといいます。

久しぶりに自由に過ごせる時間を持った吉岡さんは、
これまで出掛けたことのなかった地域へと旅に出ました。
そこで出会ったのが、自分たちも地球に負担をかけない生活を営んでいる、
カリフォルニアの環境運動家の若者たちでした。

「言っていることと、やっていることを一致させてこそ本物だ」

そう感じた吉岡さんは、地域の中でカフェを開き、
そこを拠点に活動していくことを決め、カフェスローをオープンさせました。

"安心安全で安らげる場所であり、情報が得られる場所"
を目指して作られたカフェスローでは、
関東近郊で採れ放射線検査をパスした、
安全で新鮮な食材を使った手作り料理を提供したり、

生産者の暮らし方が分かり、
フェアトレードという物語のある生活雑貨や食品などを販売したりしています。

また、毎週金曜日の夜には、店内の電気を消して
蜜蝋ろうそくの灯りで営業する「暗闇カフェ」を実施。

他にも、食材の生産者のトークライブを開催したり、
様々なイベントを行っています。

「世の中、2割以上の人が意思すれば世界は変わる。
世の中には情報があふれているけど、人々が本当に欲しい情報は探さないとない」
と吉岡さん。

カフェスローでは、上記の他に、お客様に情報を届ける
こんな工夫を見ることができました。

「知ることからはじめよう」と書かれた、閲覧本のコーナーや、

「つづくたねの野菜メニュー」と題した、
全国の在来種を使ったプレートを提供された際には、
"種"について知ることのできるペーパーが添えられていました。

さらに、カフェスローでは、
お金を稼がないと何もできない生活に疑問を呈し、
人と人の信頼を活かせる「地域通貨」の導入も行っています。

「オープンしてから13年。ようやく周りに認知されてきたところです。
多店舗展開ではなく、"続けること"が大事。
ここがつぶれたら『スロームーブメントはそんなものか』
といわれてしまいますから。
Small is beautiful.奇をてらうことをやるよりも、
人々が求めているものの半歩先を行くことを大切にしたいですね」

最後に印象的だったのが、吉岡さんのこの言葉です。

「今の時代どこに住んでいても安心安全なわけではない。
場所によって右往左往するのではなく、
今いる場所で自分のくらしを見つめ直すことが、スローライフの第一歩」

4月に新生活をスタートさせた人も多いなか、
今一度、自分のくらしについて立ち止まって考えてみてはどうでしょうか?

東京の山をキレイに

2013年04月18日

これまで何度か林業に携わる方のお話を伺ってきましたが、
「東京で林業に携わる若手チームがいる」
そんな噂を各地で耳にしました。

東京の最西端、西多摩郡檜原村(ひのはらむら)は約9割が山という環境で、
そこで活動する「東京チェンソーズ」は平均年齢36歳というから、
いろんな意味で驚かされました。

6人のメンバーは皆、父親が林業をやっていて仕方なく…
というのではなく、自ら志願して林業の世界に入った人たちです。

代表の青木亮輔さんは、高校時代からキャンプをしたり、
自転車旅をしたりするアウトドア派で、
「探検部」のある大学に入り、日々、誰も行ったことのない場所へ行き調査する、
というワイルドな学生生活を送っていたそう。

卒業後、青木さんは電話営業の仕事に就いたものの、
やはり体を動かす仕事をしたいと退職。

「将来ずっと続けていくには、林業はいいかもしれない」
そう思って、大学で学んでいた林業の世界へ飛び込んだといいます。

東京都森林組合の緊急雇用に応募し、そのまま職員となった青木さんですが、
「自分たちの働く環境をもっとよくしたい」と、
同じ組合にいた仲間たちと、2006年に独立。

「林業は天候に左右される仕事なので、これまで日給月給制でしたが、
それを月給制でできないかチャレンジしてみようと思いました。
『林業は不景気だから仕方ない…』
と上司はよく言っていましたが、それでは何も変わらない」

青木さんたちは、森林組合の下請けの仕事からスタートし、
続いて、公共事業の入札にも参加するように。
しかし、入札制に対して、青木さんは次のように語ります。

「林業は作業単価が昔から低いんです。
農業・林業は食べるためになくてはならないけど、
林業は今なくなっても誰も困らない…。
入札制で価格競争になると、手入れがおろそかになりかねない。
本来は地域の作業員が自分たちで手入れをする方がいいんです」

最近は、他地域の事業者が檜原村の作業をするようにもなり、
林業が地域密着とはいえなくなってきたといいます。

「地域の人に理解してもらおう! 地域に根差した企業にならないと!」
と、コツコツ信頼を積み重ねてきた東京チェンソーズは、
今では山主から直接仕事をもらえるようになりました。

「林業って銀行のような仕事。山(=お金)を預かっているのと同じですから。
責任は大きいけど、今後も直接仕事をもらえるようにしていきたい」
と青木さん。

そして、そのために、まずは自分たちの存在を知ってもらいたい
とFacebookやTwitterを通じて積極的に情報発信をしています。

元ライターで、東京チェンソーズの広報も担当する木田正人さんは、
「東京チェンソーズをキッカケに東京の山について知ってほしい」
と話します。

東京チェンソーズでは、日々の活動内容の発信はもちろん、

「チェンソーボーイズコレクション」と題して、
作業姿の写真をメンバーが個人的に公開したり、
一般の人が林業に親しみを持てるようにしています。

また、普段なにげなく見ているだけの木に触れ、登ることによって、
よりいっそう木を身近に感じてもらおうと、
"ツリークライミング体験会"も開催。

これまで"育林"を中心に行ってきた東京チェンソーズですが、
今後は間伐材を利用していくフェーズに。

「昔は日本の木が育っていなかったために、外材を使っていましたが、
国産材が育った今はそれを使う方がいい。
木も他の農産物と同様、輸送費が少なく、その地域に合った木が育っているから
本来"地産地消"がいいんです。
東京の木を使えば東京の山がキレイになりますからね」
と青木さん。

私たちの身の回りには木材製品がたくさんありますが、
それがどこで育った木なのか、誰が手入れをして切り出した木なのか、
そうしたことを考えてみることが、林業を知る初めの一歩かもしれません。

砂糖革命

2013年04月17日

ふと目にした瞬間「かわいい!」と感じた
このカラフルなキューブ。

「MARUKICHI SUGAR CUBES」

雑誌で見かけて以来、気になっていたのですが、
これなんと砂糖なんです。

これまでの道中、塩、醤油、味噌、酢など、
数多くの日本の調味料を紹介してまいりましたが、
砂糖については、なかなか出会う機会がありませんでした。

それもそのはずで、
1997年に専売制が解かれた塩は、各地で生産が始まっていましたが、
砂糖については、実はまだ国の保護下にあるんです。

「砂糖業界は啓蒙が上手くない。故に適切な情報が伝わっていないと思います。
知られているようで、意外と知られていないのが"砂糖"なんです」

そう語るのは、昭和29年創業の日本橋にある砂糖問屋、
竹内商店の代表取締役、竹内信一さん。
上のシュガーキューブの開発者です。

「スーパーの調味料売り場に行くと、塩をはじめ他の調味料はたくさん並んでいますが、
砂糖だけ種類が少ないでしょう。砂糖売り場は哀愁が漂っている、なんて言われました。
業務用が大半を占める砂糖業界は、消費者向けもほとんど進化してこなかったんです」

印刷会社の企画営業を経て、父親の会社に入社した竹内さんは、
旧態依然とした砂糖の業界に驚いたと振り返ります。

それまで付加価値を追求する仕事が当たり前だったなか、
確実に仕事を進める力だけが求められ、定時に上がれる仕事に不安を感じる毎日。

そんななか世間は健康食ブームになり、いつしか砂糖は悪者扱いされるように…。

「このままじゃうちの会社の未来、ましてや砂糖業界の未来はない」

そう感じていた竹内さんの元に、原料糖の精製メーカー、
和田製糖が新しい砂糖を開発したという話が舞い込みます。

それは、原料に沖縄産サトウキビのみを用いた砂糖。

"本当に和の香りのする砂糖"という意味から
「本和香糖(ほんわかとう)」と名付けられていました。

砂糖には大きく、糖蜜を含んだ"含蜜糖"と、
糖蜜を分離させた"分蜜糖"に分けられますが、
この本和香糖は"含蜜糖"に含まれます。

いずれも原料は、サトウキビ。
サトウキビから精製された原料糖には、糖蜜などの不純物が含まれています。
沖縄などでは「黒糖」と呼ばれ、おやつのように食べることもありますが、
調理には雑味と捉えられることもあり、
不純物を分離した分蜜糖が多く流通しているのです。

グラニュー糖などの、見た目が白い砂糖は、
不純物がほとんど除去された糖分99.9%に近い分蜜糖といえます。

この本和香糖は、沖縄産の原料糖から糖蜜以外の不純物のみを除去した含蜜糖。
ミネラル分や風味を残した砂糖で、当時、世の中にはほとんど流通していませんでした。

「当時は藁にもすがる思いでしたね。
砂糖の新しい形を見せるには、本和香糖しかない!って思いました」

竹内さんは、和田製糖とともに業務用のみならず、消費者用にも展開を開始。

ただ、消費者用の売り上げがいくら伸びても
業務用が大半の売り上げを占める砂糖業界においては微々たるもので、
なかなか両社が一枚岩で取り組んでいくのは困難でした。

しかし、「ここでやらなきゃ誰がやる」と
竹内社長は独自ブランドの立ち上げに打って出ます。

それが、会社の屋号を冠にした「MARUKICHI SUGAR」です。

砂糖の卸し問屋としての立場を最大限活かし、
産地ごとに色みの異なる含蜜糖をバリエーション化。
風味の違いを楽しめる砂糖として、世に送り出していったのです。

「商品化も一筋縄ではいきませんでした。
いかんせん、問屋ですからやったことのない領域でしたからね。
ただ、一目で"これ何!?"って興味を持ってもらう仕立てにしたかった」

そこで活かされたのが、前職での経験とネットワークでした。

竹内さんの想いに呼応した元同僚たちが集い、
企画から生産までを一手に担える体制が整います。

竹内さんとともに事業を進める長澤智之さん(写真左)は、

「砂糖業界はまだまだ未成熟。その分、やり甲斐がある。
昔、貴重品として贈答品にされていたような砂糖を、現代に再現したい」

と、その想いを語ります。

生産を担う鈴木清隆さん(写真右)は、
奥さんとともに試行錯誤を繰り返しながら、生産効率の向上を目指しています。

「自分で作ったものが世の中に出せる喜び。愛着が湧きますよね」

鈴木さんは、仲間と一緒に世の中に新たな価値を仕掛けることに、
何よりの楽しみを感じているようでした。

「何でも過剰摂取は良くありませんが、
脳のエネルギー源になるのは、ブドウ糖のみなんです。
カロリーが高いといわれる砂糖は、1g当たりのカロリーは小麦とほぼ同じ4kcal」

竹内さんは、砂糖に対する正しい世の理解を得るために、
現在では、調味料マイスターの講座の講師などを務め、
様々な場面で、砂糖についての講演をして回っています。

「お菓子を作るにも、砂糖の種類を変えれば味は変わる。
風味豊かなおいしい砂糖があることを知ってもらいたいです。
そして、いつかはサトウキビから栽培してみたいですね」

TPPで揺れる日本の砂糖業界において、竹内商店は業界の救世主となるのか。

ただ、その活動によって、
砂糖の可能性が広がりつつあることに間違いありません。

FabLab(ファブラボ)

2013年04月16日

何でもお金で買う時代から、自分で作る時代へ。

そんな"セルフビルド"を提唱する動きが、
岡山のニシアワーの取り組みや、滋賀のどっぽ村などをはじめとして、
全国各地で始まっていました。

特に3.11以降、生きていくための力を身に付けることの大切さが見直され、
その動きが加速しているように感じます。

そうは言っても、ものづくりは
小学校の"図工"の授業以来やってないし、工具も持ってない。
私も含め、そんな方も多いのではないでしょうか?

そんな人たちにうってつけの場づくりが、
首都圏を皮切りに始まっていました。

「FabLab(ファブラボ)」

"個人による自由なものづくりの可能性を広げるための実験工房"のことで、
2002年にボストンのマサチューセッツ工科大学で始まりました。

日本では11年に鎌倉とつくばで同時スタートし、
昨年3番目の国内拠点が渋谷にオープン。

都心型の実験工房とは一体どんな場所なのか…?
FabLab渋谷を覗きに行ってきました!

中に入るとそこには、3Dプリンターやレーザーカッター、

刺繍ミシンなど、様々な工作機械が。

「これまで、こうした工作機械は"作る人"の元にあるものでした。
FabLabではこうした機械の利用機会をオープンに提供することで、
子供から専門家まで"使う人"が自由にものづくりできる環境を創出しているんです」

FabLab渋谷の代表、梅澤さんは、この場の意義をそう語ります。

現に、ちょうど私たちが訪れたタイミングには、
春休み中の子供たちが3Dプリンターでおもちゃを制作中でした。

3Dプリンターと聞くと、聞こえは難しいですが、
3Dプリントのためのデータサンプルはインターネット上で共有されているようで、
それをプリンターに指示するだけというシンプルな操作!

試しに3Dプリンターで作ってみたというハートを、
5歳の女の子が嬉しそうに見せてくれました。

おもちゃも制作工程から見たら、愛着が湧きますよね☆

こんな子供たちに刺激を受け、私たちも何か作ってみようと、
レーザーカッターを使ったオリジナルノート制作に挑んでみました!

といっても、梅澤さんに多くをサポートいただきながらですが…。

ノートをセットし、「MUJIキャラバン」のロゴデータを
PCに読み込んで、レーザーカッターに送信。

すると、小さな閃光を放ちながら、2分と経たないうちに、
ノート表紙にMUJIキャラバンのロゴをカットしてくれました!

カット部分をくりぬけば、無印良品のシンプルなノート(写真右)が、
MUJIキャラバンのオリジナルノート(写真左)に様変わり!

ちょっと手を加えるだけで、
オリジナルの1点ものが生まれるなんて嬉しいですね!

他にも、FabLab渋谷ではスマートフォンカバーから、
オリジナルのコースターまで、様々なものが作られていました。

「FabLabは自発力を形成する場。頭の中のものをできるだけ形にしてもらいたい。
そのためのサポートはします」

と、梅澤さんは語ります。

今や世界200カ所に広がるFabLab。
驚いたのは、その運営はそれぞれ独立しており、
理念と一定のガイドライン(FabLab憲章)を守れば、
どこでもFabLabを始めることができること。

アメリカでは国策で今後3年以内に
1000の小学校にFabLabを導入される予定だそうです。

こうした次世代のものづくりのインフラが各地に広がっていけば、
一人ひとりがクリエーターになりえますね。

そのために、まずはちょっとした身の回り品から、
試しに自分で作ってみるのもよいかもしれません。

江戸切子

2013年04月15日

今や東京を、そして日本を代表する工芸品のひとつ、
「江戸切子」。

国内のみならず、海外からの評価も高いこのカットガラスは、
東京スカイツリーのお膝元、墨田区・江東区を中心に作られています。

その美しさを国内外に発信し続ける1899年創業の老舗、
墨田区にある「廣田硝子」を訪ねました。

「もともとは江戸のビードロ問屋が輸入品を模してカットガラスを始めたんです。
後にヨーロッパから技法が導入され発展していきました。
ただ、今やヨーロッパのものと比べても、日本人の繊細さが光っていますよ」

廣田硝子会長、廣田達夫さんが、
切子について丁寧に教えてくださいました。

日本には、私たちも以前鹿児島で見た「薩摩切子」(写真左)と
今回東京で出会った「江戸切子」(写真右)があります。

薩摩藩主、島津家の保護のもとで、優美さを追求していった薩摩切子に対し、
江戸切子は、あくまでも庶民のための切子として発展していった様子。

江戸切子も薩摩切子も作り方はほぼ同じです。
透明硝子の上に色硝子を被せ、回転する円盤状のダイヤモンドの刃に
ガラスを当てて、削って模様をつけていきます。

薄い硝子を同じ深さで削っていくわけなので
繊細な力加減と技術が必要で、失敗のきかない作業です。

「日常使いの江戸切子。一品ものではなく、ある程度の量産が求められます。
同じものを幾つも作れる技術が必要。
一日中作業できるように、手に力を入れすぎないようにも気をつけています」

その道21年の切子士、川井更造さんはそう話します。

そして、廣田会長が何よりも大切と語るのが、磨きの工程。

「最近じゃ手磨きの代わりに、薬品を使って仕上げてしまうところも多い。
ただ、最後の磨きで、質の高さが保たれるんです」

効率だけにとらわれすぎないものづくりが、ここにもありました。

しかし、分業制という江戸切子の生産現場では、実はこんな課題がありました。
硝子の生地を作る会社が現在2軒に減ってしまっているというのです。
そんななか、廣田硝子では切子のさらなる可能性を探り、こんな技術も開発。

一見普通の切子と変わらないこの文鎮(ぶんちん)は、
なんと色硝子の代わりに会津漆を使ったものでした。

また、長男で4代目の廣田達朗さんは、新たな顧客層を狙って、
新鋭のデザイナーと組み、
伝統的文様をよりモダンに昇華させたデザインを施した
「蓋ちょこ」を生み出しました。

これは国内外から評価を受け、類いまれな江戸切子の繊細さと可能性を
今一度、実感しなおしているそうです。

他にも、ランプシェードや、窓ガラスにも展開。

「江戸切子は庶民の手によって製作されてきたもの。
作品ではなく使ってもらえるものを作り続けていきたい」

その廣田会長の言葉通り、
ホットドリンクも飲める耐熱性の江戸切子も開発されていました。

そんな江戸切子を使ってコーヒーが飲めるカフェを、
次男の廣田英朗さんが運営しています。

スカイツリーのそばに佇む「すみだ珈琲」。

自家焙煎のコーヒーを、江戸切子で飲むことができるんです。

なんとも贅沢ですね♪

英朗さんは、

「家族でこうした歴史ある産業にかかわれていることが幸せ」

と語ります。

この旅でも、多く触れてきた伝統工芸。

それは観賞用としてではなく、日用品として使われることによって、
よりその時代に合わせて磨かれていくことを、
最後の東京、江戸切子で再認識しました。

そのためにも、私たち消費者が身近にあるモノづくりに
今一度、目を向けてみることが大切かもしれません。