銭湯の富士山ペンキ絵
長期間、日本を離れた時にお風呂に入りたくなる、
そんな経験をされたことはありませんか?
ハンガリーやアイスランドなど温泉のある国もありますが、
日本と違ってお風呂でお湯に浸かる習慣のない諸外国では、
浴室にバスタブがないこともほとんど。
日本人には当たり前のお風呂ですが、
日本におけるお風呂文化は、仏教とともに始まったといいます。
仏教では、沐浴の功徳を説き、汚れを洗うことは
仏に仕える者の大切な仕事と考えられており、
各家庭に浴室がなく、銭湯もなかった時代には、
人々は寺院にある"浴堂"と呼ばれる施設で入浴していたんだとか。
その後、庶民の憩いの場所として発展していった銭湯ですが、
銭湯といえば"富士山の絵"というイメージがあるのは私だけでしょうか?
そして、それは全国共通認識だと勝手に思い込んでいたのですが、
実は銭湯に富士山のペンキ絵があるのは、主に東京周辺なんだそう。
「好きな現代美術の作家さんが銭湯の絵をモチーフにしていたことから、
大学の卒業論文で銭湯のペンキ絵について調べました。
その時に初めて銭湯に行ってみたのですが、
湯気と絵の中の雲が一体化して見え、自分がまるで絵の中に入ったような、
そんな不思議な気分になりました」
そう話すのは、ペンキ絵師の田中みずきさん。
ペンキ絵の虜になった田中さんは、日本に2人しかいないといわれる
ペンキ絵師の一人、中島盛夫さんに21歳の時に弟子入りしました。
約10年の修業を経て、つい1ヵ月ほど前に独立したばかり。
日本で3人目、かつ、女性初のペンキ絵師です。
田中さんは、卒業論文執筆のために銭湯の研究家の本を読み、
銭湯に富士山の絵が描かれるようになったきっかけを知ったといいます。
それは、大正元年に神田にあった銭湯に、
静岡出身の画家が富士山を描いたことからペンキ絵が広まったという記述でした。
田中さんいわく、富士山のペンキ絵が東京で定着した理由の一つには、
近世・近代の江戸・東京で、富士山型の大きな模型を
愛でる文化があったからではないか、とのこと。
江戸時代半ば、江戸とその周辺地域では、
富士山を信仰する"富士講(ふじこう)"と呼ばれる講社が流行り、
富士山を模した富士塚を作ってお参りをしました。
江戸時代の名所絵の中にも、
江戸を描きながら富士山が描かれているものもあります。
江戸・東京周辺の人にとっての憧れであった富士山を描いたペンキ絵ですが、
時間の経過で劣化し、随時メンテナンスが必要なことから
いつしかタイルなどに変わっていきました。
また、自宅にお風呂があるのが当たり前の現代においては、
銭湯自体も減少しているのが現状です。
「銭湯のペンキ絵を、銭湯を、どうにか残していきたい!」
そう考えた田中さんは、同じ想いを持つ別の2人とともに、
2010年に「銭湯振興舎」を設立し、イベントを開催するなど、銭湯の魅力を発信。
富士山のペンキ絵発祥の地、神田がある千代田区には
現在4軒の銭湯がありますが、
2010年時点で1軒もペンキ絵が描かれていなかったことから
田中さんたちは銭湯にペンキ絵を描かせてくれるようにお願いして回りました。
その方法がまた斬新で、銭湯周辺の飲食店などから
ペンキ絵の中に広告を掲載してもらい、
その広告費でペンキ絵の費用を賄うというものでした。
実はこれは、昭和において一般的なシステムだったんだとか。
「銭湯広告は地域と銭湯のかかわりを強める良いチャンス」と田中さんは捉え、
自ら地域企業に営業をかけて、見事、広告システムを復活させました。
後日、この広告システムを使って、
田中さんが新しくペンキ絵を描くと聞きつけ、現場の銭湯を訪れました。
千代田区の「稲荷湯」は昭和30年にオープンした銭湯で、
皇居に近い立地のため、ランナーの利用が多いそう。
オーナーのご夫妻は、ペンキ絵の復活に対して、以下のように話していました。
「近所のおじいちゃん・おばあちゃんは"懐かしい"と喜んでくれました。
ランナーの若い人には、銭湯に絵があること自体が斬新だったようですね。
あと、男湯・女湯によって絵が異なるので、後で話題になる」
当日は朝8時から現場での作業開始。
まず、足場を組んだり、ペンキを準備したり。
ここで驚いたのが、使うペンキは「赤・青・黄・白」の4色なんです。
この4色を混ぜ合わせることで、すべての色を表現できるといいます。
そして、田中さんが描き始めてハッとしたのが、
てっきり元の絵を白く塗りつぶしてから白い壁に描いていくのかと思いきや、
元の絵の上から描き始めたではないですか!
田中さんは初めに、モチーフのだいたいの位置を線で描いてから、
そこから一気に描いていきます。
ローラーを使って、大胆に空と雲を描いていく田中さん。
自身で以前に描いたスカイツリーも瞬く間に雲の中へ消えていき、
新たな富士山が徐々に姿を現します。
富士山の他に何を描くかにルールはないのでしょうか?
気になって聞いてみると、
「宮城県の松島や石川県の能登の見附島を描くケースも多いですが、
一般的なペンキ絵では、富士山の下には実在しない場所を描くことが多いんです。
お風呂のお湯と連動させてか、水のある海や湖、滝を描くことが多いですね」
と田中さん。
田中さんが銭湯の壁と向い合うこと12時間ほど。
そこに見えたのは、皇居の周りを走るランナーとともに表現された
新しい富士山のペンキ絵でした。
最後に日付を入れ、オーナーに促されてからサインを入れて完成!
「ペンキ絵は、自分が描きたい、描きたくないではなく、
銭湯の個性につながる空間を作るお手伝いとして描いています。
最終的には見ている人の絵になってほしいので、自分の絵だとは思っていません」
田中さんがサインを入れることに躊躇した理由は、これでした。
最後に、とても謙虚な田中さんに、ペンキ絵を描くにあたり
大切にしていることを伺いました。
「自分が"職人"であることを常に自覚していたいと思っています。
個性を出すのではなく、求められるものに応えていけるようにしたい。
古典的なペンキ絵は型があるからこそアレンジが利くと思っていて、
それをつなげていきたいと思います」
世界遺産の富士山をモチーフにした、銭湯のペンキ絵。
それは江戸文化のひとつであり、外国人が日本を感じる日本の文化でもあります。
そんな文化を守り、未来へ続くものにするために奮闘する
ペンキ絵師・田中さんに続く担い手が、近い将来出てくることを願います。
※2013年7月21日(日)にMUJI新宿で
田中さんのライブペインティングを行う予定です。お楽しみに!